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布の城  作者: リネリィ
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恐ろしい3匹の魔女、死に続ける王子

月の砂


「その背中は徐々に小さくなり、一枚くぐるごとにむこうの輪郭は淡くその色が薄くなっていくのを見送るのだけど、ここに立っている私はそれを羨ましいと嫉妬とも取れる想いと、一方で申し訳ないっていう感情が鬩ぎ合ってちょっと胸が苦しいの。」

「人を見送るときはいつもそういった感情が押し寄せるもの。それは船着き場や駅のホームでのことになるのでしょうね。私達でないのなら。」

「そう、それらはそういう場所であるべきだわ。見知って仕方のない人と離れるための悲しい場所。そうでない、例えば偶然そこに居合わせた何の運命も感じないただの他人ということなら、なにをきっかけにその会話が始まりなされたとして、決してムードあるものにはならないわね。」

「ねえあなた達間違ってない?どの位置に列車が止まるかわかっていないのかしら?なんて感じで?」


「どうかしら。だったら私たちの待つ位置はどこになるの?」

「知らないわ。」

「私達の乗る列車がなんだかをあなたは知らないから?」

「まあそうではあるわね。でも、きっと私とあなたたちは一緒の位置で待つのは間違いなの。」

「あらそう。ところであなた緊張していない?顔色が悪いわよ。」

「別に体調は問題ないわ。」

「ええそうでしょうね。だから緊張してるかって言ったんだけど。私達と話すのがそんなに恐れ多い?」

「あなた達はなんなのよ。知らない人に恐縮するほど私は引っ込み思案じゃないし、あなた達の格好や雰囲気から、実は要人だったなんて可能性はなんら感じることはできないわ。」

「じゃあなんなのかしらね?でも私達だからよかったものの、これからあなたが誰と会って話をするものか知ったことではないものの、そんなではその相手とまともな話はできないものよ。」

「きっと?」

「間違いなく。」

「そう。なんでこうなのかしら?」

「知らないけどこれからの会話について思い浮かべ、準備しているものならそんな必要はないものよ。」

「あら、そう?」

「事前にそう想定したところで、あなたみたいな人はきっと頭が真っ白になってしまうのでしょうからね。」

「知ったようなことを言うわ。」

「いいじゃない、知らないうちなら何を言ったって。事実私たちはあなたについてなんら知らない人でしかないもの。」

「自分達にはそういう口実があるんだと言いたい様ね。」

「あなたについてはとにかく今の内は私達みたいなのとなんの役にも立たないような会話をしておいて、それでどの電車に乗るか知らないけど座るべき椅子に座ったなら目の前か隣にいるその相手の手をまずは見て、なんて立派な指なのでしょう、とかなんとか適当なことを言えばいいのよ。」

「立派でなかったら?」

「相手が優しく否定するのに任せておけばいいじゃない。」

「なんだか嫌だわ、あなたのその指示に従うのは。」

「そうね、その通りにしたならいいことにはならないわ。あなたはその時のあなたが思いついたことを相槌も気にせず話してしまえばいいし思いつかなければそうね、相手が話したいことを話したくなるような環境をただ作って待ってやればいいの。」

「話したくなるような環境?どういう環境よ。」

「具体的に?」

「もちろんそうでしょうね。」

「風を当てればいいらしいわ。鼻に。」

「鼻に風を?」

「相手の見えない位置に手を回しこんで、手をこうしてひらひらさせてうまく当ててあげるの。」

「そうすると相手が話したいことを話したくなって仕方なくなるわけ?本当かしら?」

「あら、疑うのね?」

「疑わないと思ったの?」

「さあ。でもどうかしら?」

「どうかはしらないけど、あなた達は私の知っている人達にそっくりね。」

「どういう人?」

「見たことは無いわ。ある袋を抱えた二人の旅人たちという話に出てくる人ってだけ。」

「私達みたいな二人が旅する話があるのね。」

「あなた達じゃないわよ、あなた達はただの脇役。形をとどめないなにかを腸で作られた袋に詰めて一生懸命旅先から運び帰る彼らが、あるどうでもいい村の宿屋で会うどうでもいい人達ってだけ。」

「そう、でもほら、そういうことだったでしょ?」

「思い付きであなたの希望通り話して見せただけよ。あなたが送った風のおかげじゃないわ。」

「ああ、そう。」


「何なのかしらね。」

「あの人達の、正確に言えばあの三人のうちの二人がとある何でもない日に駅のホームで会ったその人って?」

「ええ。同じ時間帯にホームにいるのだから、乗る列車は同じだったのだと思うわ。」

「なら彼女が言った待つべき位置が違うっていうのは、同じホームのどの辺に並ぶかの違いってことだったのね。」

「でもね、そのことも彼女はまた知りながらああ言ったのだとしたら、それはどういう理由だったのかしら?列車は大抵自由席でしょ。待つ場所が違うと彼女が指摘するのはなんだかおかしな気がするのだけど。」

「そうね、客室ならどこに座ってもいいものね。そうであるにもかかわらずそう指摘したことがちょっと不可解ね。もしかしたら彼女は客室ではないどこか別の車両にでも乗る予定だったのかしら?」

「別の車両というと?」

「運転席とか。」

「彼女は運転士だったということ?」

「でもそうじゃないみたい、そうならそれらしい格好をしているはずで、彼女たちの話でもそういう文言が出てきていいはずよね。彼女たちがどれだけ適当な日々を送っていようとそれぐらいは気づくはず。でも本当の所はどうなのか、直接聞いてみないとわからないわね。もっとも今となってはもう聞くことはできないものだけど。」

「そうね。今頃彼女たちはあのむこうをさらに私達から遠ざかりながらどんなことを話しているものかしら?」

「どうでもいいけど城に張られた布は、まるで大樹の年輪のよう。この布一枚一枚にその時の思いをのせて日記にしたり絵を描いたものならおもしろそうよ。あの三人の内、誰がどういう理由でそう思ったのかわからないけど、そんなことを言うんじゃない?」


「そんなの誰がするのよ。それにこの城については周囲に広がることはあっても、上に伸びることは無いものよ。木のようにはいかないの。この城はずっと平屋のまま、そういう前提で作られた構造物だもの。」

「上に成長しない木だってあるかもしれないけどね。」

「まああるんでしょうね。世界は広いもの。そんなことを話す彼女たちだもの、もしかしたら私たちのことも話題にしてくれているのではないかしら?」

「急に彼女たちが姿を現した時にはびっくりした、みたいに?」

「急にではないわね。こちらから彼女達へ向かって行ったのだもの。」

「そうね、私達はその場で砂を撒いていただけなんだから。どうしてこんな場所に人がいるものか、そんな顔をする彼女たちに向かって、私たちはここから先に行くことはできない、なんていうようなことを言うしかないのだったわね。」

「私たち侍女が城の内部へ入り込めるのは、カーテンの色が変わると言われる深部のずっと手前のこと。」

「彼女たちがその理由を聞いてこなかったのはそれが分かり切ったことだからなのでしょうね。だけど聞かれないことで逆に気を使われている様で私はちょっと寂しくなってしまったわ。」

