第一章五 迫りくる戦火
その夜、私は興華を抱きしめながら、
戸の隙間から父と母、そして白華が話している様子をじっと見ていた。
灯明の揺らめきが三人の横顔を照らし、
その影が壁に伸びては揺れる。
低く抑えた声で語られていたのは――
家族が、離れ離れになるかもしれないという、
耐え難いほど現実的な“別れ”の話だった。
けれどその時の私は、
なぜこの小さな山村が狙われるのか、
まったく理解できなかった。
ただ、部屋の空気を満たす不安と緊張に、
息をするのも苦しいほどだった。
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――後になって、私は知ることになる。
私たちの村が、どれほど危うい場所にあったのかを。
当時、大陸の覇権を狙っていた強国・蒼龍国は、
我が故郷・翠林国への侵略を密かに進めていた。
翠林国は山と森に囲まれた小国で、軍事力は決して強くない。
しかし、国の東西を隔てる連山のただ一箇所――
険しい峰々の合間を縫う“古道”が、
唯一大軍が通行できる道だった。
その古道の入り口に位置していたのが、私たちの村だった。
周囲を高い崖と密林に囲まれ、
もし砦を築けば、まさに天然の要塞となる。
蒼龍国はそこに目をつけたのだ。
表向きは敗残兵を装った偵察隊。
だが実際は、侵攻の足がかりを築くための先鋒部隊だった。
父が感じた“違和感”――
それは、敵の策略そのものだった。
彼らはあえて目立つ場所に野営し、
村人たちに「ただの盗賊だ」と思わせるよう仕向けていた。
その裏で、さらに多くの兵が山の麓に潜んでいたのだ。
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翌朝、村は異様なほど静まり返っていた。
鳥の声すら聞こえず、風が木々を揺らす音だけが耳に残る。
誰もが胸の奥で何かを悟っていた。
男たちは武具を磨き、女たちは子どもを家の奥へ避難させ、
母は白華と共に非常用の荷をまとめていた。
その日の夕刻。
赤く沈む陽の下、村の見張り台に立っていた父の声が響いた。
「――来たぞ。」
山道の向こうに、
黒い列がゆっくりと姿を現した。
鎧の隙間から反射する鉄の光、
槍先に結ばれた黒い旗――蒼龍国の紋章。
その列はまるで山を呑み込む影のように、
じわり、じわりと村の入り口を塞いでいった。
村人たちは息を潜め、
誰もが声を発することすらできなかった。
私の背中で、興華の小さな手が震えている。
私はその手を握り返した。
けれど、その震えは止まらなかった。
やがて、先頭の兵が一歩、村の境界を踏み越えた。
その瞬間、
父の指示で見張り台の警鐘が鳴り響いた。
高く、鋭く、山々に反響するその音は、
私たちの“平穏な日々”の終わりを告げる合図だった。
――そして、翠林の空に、最初の炎が上がった。




