第三章 白華・興華伝九 思念の術
天脊山脈の奥深く。風の音すら遠ざかった静寂の湖畔にある隠れ家で、白華と興華は、今日も仙道の修練に励んでいた。五年の歳月は、姉弟の心身を大きく変え、知恵と仙術を確かなものとして根付かせていた。
その日の夕刻、二人は玄翁に呼び出された。座敷に正座する二人を前に、玄翁は静かに目を細め、成長した姉弟を見やった後、穏やかな声で不意に告げた。
「白華よ、興華よ。……そなたらは今もなお、妹であり姉である曹華の行方を案じておるな」
胸を突かれる問いに、二人は言葉を失った。玄翁はそんな二人を見据えたまま、ゆっくりと続けた。
「儂の術のひとつに、強き思念を媒介とし、遠き者の居所や生死を探る術がある。想いが深ければ深いほど、その姿を映し出すことができる。――そなたらは知りたいか? 曹華の真なる行方を」
一瞬の沈黙の後、興華が勢いよく立ち上がった。十五歳の声はまだ幼さを残しつつも、確固たる意志に満ちていた。
「知りたいです! どんな真実でも、必ず知ります!」
だが白華は違った。口を開こうとしたものの、体は石のように固まり、声が出ない。脳裏に蘇るのは、あの夜から幾度も見続けてきた悪夢――牙們の槍に心臓を貫かれ、命の光を失った曹華の姿だった。もし玄翁の術が、その悪夢を現実として告げてしまったら……興華は壊れてしまうのではないか。自分は長姉として、受け止めきれるのか。白華の胸を恐怖が締めつけた。
そんな姉の手を、興華はそっと握った。驚いて振り向くと、弟は穏やかに笑んでいた。
「白華姉さん。大丈夫だよ。僕たちはこれだけ曹華姉さんを想っている。強い思念があれば、必ず見つけられるって玄翁様が言ったじゃないか。きっと生きてる。僕は信じる」
その真っ直ぐな瞳に、白華は胸を打たれた。恐怖に縛られ、弟に支えられているようでは、「知恵の盾」として興華を導く資格はない。白華の中で、揺れる感情が一気に凍りつき、冷ややかな決意が灯った。
「……玄翁様。どうかその術をお使いください。私たちの思念は、誰にも劣りません」
玄翁は深く頷き、静かに目を閉じた。
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白華と興華は瞼を閉じ、全ての想いを曹華へと向けた。五年間の離別、あの夜の血と炎の記憶、そして再会への祈り。その感情が渦となって心に集束していく。玄翁は両手を組み、低く呪の言葉を唱えた。
やがて二人の前の空間に、淡い靄が立ちのぼった。揺れる霞はやがて輪郭を持ち、人の姿へと変わっていく。そこに浮かび上がったのは――曹華だった。
彼女は村娘の衣ではなく、上質な練武着に身を包み、槍を手に訓練していた。鋭い突きは洗練され、刃のような気迫を放っている。五年前の無謀な少女は、そこにはいなかった。
「曹華姉さん……すごい……!」興華は目を輝かせた。
「でも、これはどこ……?」白華は周囲に映る石造りの壁や異国風の武具に目を凝らす。
すると景色が揺らぎ、曹華は今度は一人の男と向かい合っていた。長身にして優雅な威圧を纏い、漆黒の髪を流した将軍姿。歳は三十代半ばか。誰が見ても、ただ者ではない気配だった。
「あの男は……?」白華が問うと、玄翁は重く口を開いた。
「あれは蒼龍国五将軍筆頭――天鳳将軍じゃ」
その名に、白華も興華も凍りついた。父を討った憎き敵。その将軍の傍らで、曹華は確かに生き、強くなっている。
「曹華は……殺されてはいない。だが、あの男の駒として育てられておる」
玄翁の言葉が、姉弟の胸を鋭く抉った。安堵と絶望が入り混じる。生きている喜びと、父の仇の庇護下で強くなっているという残酷な現実。白華は深く唇を噛み、興華はただ拳を握りしめた。
曹華は生きている。だが、その生き方は、姉弟が願ったものとはまるで違っていた。