「そうね。私たちは深部のずっと手前にあたるこの場所から奥へは進めない、進むことを許可されていないもの達。そのうちの二人ね。」

「許されているなら進むもの?もしそう聞かれたならあなたはどう答えた?」

「どうかしら。」

「でもまさか城中に広がる砂を、私達侍女自らが撒いていたなんて彼女たちは思わなかったでしょうね。」

「その砂が食べられるものだってわかったことにもあの人たちは気持ちよく驚いてくれたわ。」

「三人の内の二人においてはそうね。この砂は月の砂なんて呼ばれているのね、不思議だわ、なんてことを言って。」

「そう。それは王子のために作られたもの。王子が月の砂を食べていると言われるのはこのこと。固形物の材料に水の粒子を圧縮して入れ込んだサラサラの砂。」

「そういえば私達って、この月の砂の中には実際に月からやってきたものが使われているとまでを教えてあげたのだったっけ?」

「どうだったかしら。」

「彼女たちから見て私たちの砂を撒く様子は、まるでお供え物を置いているような、そんな印象を受ける光景に見えたのではないかしら?この場所にそれらを撒けば王子に届くとでも思っているかのように。」

「仕方ないわよね。私たちにできることと言えば、城の内側と外側を波のように行き来する空気に乗せて砂を送り込むしかないのだもの。」

「それは波に打ち返されて戻ってきてしまうものなら。もっと多くを送らないといけないと私たちは思っているし、彼女達だって私たちがそう思っているであろうことはなんとなくわかってしまったものよ。」

「それで彼女たちはさらに、私たちは私たちが思っているよりもずっと多くの砂を撒いているのだとそう思ったりするのよ。勝手なことに。」

「勝手ね。勝手ではあるけど、彼女たちがもし思い返してみるよう私たちにちょっとした勇気を出してそう言えることがあったなら、それは実際そうなのだと私たちは気づかされてしまうようなことでもあったりするかもしれないわ。ここにおいてだけがそうではなく。外周のあちこちで行われているそのすべてにおいてがそんな様子。」

「だから城内は砂だらけ。もうその大理石だったかタイル地だったかした床さえ見えなくなるほどに。」

「あの人たちはこの向こうで思ってくれているものだと思う?彼女たちの試みはうまくいっていたようだと。」

「奥に行くに従いその砂は厚く積もっていく光景があったならきっとそうなのよ。それがあの人たちにとっての彼女達が願うこと。彼女たちの砂は波のように外に返されつつもその半分はちゃんと奥に進み入っていく様子があるのよ。きっとね。」

「私たちが砂を撒く作業を終えて城の外周へもう帰ったものかあの人たちは思ったりするけど、よく思い起こしたならそこにはまだおびただしい量の砂袋が残っていたことを思い出すでしょうから、私たちはもうしばらくずっと何も考えずに作業を続けるものなのよ。」

「実際そうね。でも何も考えずにいるのもいずれは飽きてしまうとあの人達は心配するのではないかしら?それはきっと単調で、成果の実感できるような作業ではないのでしょうから。」

「私たちに関しては適当に雑談を始めるものと思ってもらえばいいわ。」

「適当な?例えばどういうこと?あの人たちは私たちがどんな話をしてそうだと思うもの?」

「二人の内どちらかはこんなことを呟くの、カーテンってなぜこんなに汚れるものかしら?排気ガスに晒されているわけでもなくここで燻製品を焼いているわけではないのに。」

「確かに城内のカーテンは黒く汚れていくものではあるわ。」

「キッチンセットを置いて料理をする場所ならわかるの。煮汁の溶けだした湯気やお肉を焼いたその灰や脂がこびりついたりするのだから。でも不思議なことにそうでない場所でもそう。城内のカーテンはほぼ満遍なく汚れていくの。」

「私たちの髪の色と同じ真っ黒な汚れがね。たちの悪いことに時間が経つとそれは途端に取れにくくなってしまうもので、私たちを含む侍女たちは日々ローテーションを組み、結構な人数を動員しては一定数のカーテンを回収して洗うを繰り返す毎日よ。そういえばカーテンを回収する作業はしたことがあるものの、洗濯作業は経験してないのだったわね。私たちのどちらも。その作業はどんなに忙しいのでしょうね。想像すると本当に大変そう。運び込まれる膨大な量のカーテンをさばかなくてはならないし、その汚れはきっと頑固で落ちにくいのよ。」

「そうでもないらしいわ。確かに汚れはそうなのだけど、不思議なことに私達たちが使っているシャンプーと石鹸を混ぜ込んだ洗剤を使うとそれはすんなり落ちてくれるのだって。」

「積み重ねた模索の上でそうわかったことなのでしょうね。」

「でもそれってどういうことなのかしら?」

「どういうこととは?」

「洗濯係に割り当てられた侍女たちはただそういうものとしてあまり考え及ぶこともなく日々洗い過ごしているものだろうけど、ふと実のところこれってなにを表しているものなのか、彼女たちは考えたことがあったならどういう結論に至りそう?」

「私たちの吐く息がそうさせるものかしら?それとも人って知らないうちに蒸気を発散させているらしいじゃない?体中の殆どすべてから。」

「ほとんどすべて?そうでないところは?頭とか?」

「いいえ、特に頭がそう。それらは毛穴から噴き出してくるものなんだから。そうじゃないところと言えばそうね、爪とか。」

「私たちの身体は水の入れ物だって聞いたことがあるわ。でもこの器は水をこぼすことはないものの、日々大量の水分を空気中に発散してしまうものではあるのかもね。」

「大量というとどの程度?」

「最新の加湿器と同程度くらいには。」

「そういうことで発散された蒸気には黒色が着色されていてね。それがそのままカーテンを透過することなくカーテンに落ち着いてしまうわけ。」

「そうならよく見れば私たちの輪郭って、本当によく目を凝らせば黒く縁どられていたりすることもあったり?黒い蒸気を出しているのなら。」

「その黒い蒸気はどんなものであり得るかしらね?今まで意識することもなかったものながらもそれはそこにあるものと認識できたとすれば。」

「どんなものというと?」

「有害かどうかって感じのことよ。それは私たちの身体に、私たちの送る生活になにか影響していることがあるかどうか。」

「排気ガスみたいな感じ?」

「そう。もしかしたら私たちはあまりむやみに運動機械が出す排気ガス類について恐がったり、嫌がったりしてはいけないのかもしれないわ。この私たち自身がそういうものを出しているのだとすれば。」

「そうであるならそれら機械類よりもひどいものだわ。私たちはそれこそ休みなく二十四時間ずっと年中無休で生き続けるものなのだから。寝ている間だって呼吸を止めることは無いのだしね。」

「そう、存在する限り、生きる限り私たちはガスを排出し続けるのよ。さらに私たちの数の多いこと。また更に言うなら、それらは機械装置のように決められた仕事をこなすわけではなく、勝手気ままに有用なことをするわけでもなく、自分の思うがまま適当にそこにあるだけのもの。」

「利口ですらない?」

「ええ。自分の吐き出すガスに気づかず、他の優秀な機械類が出すわずかなガスにピーピー文句を言っているような愚かなるもの。」

「とはいえそう言いつつそう言うのならじゃあどうすればいいのかなんて話にはなるけど、残念ながらその有害なるガスを止める方法は、まるで頭に浮かぶ兆しが無いものよ?」

「ええ、私たちは私達である限り、そういうものでしかない様ね。」

「だけど、有害とはいえそれが人を死に至らしめているなどは聞いたことは無いけどね。でも、私達から出たその蒸気はなぜ有害であり得るものと考えるもの?」

「そもそも?」

「ええ、そもそも。その色の印象だけでそう思うものじゃないのでしょう?あなたならきっとそう。」

「ええ、そう思う根拠もある。」

「どんなこと?」

「それには私たちの不安が溶け出しているのかもしれない。王子が姿を見せなくなってからということでもなく、私たちは生きる上で日々時を経るごとに一秒一秒を経るごとに外部の環境から攻撃を受けているものでしょう?」

