第二章 白華・興華伝七 姉弟の誓い
白華は、興華と共に生き抜くため、そして妹・曹華との再会を果たすため、老仙・玄翁のもとで修行することを決意した。玄翁は、その決意を聞き、心の底から嬉しそうな顔をした。それは、まるで孫に対する祖父の愛情にも見える、温かい眼差しだった。
「とはいえ、さすがに疲れておるだろう。興華の湯浴みもさせてやらねばな。今日はゆっくり休んで、姉弟水入らずで過ごしなさい。明日はこの周辺や湖を案内しよう。本格的な修行は明後日からじゃ」
玄翁の言葉に甘え、興華は湯浴みへ、白華は付き添うことにした。
湯浴みから戻った興華は、用意された布団に横になった。白華が隣に座ると、興華は少し恥ずかしそうだったが、大好きな白華姉さんと一緒に過ごせることに、心底安堵していた。
「白華姉さん、ありがとう。僕、姉さんの言うことちゃんと聞いて、頑張って修行するよ」
興華の素直な言葉に、白華は胸が熱くなった。
「いいのよ、興華。あなたは、私たちが命懸けで守る、大切な弟なんだから」
興華は、安堵した表情から一転、不安そうな顔で白華を見上げた。
「ねえ、曹華姉さんはどうなったの? 僕たちを逃がすために、一人残ったんだよね……」
白華は、その問いにすぐに答えられなかった。あの時の光景が、鮮明に脳裏に蘇る。
曹華の決死の抵抗。泥にまみれ、血を流しながらも、父から託された剣を握りしめ、牙們の背中にしがみついた妹の姿。そして、川に飛び込む直前に見た、牙們の狂気的な怒号からの攻撃――。
「そんなに死に急ぐなら貴様から殺してやるわぁ!」という、獣の咆哮のような声、牙們が曹華を地面に叩きつけようとする姿を思い出すたび、白華の胸は締め付けられる思いだった。あの狂気の将軍の手に残された曹華が、無事でいるはずがない。
「曹華は……強いわ。それに、私たちと『必ず生きる』と約束した。あの牙們にだって、簡単にはやられないわ」
白華は、興華を強く抱きしめ、自分自身にも言い聞かせるように、その言葉を口にした。
その夜、白華は夢を見た。それは、あの日の悍ましい光景の、まるで続きのような、曹華が殺されてしまう夢だった。
夢の中で彼女は、再びあの川岸に立っていた。耳に響くのは濁流の轟音と、牙們の狂気的な笑い声。視界の端で、曹華が泥にまみれた顔を上げ、必死に父の剣を握りしめている。
だが次の瞬間、牙們の巨大な腕が曹華の首を掴み上げた。
「そんなに死に急ぐなら、貴様から殺してやるわぁ!」
獣の咆哮のような声と共に、曹華の体は宙に吊り上げられ、もがく手足が空を切る。白華は声を上げようとするが、喉からは掠れた空気しか出ない。足は地面に縫いつけられたように動かない。
牙們の剣が、ゆっくりと曹華の胸元へと向かっていく。その光景は残酷なほど鮮明だった。
「やめて……お願い……やめてえ!」
白華は叫んだ。だが、その声は牙們には届かない。
鋭い光が走り、剣が曹華の心臓を穿つ。
「っ……あ……」
痙攣する曹華の瞳から、光が失われていく。牙們は口の端が裂けるほどの笑みを浮かべ、曹華をまるで塵のように投げ捨てた。
地面に叩きつけられた曹華は、血に濡れた瞳で白華を見つめていた。
「……白華……姉さん……ごめん……生きて……」
掠れる声が確かに聞こえた瞬間、白華の胸を突き破るような絶望が襲った。彼女は必死に駆け寄ろうとするが、足は重く、全身が泥に沈むように動かない。
「いやぁぁぁ! 曹華ぁぁぁ!」
白華は絶叫し、飛び起きた。全身は冷たい汗に覆われ、心臓は破裂しそうなほど打ち鳴らしていた。視界は涙で滲み、隣に眠る興華が慌てて起き上がる。
「白華姉さん!どうしたの!」
白華は反射的に弟を抱きしめ、震える声で呟いた。
「……興華……あなたは絶対に護るわ……」
胸の奥には、妹を置き去りにした罪悪感と、自分を苛む恐怖が渦巻いていた。それでも白華は、興華だけは守り抜くと、自分を叱咤するように心に誓った。
白華の絶叫に飛び起きた興華は、泣きじゃくる姉の姿を初めて見た。
あの白華姉さんが――村でも誰よりも冷静で、どんな時でも毅然としていた白華姉さんが――今は子どものように取り乱して、自分に縋りついている。
「白華姉さん……」
小さな胸の奥に、熱いものが込み上げてきた。恐怖でも悲しみでもない。姉の涙を拭ってやりたい、護ってやりたいという強烈な想いだった。
白華は震える声で繰り返す。
「興華……あなたは絶対に護るわ……」
その言葉を聞いた瞬間、興華は幼いながらも悟った。
――自分はずっと護られてばかりだった。
姉たちに守られ、逃がされ、生き延びてきただけの存在だった。
しかし、このままでは駄目だ。
曹華姉さんの武の強さも、白華姉さんの知恵も、きっと自分にはない。けれど、自分には別の何かがある――川岸で姉を救った、あの時の「光」。あの力は、偶然ではなかったのかもしれない。
「……僕も、強くなるよ」
興華は震える声で、けれど確かな意志を込めて呟いた。
「護られるだけじゃなくて、僕も姉さんを護る。曹華姉さんが信じた剣みたいに、白華姉さんが信じる知恵みたいに……僕は、この体の奥にある力で、二人を守れるようになる」
白華は涙に濡れた瞳で弟を見た。その顔はまだ幼いが、言葉に込められた決意は、彼が確かに成長しようとしていることを示していた。
「……興華……」
白華は弟を再び抱きしめ、震える唇で「ありがとう」と小さく呟いた。
その夜、白華の悪夢は弟の決意によって薄れ、代わりに二人の心に新たな絆が強く刻まれた。
三姉弟の未来を繋ぐ、確かな光の芽生えだった。
読んでいただきありがとうございます。
面白い。期待できそう。など、
少しでも感じていただけたら評価してください。
よろしくお願いします。




