第七章 曹華伝三十九 帰還の途
制圧した金城国の砦を後にし、私と白玲は蒼龍国側の砦へ向けて行軍を開始した。行軍といっても、実際には後退に近い。だが「撤退」と思わせぬよう、我らはあくまで進軍の体裁を保ち、兵たちの士気を下げぬよう努めていた。
道は林に囲まれた細道。草葉のざわめきや鳥の声が、普段なら心を落ち着かせるだろう。しかしこの日ばかりは、どこから敵が現れるか分からぬ気配に、兵たちは槍を固く握り、目を細めて進んでいた。
私の愛馬、紫叡が鼻を鳴らす。薄紫の鬣が木漏れ日を浴びてかすかに光り、その瞳は真っ直ぐ前を射抜いている。気高い気性を備えた牝馬は、私の声に応えるように地を蹴った。
「頼むぞ、紫叡。お前と共に必ず戻る」
私はそう呟き、背を撫でた。紫叡の温もりが指先に伝わると、不思議と胸に力が湧いてくる。
敵兵の影を恐れつつ進んだが、奇妙なほど遭遇はなかった。拍子抜けするほどの静けさ。兵たちの間に安堵と不安が交互に揺らぎ、それは私や白玲の胸にも影を落とした。
蒼龍国側の砦が近づき、丘を越えれば目前というところで、我々は小休止を取った。周囲に斥候を放ち、その戻りを待つ間、私は白玲に言った。
「当初の伝令では……補給庫は炎上し、守備隊は壊滅と聞いていたが」
「ええ。ですが、あれほどの炎上なら、このあたりにも煙や煤の痕跡が残っているはずです。……報告が誇張されたか、あるいは誤情報かもしれません」
白玲の落ち着いた声音は、緊張を隠してはいなかった。私も無意識に唇を噛む。伝令の言葉が誤りであってほしい――そんな願いが胸をかすめた。
ほどなくして、斥候が駆け戻ってきた。砂埃を上げて馬を止め、肩で息をしながら膝を突き、報告を始める。
「報告いたします! 砦の兵糧庫と思しき建物には炎上の形跡がございます! 屋根の一部は黒く焦げております。しかし――砦全体は崩壊しておりません! 城壁も健在、門も破られておりません。ただ……人の気配が無く、生き残りがいるかどうかは遠目では分かりませんでした!」
その場に沈黙が落ちた。炎上したのは確かだが、砦そのものは健在――。壊滅したという伝令の報告と齟齬が大きすぎる。
私は白玲と視線を交わした。互いの瞳の奥に同じ答えがあった。
「……見に行くしかないな」
「ええ。砦の中を確かめなければ始まりません」
決意はすぐに一致した。私は紫叡の鬣に手を掛け、再び跨がる。
「全員、警戒を怠るな! 罠かもしれぬ。砦に入るぞ!」
声を張ると、兵たちが槍を掲げる。恐れを押し殺し、忠義を胸に固める音が聞こえるようだった。
丘を登り切り、視界の先に砦の姿が現れる。黒ずんだ屋根の一角、焦げ跡が確かに見えた。だが城壁は立ち、門は口を閉ざしている。
――不気味な静寂。
人の声も、鍛冶の音も、見張りの気配すらない。
まるで砦そのものが眠っているかのように、ただ黙して私たちを待っていた。
私は槍を握り直し、息を呑んだ。ここから先が、本当の試練だ。