「攻撃?」

「刺激とも言えるものかしら。人と関わっていくのってそういうものではない?心に対してなにかしら予測できず準備できていない刺激、もしくは悪意と認識してしまうようなものが常に降りかかっては刺さっていく感じ。イメージしにくいかしら?」

「ほんのりとわかるような気もしないではないかもね。」

「それによって人はなにかそういったよくない感情を抱いてしまうの。人は生きている中で外部から受けた悪意を吸い取らないようにするためにそれを排出しているのかもしれない。自分に吸収する前にその肌から。」

「頭からも?」

「ええ。それは体の内層ではあるものの、表層近くを滑っていくだけでそして肌の排出しうる穴という穴からそれこそ積極的に、優先的に放出されていくの。」

「そういうことが行われていることもあるかもしれないと。」

「私はそうは思わないけどね。」

「そう思わずあなたはどう思っていると?」

「その排出すべきものは外部から訪れるものではなく、それは空気中に漂ってはいたりするものの、それが生成される場所はといえばそれは自らの身体の内部であったりするの。 」

「自分の中?」

「そう、心の作用でもって黒い感情を。」

「どうして?」

「人はそういうものかもしれないわ。生きている限り人は常に黒い感情を作っていくものなの。」

「どういう理由があって?」

「生きるため。」

「生きるために悪い感情を作ってそしてどうしていくの?」

「それを武器に外部の世界と対抗していくのよ。それはとても悲しいことに聞こえるものかもしれないけど、そういう現実としてそれはそこにあるものではあるのよ。」

「それはでも排出されていくのでしょう?それっていらないってことなのではないの?それに今を生きている私達でもってそういった黒い感情は、言ってしまうものならほぼ関係が無く生きていけている様子。それは使われず排出されるということでもっても、やっぱり今においては特に私たちの生活においては必要のないものということが言えないかしら?」

「鮮度が大切なものかもしれないわ。それにね、使うからこそ、使ったからこそ必要なのだと判断するのは早すぎると思うのよ。使わなくたって必要なものかもしれないし、使わずにそこにあるだけで意味があるものだってあるのだもの。そこにそれがあるからこそ、外部からの攻撃が抑制されている、とかね。」

「お互いにそういうものを内包している、そういう気配があるからこそ攻撃が行われないと?」

「それは無意識的なことにね。攻撃しないばかりか、お互いにやさしくなれたりもしているかもしれないわ。戦略的な行為でもって。」

「やさしさというもの、思いやりというものや信頼関係というものの源泉はそこにあるということ?そう言ってしまうのは悲しすぎやしないかしら?それもまた現実がそうだからそう思う必要はないと言われてしまえばそれだけだけど。」

「いいのよ。私たちが人間らしい人間ならではのものと呼ぶそれの正体がそういうものだとして、相変わらず私たちは気にせず変わらぬ日々を送っていくわ。本当に狭い範囲の中で。」

「どの程度の?まあ人に寄るかしらね。」

「数百キロ、いいえ、数十メートル先の声も聞こえない、建物の壁に阻まれて目に見えない相手ならもうそれは自分が感情を起こす範囲の外のことになるわ。その人がどんなことを叫ぼうとなにを壊そうと、自分にはなんら関係のないことなんだからね。そうではない?」

「そうね。見えもせず聴こえもしない誰かのことになんていちいち心を揺らしてはいられないし、揺らされることは無いものだわ。わざわざ見に行くことでもない。」

「私たちの、いいえ、またあなたの世界とはそういうものなのね。」

「そういう世界とはそもそも存在すら怪しい代物なの。あるかないか不確かなら無かったところでおかしいことでもない。それとも、私は私でもって移動なり知る人を増やしたりすることでもって、この世界を形作っていると考えるのはそれもまたおかしいことかしら?」

「あなたがそう考えたければ別にいいんじゃない?」

「そうなれば私の目の前のあなたもまた私に作られたものっていうことになってしまうけど。それではあなたとしては心外よね。」

「私がいいか悪いかもしもあなたに作られた私ならそれは別にどうでもいいこと、それを考えるのは意味のないことよ。ここには何もないのだから。忘れる、もしくは意識せず感じなくなったと同時に消え、あなたが必要な都度私は再生される。いいえ、再現されるの。だからもしかしたら人によって、再現されるその人の見た目とはいかないけどその性格や人格が再現される度微妙に違っていたりすることもあるのかしらね。でもこれも意味のないことなのかしら。それを判断するあなたとしてはその違いを感じていないどころか、それが正解として、いいえ、あなたが再現するのだから再現されたそれをもってそれは正解なの。」

「間違いは存在しないことになるわね。」

「そうよ。あなたの作っている、作り続けている世界。あなた自身が否定しなければ、間違いだとしなければそれは間違いではないの。」

「私にとってはそうね。でもそれはもしかしたらあなたであるかもしれない。この私ではなく。そうしたなら、あなたが作ったこの私にこんなことを言われてあなたはやっぱり心外ではないかしら?なにを言っているんだこのロボット、もしくは人形、もしくはぬいぐるみは、みたいなね。」

「よくあることよ。むしろ刺激が足りない日常の中でたまに起こる面白みみたいなもの。」

「そう言ってくるようなものは普段あなたの世界にはあまり存在しないのだものね。」

「ええ。」

「二人でこうして話している限り、この世界を作ったのは私とあなたのどちらかになりそうなことはなんとなく理解できたような気分ではあるものだけど、もしもそうに限らないとなったらそれはどうかしら?」

「そうとは限らない?」

「世界は退屈である時は確かにあるし、多くの時間においてそう感じてしまうようなことはあるものの、それだけによらず、刺激的というかこの自分の思ってもみないことも実際にあるし、それはむしろ頻繁におきるものよ。今このときにおいても不思議なことで驚くべきことに。」

「あなたはどう考えているの?」

「もしかしたらこの話しているこの内容、この会話自体がまた全く意味の無いものであったりはしないものかしら?まるで存在しないもの。」

「どういうこと?」

「世界は私たちのどちらかではなく、別の誰かのものでね。私たちは愚かなことにお互い自分がこの世界の中心にいると思っているのをいいことに、その人のあずかり知らぬところで勝手に会話を進めているものなのよ。」

「滑稽なことに?」

「そんなことがあり得るのかはわからないけど、でも別にあるかないかは意味のないこと。なぜなら勝手に進み交わされたものの、これはその人に関係が無いことだもの。」

「じきに消えるということね。」

「そう。存在したことの意味がなかったかのように、実際に無いかのごとく私達はこの会話ごと消えてしまうのよ。」

「どのように?」

「霧のようでもないわ。パッと、いいえ、消える瞬間もわからないくらい、はじめからなかったかのような感じで。」

「私たちは消える瞬間どうなるかしら?いいえ、消えるのは確かだけど知りたいのは私達なんだからその感触よね。私たちがどう感じるか。せっかくこうして話す言葉の発音ごとに唇の内側が感じる空気の音圧だとか、自分が発した言葉を受け入れた相手がそれによって刻々と表情とそしてそれ以上に口元の形を変えていくのをその目で見ることができ、目で見るだけでなく、何かしらの情緒的な、今にしては特にもうすぐ無くなるものとしてその貴重さをかみしめている今この時だものね。その消える感覚もまたどうなのか、それも感じてみたいし今のうちなら想像もしてみたい。私たちはそうすることが許されているもの達かは知らないけど、現にそうすることが出来ているものなのだから。」

