第五章 白華・興華伝二十七 雪嶺大将
白陵京の北部、厚き城壁に囲まれた軍本営。
質素な石造りの執務室に、ひときわ重い空気が漂っていた。積み上げられた軍議の文書、戦地から送られた報告の巻物。壁には戦場で奪い取った旗印が掛かり、床板は幾度もの足音で擦り減っている。
その中央に座す雪嶺大将は、山岳の如き巨体を誇る老将であった。髭は白く、声は雷鳴のように響くが、その眼差しには百戦を越えてなお衰えぬ精緻な光が宿っていた。
「……柏林国の王族、生き残りだと?」
机に広げられた彗天と氷雨の書簡。その文を読み終えた雪嶺は、呻くように呟いた。副官は息を呑み、返答を控えた。
「馬鹿げた話よ。しかし、あの二人が揃って報告を寄越す……それだけで無視できぬ事案だ」
雪嶺は深く椅子に沈み、腕を組んだ。脳裏を過ぎるのは、帝の顔であった。
氷陵帝──第二十六代白帝。誠実で清廉な君主として知られるが、この数年は陰りが濃くなっている。決断の瞬間、かすかな迷いを覗かせることが増え、宮廷内でも小さな囁きが飛び交っていた。
「陛下を惑わせる火種は、最小限で抑えねばならん。黒龍宗……奴らの影は、未だ払えぬ」
雪嶺は思い出す。部下の一人、凍昊中将の奇妙な言動。証拠こそ掴めぬが、黒龍宗と内通しているとしか思えぬ臭いがあった。もし彼が絡んでいるなら、この「柏林王族の生き残り」という噂もまた、ただの虚言では終わらぬ。
「陛下にすぐ報告すべきか……いや、その前に、儂が確かめねば」
雪嶺は立ち上がった。豪胆な巨躯が執務室を揺らすように響く。
「馬を用意せよ。儂が国境の詰め所へ赴く」
副官が一礼して駆け出した。
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雪嶺は数騎の近衛を従え、雪解け水の川沿いを進んだ。
馬蹄が凍った土を踏み砕き、冷たい風が鎧の隙間を吹き抜ける。
「柏林王族……二十六年前に滅んだはずの名を、今になって耳にするとはな」
彼は天を仰ぎ、深い息を吐いた。
「黒龍宗が追い求め続けた血筋……もし本当に生き延びているなら、この国の命運を揺るがす」
道中、雪嶺の胸中には重いものが沈んでいた。だが、戦場を幾度も潜り抜けた男の眼差しは、すでに決意で澄んでいた。
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日が傾き始めた頃、雪嶺一行は国境の詰め所に到着した。
石造りの小砦は、緊張した兵士たちで溢れていた。雪嶺大将の到着に、兵らは一斉に跪き、鎧の金具がぶつかり合う音が響く。
彗天中将と氷雨中将が駆けつけ、深々と頭を垂れた。
「大将、わざわざ直々に……!」
雪嶺は豪快に笑いながらも、その目だけは冷厳に光っていた。
「二人の報告を読んだ。儂の目を疑ったぞ。……だが、事実かどうか、この目で確かめねばならん」
「はっ。現在、二人は取り調べ室に拘留しております。監視も強化し、逃げ場はありません」
氷雨が言葉を添えた。
「彼らは確かに、柏林王族を名乗りました。嘘には見えません。ですが……」
「だが、虚言ならば即刻処断せねばならん、ということか」
雪嶺は頷き、低く唸った。
「儂が見極める。兵らに告げよ──儂が取り調べを行うとな」
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雪嶺は重い足音を響かせながら、石造りの廊下を進んだ。
扉の前には数人の兵士が立ち、背筋を正して槍を構える。中には、白華と興華が待っていた。
「……さて、柏林の亡霊どもよ。何者か、この雪嶺の眼で見定めてやろう」
雪嶺の声は低く、だが雷鳴のように響いた。
その響きに、扉の向こうで息を潜める姉弟の心臓が、わずかに跳ね上がった。




