第四章 白華・興華伝十七 憎悪の妹・姉(三)
湖畔に張り詰めた空気は、なおも凍りつくように重かった。
思念体の曹華は、なおも憎悪に濁った瞳で白華と興華を見据えていた。槍こそ取り落としていたが、その手は血に飢えた獣のように震え、今にも再び武器を呼び戻さんとする殺気を放っている。
白華は冷静に、しかし胸の奥の震えを押し殺して言葉を紡いだ。
「興華! 彼女の槍は憎悪から生まれている! でも憎悪は、情の裏返し……! 奥に眠っている情に触れなさい!」
白華は即座に認識阻害の道術を弟の身体へ流し込み、その意識を研ぎ澄ませた。
「今のあなたならできるわ。槍を折るんじゃない、心を抱きとめるの」
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興華は大きく息を吸い込み、仙杖を握り直した。白華の術が流れ込むと、全身の気脈が透き通るように明晰になり、迷いが消えていく。
「分かった、白華姉さん。僕は……曹華姉さんを、救う!」
興華は疾風のごとく駆け出した。だが、その突撃はこれまでのような殺伐とした剣戟ではなかった。
彼は全霊の霊力を仙杖の刃先ではなく、掌へと集め、その光を曹華の胸、心臓の位置に向けて解き放つ。
「曹華姉さん……僕たちを護ってくれて、ありがとう!」
その声は叫びではなく、祈りに近かった。
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掌から溢れた光は、鋭い刃ではなく、温かな波紋となって曹華の胸に広がった。
憎悪に塗り固められた思念体の顔が、わずかに歪む。
「う……あぁ……」
その瞳に、初めて違う色が差した。憎しみの赤ではなく、涙のように澄んだ光。
白華が即座に叫ぶ。
「そうよ興華! そのまま押し流して! 憎しみじゃなく、愛で包むの!」
興華はさらに霊力を解き放ち、両腕で曹華の体を抱きとめるように押し込んだ。
槍を握り締めていたはずの曹華の指が、力なくほどけていく。
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憎悪の奔流が鎮まるにつれ、曹華の姿は穏やかな光に包まれていった。
彼女は最後に、白華と興華を抱きしめるように両腕を広げ――そのまま淡い霧となって霧散していく。
無数の光の粒が湖畔に舞い降り、夜明けの空に溶けていった。
その光景は、妹の魂が安らぎを取り戻し、二人の胸に未来への道を残したように見えた。
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長い沈黙の後、玄翁がゆっくりと口を開いた。
「……見事じゃ、白華、興華」
老仙の声音には、これまでになく柔らかさがあった。
「そなたらは、『殺さずに救う道』を見つけ出した。その力は、もはや儂が教えるべき域を超えておる」
玄翁は二人を静かに見つめ、深い感慨を込めて続けた。
「情を恐れるな。情を斬り捨てては闇に呑まれる。だが、情を憎悪に変えるのでもなく、情を情のままに力へと昇華する。……それこそが、正しき仙道の理よ」
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戦いの反動で力尽き、興華はその場に崩れ落ちた。
白華は弟を抱きとめ、震える肩を強く抱きしめる。
「興華……よくやったわ。あなたのおかげで、曹華は救われた」
「うん……でも、まだ終わってない。今度は、本物の曹華姉さんを……必ず」
興華の声は弱々しかったが、その瞳には決して消えない炎が宿っていた。
白華は頷き、弟の手を固く握った。
「ええ。必ず救うわ。たとえ、どんな憎悪に覆われていても」
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玄翁は立ち上がり、夜明けの湖を背に告げる。
「これで修行は終わりじゃ。そなたらは、すでに自らの道を見つけた。後は歩むだけ。白華、興華……旅立ちの刻が迫っておる」
湖畔に漂う光の粒が、二人の決意を祝福するように瞬いていた。
こうして白華と興華は、肉親の情と仙道の理を胸に刻み、次なる運命――北への旅立ちへと歩み始めるのだった。