「そうね、期待は膨らむかもしれないわ。でもたぶん二人ともが思ってしまっていることになりそう。悪い予感というか当然のこととして。」

「奇跡は起こらないってことね。まるで現実の世界みたい。」

「そう、夢も無く現実的なことに私たちはそれを感じ取ることはできないの。消える時には何も感じず、消える瞬間にも気づかない。二人としては話している最中、話しているそのままに失くなるの。」

「もしかしたら気づかないうちにもう既のことに消えていたりすることは無いかしら?何もなくなって、こうして立場もわきまえず生意気なことに感じたり、勝手なことを話したり、それだけでなく勘違いまでしてしまうその頭がないものなのに。」

「どうかしら?その人のあずかり知らぬところで勝手にしゃべり出してこんなことを語りあってしまう私達だもの、そういうことだってもしかしたらしでかしてしまうものかもしれないわ。」

「いいのかしら?」

「いいのよ、きっと叱る人もいないのでしょうから。王子でも通りかかってくれたなら、なにをくだらないことを話しているものか、その表情でもって叱ってくれるものなのにね。」

「ええ。その可能性すら今は無くなってしまっている。」

「それでも私達のそういったものを、大事なカーテンにこびりつけたままにしておいていいことにはならないわね。許されないことである以前に私たちとして恥ずかしすぎるもの。」

「王子がそれを見てどう思うかは知らないわ。もしかしたらその汚れを見ては彼女達もまた生きているものと実感したりね。私達ったら朝起きたらすぐに身支度を整えると同時に、お化粧をしたり髪を整えたりしてある意味での人間味を消し去ってしまうものね。人間臭さが何ら無い感じ。」

「人間臭さとはどんくささとか、人の身体から分泌される脂とか鼻頭の薄い皮だとか唇の薄皮とか目やにとか髪のふけとかあと、生き物が年月を経ていくごとに刻んでいく小さなしわとかね。そういうものを消し、そういうもの達の兆候をも消して、そういうようなものとは思わせず忘れさせてしまうようなものなのよね。」

「きっと王子も私たちの意図通り、私たちについては足を洗わなければ臭くなったり、脇汗パッドを使わなければ脇にシミが出来たりするようなものとはまるで思っていなかったのではないかしら。もしかしたら、トイレにもいかないと思っていたりして。」

「さあね。気を使ってそう思ってくれていたりする可能性はあったかもしれないけど。」

「王子が戻らない今となってはそんなことすら確かめようもないことになってしまったわ。いいえ、王子が戻ったとしても同じよ。王子が戻った暁にはそんなことを明らかにしないような、そんな日々をまた始めて行くものなの。まるで王子が一時期、短くもない間私たちを置いて深部へ出かけていたような悲しい出来事はなんら無かったかのようにね。」

「話題に出すこともしない。したところで私たちにとってはどうでもいいことだもの。私たちは王子がいればそれでいいの。王子がいる日々さえあってくれるなら。」

「何を語らずとも私たちはそうなのだもの。あの方の思うことならなんにせよ成就してほしいと思うものだわ。」

「それで王子を失うことになっても?」

「それはどうかしら。」


腐った箱、夏の兆候


「目をつむった私にはわかる。それは大分遠くにあるものの確かにそこにあるの。」

「なにが?」

「周囲は雨の降る音で満たされているわ。正確にはそれらが地面や木の葉や水たまりに衝突したときに出す音ね。そのはざまをうめるように仲間たちの移動する足音やその服の袖のすれる音、ちょっとした雑談の声なんてものもあったりはする。」

「それで?」

「でもうるさい雨音やそれらの音の中には穴があってね、音を吸収するにもかかわらずそれは音を一切出さないものだからそのように感じるの。」

「どのように?」

「何かがそこにあることがわかるわ。それはじっとして動かないの。」

「なにかがある?」

「きっとそれらの音が無ければ、私は気づくことも無かったのでしょうね。本当に不運なこと。」

「それはなんなの?」

「きっと私がそれを見つけたのと同時にそれもまた私のことを見つけたものよ。」

「どうしてそうわかるのかしら?」

「わかるはずよ。あなたには。」

「そうかしら?」

「そうよ。」

「あなたもまたじっとして動かなかったから?」

「そう。わたしは悪い予感に襲われ、そうならないよう願い始めるものよ。どう思う?」

「どうって?あなたの願いはかなうかどうか?」

「ええ。」

「どういう願いか分かりかねるものではあるけど、そういうのって大抵叶ってはくれないものだわね。」

「なぜ?」

「悪い予感ってよく当たるもの。それでどうなった?」

「見失ってしまったわ。」

「どうして?雨は止んでしまった?また歩き回る彼女達もいつの間にかどこか遠くに行ってしまったり。」

「いいえ、相変わらず雨は激しく、彼女たちはせわしなくあり続けたもの。その中で私はなぜそれを見失ったものか、あなたはどうしてだと思う?」

「動き出しでもしたのかしら?それはその中でもって唯一そういうものだからあなたは見つけたってことなら。」

「そう考えたなら私は次にどう考えるもの?」

「どう考えるものかはわからないけど、その時のあなたがどういう気分かはわかる気がする。」

「不安なもの?」

「ひどくね。」

「もしもそうであるなら、その人はあまり考えるべきではないのかしら?次にそれを見つけたことがあったとき、それが自分により近しい位置にあったならなんて。」

「それは自分に向かい始めたものとあなたはそう思ってしまったのね。」

「最初から、それを見つけた瞬間からそういう予感がしていたの。」


「いったい何だったのかしらね。」

「不可解?」

「ええ。時々いすや本棚、絵画なりがぽつんと部屋に置かれていたのって。」

「それらは置かれていたもの?」

「私にはそう見えたわ。本棚はちゃんと立っていたし、花瓶ならその水は瓶に入ったままこぼれることの無い姿勢を保ったまま、訪れる部屋の時々にあったものだから。」

「絵画もその絵が見られる状態になっていた感じ?」

「その他にも銅像や彫刻やらもあったけどみんながちゃんと見ることが出来る状態にあったわ。もしそれが椅子ならそれは今すぐにでも誰かは腰掛けることができるように立てられていたものでしょうね。」

「その用がなせる状態ということね。でも椅子はなかったかしら。」

「そう。椅子のようなものは無かった。それらはどれも生活に関係があるものではなく、鑑賞するためや置いておくだけの用があるようなものばかり。」

「それらは何のためにそこにあるものかしら?なにを目的に置かれていたもの?それを使ってそこで何ができることも無いようなものなら、それらは目印とか、もしくは本当にただ観賞用にそこに置かれたものかしら?」

「あなたは私がどう考えていたりしていると思う?」

「それはそこに置かれたようにあるものの、置かれてそこにあるわけではないのかもしれない。」

「私はそう考える?それはなぜ?」

「家具たちは流れてきたのかもしれないわ。」

「流れてきた?」

「波にさらわれるようにして本来ある場所、あった場所からここまでぷかぷかと倒れることも無く移動してきたの。何によってのことというのならあなたはそれについてもちゃんと考え付いている。」

「波のように振る舞うようなものといえば、ここにおいては一つしかないものね。風以外に。」

「波のようでありながら砂が物を運ぶ力は、植物がアスファルトを押し上げるのと同じような強さを持っているのかもしれないわ。時間的なスパンの長いところもまた似ているものよ。」

