第七章 曹華伝三十七 沈黙を破る白陵国
砦の大広間には、重苦しい沈黙が漂っていた。油の灯がゆらめき、壁に映る影は不気味に揺れる。その中心で、天鳳将軍は皇帝から届けられた封書を手にしていた。
鮮やかな朱の封蝋には、紛れもなく泰延帝の紋章が刻まれている。伝令兵の声はまだ耳に残っていた。
「……天鳳将軍! 本国より――泰延帝より緊急の報せです!」
兵も将も、誰もが息を呑んで天鳳将軍を見つめていた。趙将隊長も、私も、碧蘭も白玲も。そして麗月将軍でさえ、その表情に緊張を隠せない。
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天鳳将軍は無駄な仕草をせず、ただ静かに封を切った。紙を広げる音すら、広間に響き渡る。
その眼差しは常と変わらず冷徹で、封書を読み込む姿はまるで戦場の布陣を解析しているかのようだった。
しばし沈黙が続いた後、天鳳は顔を上げた。その視線が麗月将軍に向けられる。
「麗月将軍。皇帝からの直書だ。謹んで読まれよ」
差し出された封書を両手で受け取り、麗月は深々と頭を垂れた。
「……謹んで拝読いたします」
彼女は格式張った口調でそう言い、視線を落とした。だがその目元は僅かに揺れていた。
数行を追っただけで、麗月の眉がわずかに歪む。読み進めるごとに、その顔は苦渋に歪み、やがて封書を閉じて天鳳へ返した。
その表情を見た全員が悟った。――これは、只事ではない。
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天鳳将軍は皆を見渡し、重々しく口を開いた。
「……白陵国が南進を始め、天脊山脈の峠の麓に大軍を集結させている。蒼龍国の国境警備隊が発見し、急ぎ報せを送った。泰延帝は急ぎ影雷将軍と土虎将軍を北に急行させたとのことだ」
広間の空気が一変した。
天脊山脈は帝峰大陸を南北に隔てる天然の壁。その合間に、いくつか軍が通行できる峠が存在する。その一つに白陵国の兵が集結しているという。
麗月将軍は一瞬、目を見開いた。
(……おかしい。黒龍宗は白陵国を動かすつもりなどないと聞いていたはず……。それなのに……)
彼女の内心に疑念が走る。だが動揺を隠すため、表情を整え、努めて冷静に頷いた。
「……泰延帝の命、承知いたしました」
しかし、その一瞬の揺らぎを曹華も、碧蘭も、白玲も確かに見逃さなかった。
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天鳳は封書の続きを声に出す。
「…そして、金城国への侵攻部隊は、情勢を見定めつつ行動せよ。撤退も視野に入れ、最終的な判断は天鳳将軍に一任する。ただし――これ以上の金城国への深入りは慎め、とのことだ」
その言葉に、場はざわめいた。泰延帝が「撤退」を示唆することは、すなわち金城戦がもはや大局の中心ではなくなったことを意味する。
今や最大の脅威は北から迫る白陵国だった。
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天鳳は封書を机に置き、深く息を吐いた。
「……撤退するにしても、蒼龍国側の拠点の安全性が確保されない限り、我々は下手に動けぬ」
声は落ち着いていた。だがその響きには、揺るがぬ決意があった。
「曹華、白玲」
名を呼ばれた瞬間、私は胸が跳ねた。白玲の表情もまたわずかに強張った。
「お前たちの部隊を差し向ける。蒼龍国側の拠点の安全性を可及的速やかに確保せよ」
私と白玲は即座に膝をつき、声を揃えた。
「はっ!」
天鳳の眼光はさらに鋭さを増す。
「残る部隊は漸次、蒼龍国へ後退する。ただし――撤退を勘付かれぬよう慎重にだ。幸い、兵糧の備蓄はある。時間は稼げる」
その言葉に場の全員が押し黙った。挟撃の可能性を全員が理解していたからだ。
誰も軽々しく口を開かず、ただそれぞれの胸に重責を刻んだ。
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私は槍の柄を握り締め、心を整えた。
天鳳将軍の声は冷たいが、その冷徹さは兵を守るための理でもある。
(父を討った敵……。けれど、いま私をここまで導いてくれた人でもある。私が死に急がず、鍛えられたのは、この人の采配ゆえだ)
その瞬間、私は悟った。
この任務は試練であると同時に、信頼の証なのだ。
白玲が隣で静かに頷いたのを見て、私は確信した。――これは私と彼女に与えられた、運命の戦場だ。
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しかし、その裏で――。
麗月将軍は冷静さを装いつつも、わずかに震える指先を隠しきれていなかった。
黒龍宗からは、白陵国の動きについて何も聞かされていない。
(……どういうことだ? なぜ、何も知らされていなかった……?)
その動揺を、曹華も碧蘭も白玲も、はっきりと感じ取っていた。
一方の天鳳は、まるでそれを見抜いたかのように、ただ冷静沈着であり続けた。
「兵糧も水も、砦の備蓄はまだ余裕がある。焦ることはない。だが撤退を勘付かれぬよう、慎重に行動するのだ。」
全員が押し黙った。
――白陵国の影が北から迫り、金城国との戦いが続く西では不穏な火種がくすぶっている。
二正面の危機。
帝峰大陸の命運が、大きく揺れ動こうとしていた。




