第七章 曹華伝四十一 砦の惨状
※残酷描写あり。
裏門の前に立ったとき、冷たい風が吹き抜け、煤の匂いと共に、胸の奥底を掻きむしるような悪臭が漂ってきた。
扉の隙間から見える砦内部は、黒く焼け焦げ、壁は炭のように崩れ落ちかけている。だが、それ以上に――想像するのも恐ろしい「何か」が奥に待ち受けているのは明らかだった。
私は息を詰め、隣にいる白玲を見やった。
あれほど金城国の砦攻めのとき、互いに一歩も譲らぬ意地を燃やした相手。その白玲もまた、今は眉を寄せ、目を伏せている。
この惨状を前にしては、どんな対抗心も意味をなさない。
兵たちの足は止まり、吐き気を堪える声が聞こえた。
砦に踏み込むこと――それは武勇の試練ではなく、心をえぐる試練になると、全員が悟っていた。
沈黙の中、私は意を決して口を開いた。
「……砦の内部、正直気が引けるが、私が行く」
兵たちが一斉に顔を上げる。白玲もまた驚いたように目を見開いた。
「ですが……曹華殿、自ら――」
私は首を横に振った。
「全員で入るのは危険だ。何かが潜んでいたら、全滅しかねない。白玲殿、あなたには砦の外周を調べてもらいたい。生き残りが隠れているかもしれない。そして……この異常を天鳳将軍に報告するための伝令を、至急出してほしい」
一瞬の沈黙の後、白玲は唇を結び、深く頷いた。
「……わかりました。天鳳将軍への伝令は、私の責任で必ず届けさせます」
その声は凛としていて、先ほどまでの戸惑いを打ち消す力強さがあった。
私の隊の兵たちも、互いに目を合わせ、小さく拳を握りしめた。
誰もが恐怖を抱えている。それでも、指揮官が先に立つなら、自分たちも後に続こうと決意しているのが伝わってきた。
「……覚悟はできているか?」
問いかけると、兵たちは一様に頷いた。
その顔には蒼白さと、しかし確かな決意があった。
焦げ臭さが一層強まり、裏門の先に何が待っているのかを思うだけで、胸がざわつく。
けれど、私は進まねばならない。
白玲の瞳が、最後に私を射抜いた。
そこには驚きと、そして敬意が混ざった色が宿っていた。
「曹華殿――どうか、ご武運を」
私は短く頷き、背の紫叡に軽く手を添えた。
鬣がかすかに揺れ、紫叡は静かに嘶いた。
共に歩むべき覚悟を、馬までもが分かち合っているようだった。
――砦の内部。
そこには地獄が待っているかもしれない。
だが、避けることはできない。
覚悟を固めた私は、部下たちとともに裏門から砦へ足を踏み入れた。
その瞬間、鼻を衝く刺激に思わず息が詰まる。――見慣れた戦場の死臭とは、まるで違った。
視界に広がったのは、黒く炭化した「もの」だった。
かつては人間であったろう塊が、床に張り付くように残っている。壁際には焼け落ちた甲冑が散らばり、その周囲の石壁には炭のような黒ずみが広がっていた。
「……うっ」
若い兵が堪えきれず嘔吐した。吐瀉物が石畳に広がる音がやけに鮮明に響く。
視界だけならば、まだ耐えられる。だが、問題は臭いだった。
腐乱の甘ったるい悪臭と、焦げ付いた肉の刺すような臭気が、肺の奥へと容赦なく流れ込む。
誰もが、これが“人の肉”であると理解していた。だが、その事実を口にした者は一人もいなかった。
「……進め」
私は喉を焼くような臭気に耐えながら、声を絞り出した。
背後の兵たちは互いに目を逸らし、顔を布で覆いながら、広間を抜けるように歩みを進める。
焦げ跡に覆われた廊下を進むと、突き当たりが崩れて外光が差し込んでいた。
中庭に出た瞬間、わずかに風が流れ込み、あの悪臭が薄らいだ。
兵たちは一斉に大きく息を吐き、誰もが膝に手をついて荒い呼吸を繰り返した。
「……はぁ……はぁ……」
「助かった……風が……」
安堵の吐息が洩れる。だが、大半の者は限界ぎりぎりだった。中には、武人としての矜持を忘れ、涙目で震える兵もいる。
私自身も吐き気を必死に押さえていた。
――この砦で、いったい何が起きたというのか。
兵糧庫が燃えただけではない。ここにいた守備隊は、一体残らず、地獄の炎に呑まれたのか。
焦げ付いた壁を指でなぞると、黒い粉が指先に残る。
それはただの煤ではなく、血と肉が混ざり焼き付いた跡だと直感した。
私は奥歯を噛み締めた。
「……これが、ただの奇襲で済むはずがない」
背後に黒龍宗の影がちらついた。
ただ敵を殺すのではない。人を焼き、跡形もなく奪い去る――その冷酷さと徹底は、彼らのやり口に他ならない。
中庭の静けさは、不気味なほどに深い。
風が通り過ぎるたび、崩れた木戸がきしむ音だけが響いた。
私は深呼吸し、兵たちを振り返った。
「……ここで立ち止まるな。まだ終わっていない。生き残りがいる可能性もある。気を抜くな」
兵たちは力強く頷いた。
たとえ吐き気に顔を歪めても、その瞳は消えてはいなかった。
私は槍を握り直し、再び歩を進めた。
この砦の真実を見届けるために。
私は剣の柄に手をかけ、一歩、闇の中へ足を踏み入れる覚悟を固めた。