「そのような力でもって大きな本棚や彫刻を台ごと持ち上げて運んでしまうと。ここの砂、月の砂というものは波であると同時に植物の振る舞いを見せるものなのね。」

「ここにおいてならどの砂であれそうなるのよ。ひどく粒子が細かくさらさらと乾いているのなら。この城がそういう場所ってだけ。」

「撒いた砂は内側に行くばかりでなく外側にも広がりを見せて今や城の全ての床を覆い尽くし、それら砂は何かしらの自然な振る舞いでもってそこにある物の下に潜り込んでは持ち上げてしまうということね。」

「そうして波のように押してはよせ返す風に乗った砂によって、それらは城の内側に引っ張り込まれるの。」

「全て?」

「相当な重量を誇ってそうな本棚や銅像を見ているでしょう?」

「そうね。」

「言いたいことがあるのはわかるわ。私たちが見たものと言えばたくさんの布をくぐっては、それらで形作られた長方形の部屋を果てしなく通り抜けてきた中で、たまにぽつぽつと忘れたころにそういったものがあっただけだものね。」

「あなたの考える通りなら、私たちの行く先はもっとずっと多くの種類のものが溢れていてもいいはずだと思っただけ。」

「あれらはきっと用がないものたちなのよ。城の運営をする彼女たちの日常にとって。それらはどれもそういった鑑賞物だらけだったじゃない。」

「本棚も?」

「その中に納まっている本を引っ張り出す用も無いのでしょうね。それは一度手に取って見られてしまえば読み返すことなんてないものだし、本というもののその中には実のところ大したことも書かれていないっていう隠されるべき真実が、今となっては露わになってしまっているばかりか世間に広く浸透し始めている様子が伺えたりするもの。」

「そうかしら?」

「知らないわ。とにかくそれらは用がないものだから彼女たちに触れられることの無い内こんな深い場所まで運ばれてきてしまったの。」

「他の全てのものと違って?でも移動してるのなら気づくと思うけどね、そんなことぐらいは。」

「手で触れるものじゃなければその存在なんてどうでもいいのかも。」

「人って意外と?気づかないほどに?」

「もしくは気づいていながらに。そうだったならちょっと冷たい気がするかしら?」

「そうした悲しくも不要とすらされぬまま扱われることも無かった物たちが行き場を求めて内側に引き寄せられていく、そんな光景を私たちは見せられているのね。」

「しかしながらそれらは求める居場所を見つけられたかと言えばそうでもなく、それらはただガランとした空間にそれぞれが寂しく置かれているよう見えるだけのこと。そういうのってなんだか旅に希望を求めた旅人達がその旅先で迎えているような、そんな光景を見せられているみたいで寂しくなってしまわない?」

「そうね。」

「それらの家具はどれも手間がかけられた物たちばかり。だからたちが悪いのよ。職人が丹精込めて仕上げた、いわゆる本物と呼ばれる物。技術をかけるだけじゃなく、彼らは思いや命さえ注いでくれるものなんだから。」

「それがこんな扱いにあっているとはね。いいえ、扱われないことが悲しいのよ。誰にも手を触れられなかったものだから、一人寂しく旅を始めざるを得なかったなんて知ったらきっとその人達は悲しむわ。」

「邪険に、乱暴に扱われているうちならまだいいのよね。」

「それは確かにそこに存在するという認識を持たれてのことなんだから。そうもされず忘れられてしまうだけ。彼ら彼女はそういうものを作ったわけではないのよ。それは王子が使ったり眺めたりするのを思い浮かべながら、または王子が扱っていないのを見た侍女達がさも自分の物のように扱い始める様子を想像し、多分に想定して精を出したことがあったかもわからないわ。」

「もしかしたらそれをこそ彼らは想定していて、実際扱い始めたなら意外で親切な仕掛けがあるなんてこともあるかしら?まあただの絵画ということなら、そうは期待できないでしょうけど。」

「できないことは無いわ。それはその場に馴染み、そこにある雰囲気をなんら邪魔しないような絵画でね。それにはリラックスできるような、そんな効果があるの。ブドウとかフルーティさを含んださわやかなだけの香りが、顔を間近に寄せなくても空気の循環に乗って鼻に届く感じ。」

「絵具に香料が混ぜ込まれているのね。いいアイディアではあるんでしょうけど、なんだかあれね。」

「本来なら絵の内容でもってそれを見た鑑賞者の中にそういった印象を起こさせるべきとか、そういったことを思うならそれは頭が固いのでしょうね。」

「そうなのかしら?」

「そうなのよ。この城に絵を収める高名な画家の人達の方がよほど柔軟でフットワークの軽いものの考え方ができているものよ。彼らはよくわかっているわ。」

「画家は技術だけを自慢するようなことではダメだと。」

「そんなことでは商売にならないし、それ以前に絵描きというものはそういうものであるべきではないのかも。」

「ほんとにおぼろげながら、言いたいことはわかる気はするけどね。」

「どの分野においてもそれは変わらないの。だけどそうであるにもかかわらず彼女たちに効果はないみたい。」

「絵のリラックス効果に気づかれない感じ?」

「彼らが想定したよりも侍女たちはストレスなく気持ちのよい、開放的な日々を送っていたみたいだわ。」

「だからやっぱりいらないのね。」

「これらは最終的に皆同じ一つの部屋に集まることになるわね。砂に運ばれているということなら。」

「中心にある部屋ね。」

「そういったものすべてがそこに集まり空間いっぱいにそれらで満たされたなら、なにか不思議なことでも起きるものか、その可能性を疑ってはみるものだけど、所詮いらないものばかり集まったところで何にもならないでしょうね。」

「ただの粗大ごみ置き場のようになってしまうだけ。」

「でもそうならいいかも。」

「なにが?」

「そうやってガラクタばかりが集まって足の踏み場がなくなりでもすれば、例の人が外に押し出されてくることもあるかもしれないじゃない?」

「彼女たちが心配しているその人のこと?まあ確かにそうね。」

「王子を追い出そうとするガラクタの中に、シャワー室はあると思う?」

「シャワー室?」

「部屋そのものが無理なら何かしらのお湯が出るシャワーヘッドだけでもいいものよ。もしくはそれに加えて石鹸とシャンプーとそれとカミソリね。」

「体の汚れを落としたいということならこの月の砂で今もやってるじゃない。毎晩のことに。」

「そうね、服を全部脱いでしまい肌にそれを揉みこみでもすればその細かい粒子が研磨材のようになって、表面に浮いた不要な皮脂は綺麗に取れていくものだし、それには消臭効果もあるようだから、においさえ私は失うことが出来ているわ。用は足りているということよ。」

「ならいいじゃない。ということにはならないみたいね。」

「不足しているところなどないはずなのに、気持ちはシャワーを求めてしまっているみたい。」

「風呂上がりのさっぱり感が無いものね。砂では。」

「この砂が嫌いということじゃないの。いい印象を持っていないということでもない。手に触れたりそこに寝そべると本当に気持ちがいいもの。理由を見つけては砂に転んだり手に掬ったり、それは海岸で砂と戯れる子供のような感覚に似ているものだけど、きっとわたし達は彼ら以上に砂に親しむことができている。」

「そうね。」

「それらの上をすべるように撫でる空気の流れも好き。波のように寄せては返して、それは決して止まることは無いものの、少しも不快さを感じず眠りを妨げることも無い。ただ波の様だとは言ったしそういう印象のもので間違いは無いのだけど、それはそれよりもずっとゆったりしているわ。それで思うのだけど、いつもその変わり目を見逃してしまうのよね。」

