第三章 曹華伝十 黒龍宗の告白
ある日、私は天鳳将軍の執務室で、かつての付き人のようにふるまっていた。山積する軍事資料を整理し、補給線の表をまとめ、茶を淹れて将軍に差し出す――そんな日常が、いつの間にか私の皮膚に馴染んでいた。鍛錬の日々で鍛えた手の感覚と、書物を読み貪った目の疲労が交互に襲う。だが、これもすべては復讐と再会のための糧だと、私は自分に言い聞かせていた。
天鳳将軍は筆を置き、重く息をついた。
「…曹華。お茶と菓子を持ってきてくれ」
「かしこまりました、天鳳将軍」
湯の温度を確かめ、菓子の皿を整え、静かに席に着いた。向かいの将軍は、いつもよりも僅かに肩の力が抜けているように見えた。暫しの静寂の後、彼がぽつりと口を開く。
「先日の五将軍との対面、感想を聞かせてくれ」
私は率直に、ありのままを答えた。牙們の執拗な憎悪、影雷と土虎の不穏な腹の内、そして麗月将軍の不自然な若さ――。言葉を紡ぐたびに、天鳳の表情は次第に険しくなっていった。やがて、彼は静かに身を乗り出し、低い声で核心を打ち明けた。
「お前の洞察は正しい。だが、それは表層に過ぎぬ。蒼龍国は表面だけの政争で動いているわけではない。裏には、我が国を深く蝕む組織――『黒龍宗』という邪道の集団が息づいている」
黒龍宗――その名は、私の胸に冷たいものを落とした。仙術、柏林王家に伝わる秘術。その言葉が口をついて出るだけで、幼い日の記憶と、父が語った断片が結びつく。
天鳳は続ける。
「牙們の狂気は、単なる個人的な憎悪ではない。彼は黒龍宗に染まり、『力こそが理』という歪んだ教義に心を奪われた。その教義は、血脈と仙術を求める。麗月の若さへの執着も、影雷や土虎の腹の底の不穏も、すべて黒龍宗の仕掛けた網だ。四将のうち、実に四人が何らかの形で彼らの手駒となっている」
私の心は、静かな恐れと怒りで満たされた。これまで街角で囁かれていた噂は、単なる噂に留まらず、蒼龍国の内奥を蝕む疫の芽であったのだ。
天鳳は湯を一口飲んでから、さらに重く言葉を紡いだ。
「私は、その疫を断つつもりだ。蒼龍国を根こそぎ滅ぼすか、あるいはその背後で糸を引く黒龍宗を徹底的に壊滅させるか。いずれにせよ、今のままではこの大陸に救いはない」
その言葉の重みに、私の復讐心は一瞬、薄まった。憎むべき相手の一人が、同じように世を変えんとする野望を抱いている――。敵である筈の男が、国を滅ぼすという途方もない青写真を語る。そのことは私に複雑な矛盾をもたらした。
天鳳の瞳が私を捕らえた。
「だが黒龍宗は大きい。根は深い。将軍五人のうち四人が既に手駒だ。正面から踏み込めば、私一人では潰し切れぬ。これが現実だ」
そして彼は、私の過去と血筋に目を向けた。
「お前が生きている理由を、今まで曖昧にしておいた。だが真実を言おう。お前が柏林の血筋であること、そしてその血が黒龍宗にとって何を意味するかを、我々は理解している。私がお前を拾ったのは偶然ではない。お前は『切り札』だ」
その告白は、私の胸に冷たい刃を突き刺した。天鳳はいままで何を計算し、何を期待していたのか。私に与えられた「価値」、剣と知と血統――全てが、彼の盤上の駒に過ぎなかったのか。
天鳳はさらに続けた。
「お前が持つもの――武の才、学んだ知略、そして王家に伝わる仙術の芽。それらは黒龍宗が欲するものだ。同時に、それは私がこの国を変えるために必要な『鍵』でもある。お前が五年間で示した価値は、単に将軍が一兵の忠実さを見抜いただけではない。将軍は利用する。だが、私は単に利用するだけの冷血漢でもない」
彼の声には、冷徹さの裏に微かな情念が混じっていた。それは、私がこれまで抱いていた天鳳への複雑な感情をさらに揺さぶった。
「そこで、曹華。選べ。私と共に黒龍宗を討つか――あるいはここで私を討ち、王族としての復讐を果たすか。どちらかだ」
天鳳の問いは、私の心を二つに割った。父への復讐か、大陸の救済か。どちらも望ましい選択肢に見えないが、どちらかを選ばねばならない現実がそこにある。
私は静かに息を吸い、刃のように研ぎ澄まされた感覚で答えを探った。胸の奥で、白華と興華の顔がちらつく。川岸での誓い、父の手渡した剣、そして五年にわたる血の努力――。そのすべてが私に告げる。
「天鳳将軍……私は、白華姉さんと興華を取り戻したい。復讐を果たしたい。ですが、もし黒龍宗がこのまま放置されれば、あの二人がとり返しのつかぬものになるかもしれません」
言葉は震えたが、私は続けた。
「今はまだ答えを一言で断じられません。ただ一つだけ――あなたの計画に加わるなら、私の目的は一つです。必ず最後は、この手であなたを討つ。たとえ同盟を組んだとしても、その時は必ず――それでも私は………天鳳将軍。……私、曹華は――将軍の駒として価値を示し、この大陸の闇を討つために生きます」
私の声は、低く硬かった。天鳳はじっと私を見つめ、わずかに笑ったような表情を浮かべたが、その笑みも刃のように冷たい。
「分かった。お前のその覚悟を買おう。ただし、私の計画は容易ではない。お前も己の身の内を知り、黒龍宗の影を一つずつ炙り出していかなければならぬ。覚悟があるなら、私はお前を使う。だが忘れるな――価値を失えば命も同然だ」
その言葉は脅しであり、約束であり、契約でもあった。私は、まるで暗い取引のようにその場で契約に手を差し伸べられた気がした。
天鳳将軍の告白は、私の世界を再編した。復讐は個人的な恨みから、より大きな正義への問いへと変わりつつある。だが私の剣の狙いはまだ一つ。いつかこの男を討ち、白華と興華と再会する――その日だけは、私の胸に確かに燃え続けている。




