第一章十四 最後の抵抗と決断の奔流
牙們の憎悪の視線は、もはや倒れ伏す私ではなく――森の奥。
そこに潜む白華と興華へと向けられていた。
狂気に染まったその眼光は、あらゆる獲物を焼き尽くす焔のようで、逃げ場などないと告げていた。
「王族の血筋……。今度こそ、逃がしはしませんよ」
牙們の口元から洩れた声は、低く、確信に満ちていた。
その足が一歩、また一歩と森に近づくたび、私の胸は締め付けられた。
――このままでは、興華が殺される。白華まで巻き込んでしまう。
父に託された言葉が脳裏で響く。
「護ってやれ」――あの声だけが、私の体を再び動かした。
私は、地面に這いつくばりながら、血に濡れた剣を拾い上げた。
首元を掴まれた痕はまだ痛み、みぞおちの蹴りは呼吸を奪う。
全身は裂けるような激痛に苛まれていたが、最早、死の恐怖すら薄れていた。
ただ一つ――家族を護るという誓いだけが、私を縛り付けていた。
「行かせない!」
血を吐くような叫びと共に、私は剣を振りかざし、牙們の背に飛びかかった。
その声は、まるで炎のように夜の森を裂いた。
「――私は! 父と誓ったんだ! 家族を護ると!
白華と興華は、私が命に替えても護る!」
その叫びに、牙們は一瞬だけ足を止めた。
十四歳の小娘から発せられるとは思えぬ気迫。
その一瞬の圧力が、彼をもたじろがせた。
だが、その事実こそが牙們の怒りをさらに煮え滾らせた。
「この小娘がァ! そんなに死に急ぐなら、貴様から殺してやるわ!」
丁寧だった言葉遣いは完全に崩れ、牙們は獣のような怒号を上げた。
剣を放り捨て、私を掴み、地面に叩きつけようとする。
私は勝てない。それでも、牙們の腕に必死でしがみつき、剣を突き付けた。
その一秒一秒が、白華と興華の命を繋ぐ時間になると信じて――。
その隙に、白華は決断した。
彼女の瞳に、一瞬の迷いもなかった。
「……今しかない!」
白華は恐怖で硬直する興華を力強く抱きしめ、川岸へと駆け出した。
月光に照らされた川面は黒く渦を巻き、谷を削る激流が轟々と響いている。
飛び込めば助からぬ可能性が高い。だが、牙們の狂気に囚われれば、確実な死が待っている。
選べる道は、一つしかなかった。
「興華! 掴まって!」
「……姉さん!?」
興華の叫びをかき消すように、白華は最後に私へと叫んだ。
「――曹華! 必ず生きるのよ!」
その声には、決意と祈りと、妹への深い愛情が込められていた。
次の瞬間、白華は興華を抱えたまま、迷うことなく谷川へと身を投げた。
闇夜に白い水飛沫が散り、二人の姿は一瞬で激流に呑まれた。
「……っ!」
牙們は川の音に気づき、振り返った。
だが、私が背にしがみつき、必死にその動きを押し留めていた。
彼の肩越しに、私は水面に消えていった二人の影を見つめた。
「貴様らぁあああ!」
牙們の絶叫が夜空を震わせる。
私は、最後に安堵の息を漏らした。
白華と興華は、あの流れに飲まれた。助かるかどうかは分からない。
だが、私の役目――「護る」という誓いは、確かに果たされた。
激痛に意識が霞み、視界が暗く染まっていく。
私は、胸の奥で静かに呟いた。
――姉さん。興華。生きて。どうか……生きて。