「いつも気づいた頃には空気の流れる向きが変わっているということかしら?」

「そう。それはどういう規則性があるものか、時間で測ったことは無いものだけど。」

「思い出すと変わっているような。毎回それを確かめてやろうとはするものの、待っている内に忘れてしまうのね。」

「それで思い出したころにはそういうことになってるの。」

「あなたはそういう周期だと思う一方でこうも考えているのではない?それは確かめようとしている内は絶対に確認できないようになっている。忘れてしまわないとそうならないものだと。」

「逆にその存在を思い出さなければそれはいつまでも同じ向きであるのでは、とかね。そんな風に感じるだけよ。気にしてもいない。私たちの旅にはこの砂があってくれるだけでいいのだもの。でも本当にこれって便利よね。おなかが空いたなら腰を下ろして何も見ずに手につかんだものを口に運べば用は済んでしまう。」

「栄養だけでなく水分まで摂取できるなんて本当に機能的よね。彼女たちの月の砂。なんら不足していることはなく、これがあれば何をしなくてもいい。その万能さはちょっと不自然なくらい。これが出来ないことは何かしらね?」

「きっと王子のためをもって知恵を尽くして作られたもの、これは彼女たちの愛そのものだわ。でも彼女たちは王子の無事を、彼の帰還を望んで月の砂を作り出し、そして撒き届けようとしているものだけど、それが逆に王子をここに留め置いていることになっていたりはしないかしら?」

「ええ。ここは居心地が良すぎるわね。」

「彼はこんな場所で、こんな場所の奥でなにをしているのかしら。もしかして本当に気持ちよさにかまけてくつろいでいたらどうしようかしらね?」

「怒るのは彼女たちに取っておいてあげていいわ。」

「そうね。でもきっとそうではないのでしょうね。彼は彼女達の心配する通りなにかをしているのでしょうから。」

「かわいそうに、彼女たちは毎晩王子が今いるその状況について妄想し、勝手に胸を痛めていたものよ。あなた達が彼女達とどんな日々を過ごし、夜を語り合ってきたものかは知らないけど、私もまたそんな日々を過ごしていたの。」

「そうみたいね。」

「彼女たちは暇があれば噂をしていたわ。暇が無くても手を動かしながらその隙があればね。」

「それは私たち部外者にも漏れ聞こえるくらいしきりに?」

「王子は逃げていると話す人がいたわね。母である王妃から。」

「母から逃げてる?」

「この城からとても離れた地に王妃の墓があるらしいのだけど、その墓に遺体は入っていないらしいの。」

「王妃は亡くなっているということだけど、実はそうでないかもしれないというようなことね。それでこの城の深部では、亡くなっていたと思われていた王妃から追われる王子の姿があるものと。」

「もっともそう噂する侍女たちについて言えば彼女たちはその墓の存在さえも噂でしか聞いたことが無かったようであったし、王妃の存在についてさえそういうような節はあったのだけどね。」

「ひどくおぼろげな情報の中で彼女たちは噂をしていくのね。」

「知っていることが少ないからこそ噂をしていかざるを得ないのよ。衝動としてね。この城でもってその呪いを吸いきらせるとか、そういう思惑についても話されていたわ。」

「吸い取らせる?」

「ティッシュよりも薄く、吸水性があると思われるこれらの膨大な数の布でもってそうするの。それは王国を崩壊させないための大規模なる事業だとかなんとか。」

「王妃の形もまた彼女たちの中ではひどく曖昧なのでしょうね。ただ、彼女たちの中では王子はずいぶんと損な役回りをさせられている様子じゃない。」

「彼女たちが仕え、この城の主である王子には王国における役職が無いらしいの。なんというかちょっと変わった立ち位置で、執政に関わらないようなそんな存在らしいわ。もしくは一説には、王国においてはその存在すら知られていないという話もあるわ。」

「隠されていると?」

「この城の存在でさえもね。そういうものだからなにに利用されてもおかしくないと思ったりしているのではないかしら。なんにせよ王子が具体的にこの先で何をしているのか知らず、話されるそれらは彼女達の想像に過ぎない。それはもしかしたら王子が戻ってきたところで、その後も明らかになることは無いかもしれない。もしも将来王子といっしょになる姫がいるのなら、その人でもって初めて聞くことはできるものでしょうけどね。」

「答えてもらえるかは別として?」

「ええ。」

「でも彼女たちは噂しながらあることをひどく恐れていたわね。」

「王子がこのまま帰らないということにでしょ?」

「それもそうなのだけど、もしかしたらそこには別の侍女たちがいてね。」

「彼女たちが踏み入れたことの無いこの先に?」

「そう、彼女達が知らない侍女たちがいて、王子には別の充足した生活がそこにあるのではないかと。」

「王子にとってそこでの生活の方が快適なものだから、出てこなくなってしまった?」

「彼女たちにとって一番嫌な結末よね、それって。」

「そうね。」

「そんな彼女たちはどうしてこうなったのか理由を求め、なにを反省するところがあったかを探し始めるの。その作業の過程で、そもそもそういうことならなぜ今まで王子は外に出てきてくれていたものか。彼女達はそういうことを考える段階を迎えているものかどうか思いを巡らしたりすることもあるかもしれない。」

「今とあってはそれを聞くこともできない。王子がいなくなってからでは彼女たちも仕事に精が出ないわね。というか彼女たちのそれは王子のための仕事だもの。するべきことがまるでなんにも無くなってしまうわ。」

「いいえ、彼女たちは今でも忙しく働いているものよ。そうだったでしょ?」

「そうね。」

「やることはあるのよ、というかやることはあるの。」

「王子がいなくたって?」

「王子に関係なく。」

「関係なく?」

「短い滞在ではあったかもしれないけど、その間中においても彼女たちの箱に入れられた何かしらやそうでないものにおいてもせわしなく運んでいたその姿があったものでしょう?」

「まあまあそうね。」

「あれはなにも冬支度を進めるために、その為だけにああして忙しそうにしていたわけではないわ。」

「そうなの?」

「こんな広大な敷地を誇るお城だもの。王子一人の為だけにあるなんてもったいなさ過ぎるわ。」

「王子のためでないなら何のため?いいえ、王子の為とあとは?」

「この場所の存在を知っている者においては、ここは保管庫ということになっているの。」

「保管庫?」

「この城は王国の物品の保管所としても使われているらしいの。実際のことにね。」

「それは例えば、なにかしらの宝とか調度品とか?」

「そうね。あとは?」

「有事の際に必要になるであろう大量の甲冑とか剣とか。もしくは王国の中心に立つお城の床に敷かれるような高級な絨毯とか。」

「もしくは精密機器などの故障時に備えた交換部品とかも。あと隠すべきものとかね。」

「そういった隠すべきものがあるならここは格好の場所なのでしょうね。城を我がもののように振る舞い暮らす大勢の侍女達がいるものだから。でも彼女たちが忙しく行き来して荷物を運んでいたのはそういうことなのね。」

「侍女たちといえどもその仕事は保管庫に関わることの方が比率はどうしても高くなるものなの。なんだか侍女っぽくないと感じるものだけど現実はこうなのよ。」

「王子はたった一人ぽっちだけど、保管されている物品はといえばそれはまた膨大なものなのでしょうからね。あの様子だと。」

「でも彼女たちにどっちの仕事がメインか聞こうものなら、メインは王子のお世話に決まっていると返ってくるものよ。やっていることの殆どは保管庫の仕事でも、気持ちは王子のお世話なんだから。でもそう言うとあれね、浮気した人の言い訳みたいに聞こえるわ。」

