第五章 白華・興華伝二十七 雪嶺大将
白陵京北部。峻険なる城壁に守護された軍本営の一角、質素極まる石造りの執務室。そこには、うず高く積み上げられた軍議の草案や、各地の物見から届けられた緊急報告の巻物がひしめき合っていた。壁にはかつての激戦で奪い取った敵軍の旗印が無言で垂れ下がり、厚い床板は数多の武人たちの足音によって滑らかに磨り減っている。
その中央、重厚な木机を前に座すのが、白陵国軍の全権を掌握する大将――雪嶺である。山岳の如き威容を誇る巨体、胸元まで届く白き長髭。老将と呼ばれる齢にありながら、その眼差しには、なお戦場の霧の向こう側を射抜く鋭さが宿っていた。
「……柏林王族の、遺児、だと?」
机上に広げられた密書を読み終え、雪嶺は地鳴りのような低音で呟いた。彗天と氷雨、二人の腹心が名を連ねた報告。傍らに控える副官は、その言葉の重みに息を呑み、静止したまま沈黙を守る。
「荒唐無稽。……だが」
雪嶺は文を置き、深く椅子に身を沈めた。
「あの実直な二人が揃って虚言を上申するとは思えん。それだけで、もはや一考だにせず切り捨てることは叶わぬ」
老将の脳裏に、主君・氷陵帝の姿が浮かぶ。
清廉にして誠実なる君主。だが、近年その決断には微かな翳りが差し始めていた。宮廷の深奥で広がりつつある、目に見えぬ「綻び」。
そして――大陸を影から蝕む黒龍宗の不気味な蠢き。
「陛下を惑わす火種は、燎原の火となる前に摘まねばならん」
雪嶺の分厚い眉が、わずかに動いた。
(凍昊……あの男の周辺に漂う腐臭も、最早看過できぬ)
確たる証拠はない。だが、幾多の死線を越えてきた戦場の嗅覚は、理屈よりも先に致命的な危険を告げていた。もしこの事態に黒龍宗が関与しているならば、この「柏林王族」の名は、単なる流言飛語では終わらぬ国家の危急となろう。
「……陛下へ言上する前に、この儂が真偽を確かめる」
雪嶺が立ち上がった。
その巨躯が動くだけで、執務室内の空気の密度が劇的に変化する。
「馬を引け。直ちに国境の要塞へ向かう」
副官は短く一礼し、嵐の如き勢いで外へと駆け出した。
数騎の近衛を従え、雪嶺は南へと続く山道を疾走した。雪解け水が飛沫を上げる川沿いを、荒い馬蹄の音が硬い地を打つ。冷徹な北風が鎧の隙間を吹き抜け、吐き出される息は瞬時に白く凍りついた。
「柏林王族……」
二十六年前に灰燼に帰したはずの名。それを、今になって再び耳にする因縁。
「黒龍宗が執念深く追い続けた禁忌の血筋……」
もしそれが真実ならば、一介の浮浪者の生死では済まぬ。北方の均衡そのものを根底から揺るがす特異点だ。雪嶺は天を仰ぎ、静かに肺腑の空気を吐き出した。
(ならば、なおさら目を逸らすわけにはいかぬ。白陵を護る盾としてな)
老将の眼差しは、既に峻烈なる決断に澄み渡っていた。
陽光が西の稜線に傾き始めた頃、雪嶺一行は国境の詰め所へと到着した。石造りの小要塞は、大将の到来を予感していたかのような異様な緊張に包まれている。
雪嶺の姿を認めた瞬間、整列していた兵士たちは波が引くように一斉に跪いた。鎧の金具が触れ合う硬質な音が重なり合う。彗天中将と氷雨中将が駆け寄り、深々と頭を垂れた。
「大将、直々のお出まし……痛み入ります!」
雪嶺は豪放に笑ってみせたが、その双眸だけは一切の温度を失っていた。
「二人の報告、一字一句漏らさず読ませてもらった。目を疑ったぞ」
一歩、地を踏みしめる。
「だがな。真か偽か――斯様な重大事、紙の上でなぞ決まりはせん」
彗天が答える。
「現在、二人は糾問所に拘留中。配置を倍にし、監視を徹底しております」
氷雨が静かに付け加えた。
「……虚偽を語る眼には見えませんでした。ですが、我らの手に余るのも事実です」
「ならば尚更だ」
雪嶺は短く頷いた。
「儂が直に観る。兵に告げよ――この雪嶺が、これより件の者を直接検分するとな」
重厚な足音が、石造りの廊下に地響きの如く響き渡る。
扉の前には精鋭の兵士が立ち並び、槍を構えて背筋を伸ばしていた。その厚い扉の向こう側に、白華と興華がいる。
雪嶺は扉の前で歩を止めた。
「……柏林の血を称する者たちよ」
低く、しかし逃げ場のない、断罪の如き声。
「貴様らが何者か――この雪嶺の眼で、一分の狂いもなく見定めさせてもらうぞ」
その一言に、扉の向こうで姉弟の鼓動が、確かに激しく跳ねた。
だが同時に――運命を懸けた真実の舞台は、ついに整えられたのであった。
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