「それは知らないけど、侍女の中には王子に関する仕事をしない日があったり、もしくは侍女という立場ながら王子の世話に一切関わらない人もあるのでしょうね。それも結構な数においてが。」

「それはないの。侍女においては必ず一日に一度、またはその仕事のうち一つは王子のお世話に関わるものなの。」

「そういうルールか取り決めがあるのね。」

「だからって必ず一日に一度王子にお目にかかる、とかいうことではないのよ。王子に関わるお世話は様々で、それは王子の見えないところで行われることでもいいの。」

「例えば?」

「なにがありそう?」

「王子の使うスプーンの銀のコーティングがはがれかかっているのを張りなおす作業、とか?もしくは王子に食べてもらう食材の育成とか水やりとか湿度管理とか。」

「王子に用意された新品の爪切りとか様々な金道具を事前に使っておくなどでもいいわね。」

「毒などが塗られていないものか調べるためね。」

「湯船に張った新しいお湯って肌がピリピリとして不快でしょ?新しい刃物にもそういうことが少なからずあるそうなの。そうそう大浴場に先に入ってそのピリピリを消すような作業もあるわね。」

「王子のためなら侍女はなにをもっても、それはやり過ぎということにはならないみたいね。」

「ええ、王子のためにできることなら何から何までもやるの。そのすべてをね。だから城に来たばかりのとある新人の侍女はこんなことを言うの。あくまで私たちは王子の日々がより滑らかに、そして邪魔なものが無いよう進行されていく心添えをしていくもの。作業をして愚かな失敗をするのもその一環で、王子は私たちがなにかしらの作業を失敗する様子を見つつそれを反面教師にして、自分でうまくいくよう工夫するの。やることを覚える時ってそういうことがない?人が不器用でなかなかできないのをみると自分ならうまくできるのにとか思ったりすること。」

「侍女は失敗する様子をわざと見せたりすることで、王子に自分でやってみたいっていう意欲を湧き起こらせるとかそういうことを言っているのかしら?」

「そう。またはおいしい料理を出すことに侍女は精を出さなくてもいいの。むしろそれはズボラで正直おいしくないものであればいい。」

「そうすれば王子は自然と自分で料理を作りたくなる?」

「また王子が勉強にいそしんだり作業をしているものなら、その横で読書を始めたり複数でテーブルを囲んでくだらない雑談をするのもいいわね。コーヒーか冷たいココアを飲みながら何時間も。」

「なにを言っているかはわかるわ。カフェのそういう環境って作業や勉強がとても捗るものね。」

「王子はいつも何人かの侍女に囲まれているものなの。それらはべったりとくっついている様子があるのではなく、見守られているということでもなく、ただ横やその目の前でうるさくない程度かちょっとうるさい程度にウロチョロするような感じ。すべてを過保護にお世話するより、きっとそうした方がいいのではないかしら?王子に対しては。」

「いいじゃない。私たちはそうしてしまうのだもの。それは悪意でもないのなら、王子のために何でもをしてしまうその衝動は抑える必要はなく、むしろそれは私たちの愛なのだわ。過保護だと言われても別に構わないじゃない?ここはお城の中。世間の誰が好奇の目を向けてくることはないのだからね。」


「その新人の侍女ってなんなの?」

「そういう人がいたらって話よ。私の想像した人。彼女たちからはいろんな話が聞けたことはあれ、一方で自身に関するその生態や実態に関しては彼女達はなぜか口が堅く、私たちは彼女たちに関してなら、それはもう想像するしかないのだもの。ならそうしてしまうことは許されてるでしょ?」

「あなたが語る彼女たちに関するなんらかについて、それはほとんどすべて想像したことに過ぎないということね。」

「あなた達もよ。」


「彼女は、」

「新人の侍女は?」

「その人は侍女としてのやるべきことをいろいろと習っていくことになるわ。」

「この城においてのね。」

「保管庫の仕事もそうだし、王子のお世話に関しても。覚えることはたくさんよ。ここにおいて侍女というものの仕事に専門や担当ということはなく、割り振りや持ち回りで、最終的にはすべてにおいて満遍なくできるようになっていくよう仕向けられていき、すべてが出来る人になるわ。」

「できないことは?」

「王子が悲しむようなこと。」

「そう。」

「でもまず侍女はその衣装を、自分の手で仕立てることが出来るようにならないといけないわ。」

「衣装?」

「生地と糸が配られるの。それと見本書と手順書、あと型紙ね。」

「配布されるわけじゃないのね。」

「変わっているでしょ?侍女たちは日々自分の服を縫っていくわ。それはとても時間のかかる作業でね。仕事の合間や空いた時間に彼女たちはせっせと裁縫をしていくの。もちろん全部手縫いにしないといけないとか、そういった決まりなんてものもなく、ミシンなりを使えるところは多用に使って行きながら。また彼女たちはその作業に追われるせいで休みが無いなんてことにはならず、休みを取るならとってもいいし進めたければ進めてもいいと言った感じ。作成期間は十分すぎるほど確保されている。」

「それに慣れれば手際よく、時間もかからなくなっていくだろうしね。」

「いいえ、それはやっぱり時間のかかる作業なの。」

「私の言ったようなことであっても?なぜかしら?」

「慣れてある程度段取りよくなった人でも、裁縫がすばらしく得意な人でも衣装を作り上げるのにかかる期間はそれほど変わらないわ。その人たちは作業が早くなった分、決まって手間をかけるようになるから。」

「なるほどね、そうしたくなる心理が働くことは自然なことだと思うわ。でも侍女としての制服でしょ?そんなにこだわるほどのものかしら。彼女たちの制服は個性にあふれるなんてことは無くて、みんな似たり寄ったり、というかみんな同じ色や形で統一されていたものよ。」

「品評会がある様ね。」

「品評会?」

「縫い方や縫い返し方とか、袖の出来とか服飾を評価する方法はたくさんあるわ。」

「全体的なシルエットの仕上がり、もしくは良い形のオリジナリティが出ているとかかしら?」

「アレンジやオリジナリティを評価に入れるのならそうね。それはとても微妙な線の上にあって、主張しないようでちゃんと気づけるようなものでありつつ、しっかりと規則を保っているような感じ、ということならいいかも。ようは批判したくなるような気持ちが起きないもの。」

「それらの出来によって、ご褒美がもらえるようになっていると?」

「それはきっとやりがいがあるようなものなの。例えばその出来で一位から二十位ぐらい、もしくは五十位くらいを王子の目でランキング付けして、上位から順に褒めてもらえるようにするとか。」

「王子と二人きりで話す時間がもらえるようになり数字が小さければ小さいほど、その時間が長いとかそういうのでもいいわね。または褒めてもらえるにしても、上位であるほど頭をなでるその手に込める力が強いとか。」

「ね、やる気が出るでしょう?」

「わからないわ。彼女達じゃないんだから。ただ彼女たちがそうであるなら、その行いは成功しているということでしょうね。うまく競い合うもの、いいえ、競い合うとは違うのかしら?とにかく王子に見てもらえて、なおかつ評価してもらえるということが彼女たちにやる気をもたらしている様子だもの。でもあれね、侍女の数は膨大とも言えるものでしょう?たった一人の王子から見れば。」

「ええそうね。王子一人で彼女たちの衣装全部を見ていくのは大変だわ。ほとんど不可能に近いもの。それで禄に見もせずに評価を出してしまったなら、せっかく精をだして作ったのに失望させられてしまう侍女も出て来てしまうようなことになってしまう。実のところ服を品評しているのは王子ではなく別の侍女がいる可能性だってあるのかしら。」

「その方がずっと現実的だわ。密かに一名ないしは三名程度の侍女がこっそり彼女たちの衣装の出来を評価していくの。」

「ポケットに紙とペン、もしくは小さなカメラを忍ばせて?」

「それでデータを集めつつ、誰にも気づかれないような場所と時間帯にどこかの部屋で一つのテーブルを囲み、その結果の査定を行っているのかも。」

「王子なしに?」

「もしかしたら、隅っこの方に置いてある椅子に座ってもらうなんてことはしていたかもしれないわ。」

「ただよく考えればちょっと変だわ。」

「何が?」

「彼女たちはなんだかいつも衣装を作っているように聞こえるの。」

「そう聞こえた?」

「ええ、二回も同じことは言いたくないわ。実際の所どうなのよ?」

「そうね、彼女たちはあなたがそう受け取った通りだわ。これで満足かしら?」

「ほら、じゃあおかしいのよ。だって制服なんて一着か二着あればいいもので、それは夏冬があるとしても作ってしまえばそれまでだもの。手作りであるとはいえ、服なんて形が出来上がってしまえばそうそう壊れるものではないものよ。それは彼女達自身の身体の形と同じ形をしているのだから。補修の必要があったとして、せいぜいほつれや穴を埋めるだけのこと。」

「ボタンを付け直したり?」

「それでもなお。」

「彼女たちは季節ごとに着替えるわ。もちろん色鮮やかでありながら路上に散乱した花びらだとか葉っぱのお掃除が大変なことで有名なそれらを除いてね。」

「それは普通のことよ。」

「彼女たちは冬の凍えるような寒さを耐え忍び、ようやく訪れた緑の風景の中を散歩するようなことはあっても、冬の辛さを忘れることは無い。彼女たちは屋外の寒々しい倉庫の横でストーブに給油するその切なさを思い出しながら厚い生地にハサミを入れ始めているものなんだから。そんな彼女達はまた夏のうだるような暑さを生き延びて、やっと食欲が湧くまま食べ物を口に運んだとして、夏の辛さもまた忘れることは無いの。彼女たちはやっぱり首筋に浮いてくる汗の不快さと戦い続けたあの夜のことを思い出しながら、薄い生地にハサミを入れ始めているものなのだから。」

「いつのときも?」

「ええ、毎回そう。彼女は衣替えを迎えるごとに新しい制服を作っていくのよ。」

「昨シーズンに着た服はもう着ないということ?」

「古い制服を着ることはできないわ。そのデザインも色も変わっているものだからね。でも彼女たちはなぜそういうことをしているのか、あなたは考えたならわかるかしら?」

「そういうことになっているから。」

「そう、それはそういうことになっているの。カーテンの色はいつも同じ中、いいえ、それはいつも同じだからこそ、彼女たちの制服は色鮮やかで、統一感もまた目に心地いい。城への訪問者が語るその印象が、その彼らが訪れた時期によって大分違うものになるということが有名な話としてあるの。ある筋でね。」

「それは彼女たちの制服の色によるものだったとあなたは言いたいのね。」

「ええ、きっと間違っていることは無いわ。それに布の城といえば彼女達。布の城とは彼女たちのことだもの。」


「みんなが服作りに夢中な中、ただ一人は半信半疑ではありそうね。」

「ただ一人って?」

「わかってるでしょ?」

「ええ。彼女は誰に見せるわけでもなく、そのまだ見ぬ誰かがどんな人なのか想像しながら不器用にハサミと針を入れていくの。」

「彼女がその目で王子を見るのは大分経ってからのことかもしれないものね。」

「でもその存在を忘れることは決してないわ。想像は膨らむばかりでしょうね。だって周囲の侍女たちは暇があれば彼のことを話し、慕っている姿が目や耳に入っていてしょうがないのですもの。」

「聞くところによれば何をしたところでその反応やそぶりはほんの少ししか見せてくれないような人だそうじゃない。」

「そうであるにもかかわらずこの慕われようを見るに、その行動や言動全ては侍女にとってそれらの心をつかんで離さないようなもので、彼女は王子についてなにかある種の超人的というか、人らしさの気薄さを感じるものであるものの、現実としてそんな人はいないと思い返すのならもしかすると、そういったことを考える役目の侍女が一名ないしは何名かいたりするのではないか、などと考えたりするの。」

「彼女なりにね。」

「ええ、それは寒い冬なら赤を基調とした温かみのある色合いの中。夏の暑い最中であるなら青を基調とした涼しげな色彩を横目にしながら。」


「そうかしら?」

「あなたの言いたいことはわかるわ。私達にそんな景色を楽しめたひと時は無かったものね。」

「彼女たちの格好を見て心躍ったことなんか無かったわ。どちらかというと、その白はちょっと寂しさを感じるような感じ。理由はわからないけど、そういう印象を持つようなもの。」

「それはでも確かにそうだったのよ。ではなぜ今がそうではないのかと言えば、それはそう変化したと言うほかないわね。その理由がほしくなるなら、そうなり始めた時期について考えればいいなんて言われたならあなたはわかるかしら?」

「まあそうでしょうね。」

「それは王子が城の奥へ向かい、その姿を見せなくなってからのこと。制服の色合いはシーズンごと徐々におとなしくなっていき、今では失うべき色もない。」

「侍女達の中密かに存在するデザイナーが提示するものをそう変えていったということね。」

「変えていったというよりは変わっていったものなのよ。その変化になにかしら侍女たちの反発の感情が湧かないのは、そこに何かしらの意図を感じることがないから。なにかを表そうとかメッセージを発信しようとしてそうしたものではなく、それは無意識に行われたと読み取れて仕方ないもの。」

「思わずそうしてしまったと?やむにやまれぬような。」

「そういう意図はなかったものの、不安な気持ちがそうなって知らず知らずに形に現れてしまったもの。作者である彼女達自身も後から気づくのよ。それは表現ではなくただの偶然の重なりで、やっぱり意識的ではなかったこと。」

「後から考えればね。」


「だからもしかすれば彼女たちが誇るその剣術にしてだって、それは王子を守るためのものだったものの、いつしか攻撃的なものになっていって、動作的な隙は大きくなりつつもより素早く相手を仕留められるようなものに変化しているかもしれないわね。」

「どういうこと?」

「だって守るものが無いのですもの。だとしたら彼女たちはどういう時を想定しているのかしらね。いい獲物が見つかったときにより狩りを楽しめるようにかしら?」

「彼女たちはそういう技術も持っているの?」

「知らなかった?彼女達は密かに恐ろしむべき技を潜ませているものよ。その懐に、鋭い刃物と一緒にね。だってそうでしょう?城の中にも外にも兵士などはなく、そこには彼女たちがいるだけですもの。やるべきことのすべて、備えるべきことの全ては彼女達によってなされなければならないわ。」

「ここにおいてなら?でも、この城には、この城っていうものには確かそういった罠があったはずだけどね。」

「表層付近にあって、侵入者を知らず知らずに恐ろしい部屋へ誘い込んでバラバラにしてしまうやつでしょ?いいえ違ったかしら?それは容積が縮む檻に入れ込まれて、黒い飴玉になるまで圧縮され続けるものだっけ?」

「知らないわ。でもそれがあるから、城の安全は侍女たちや王子にとって保証され、当の彼女たちもただ能天気でいることができていたのだと思ったのだけど。」

「そうね、私も同じ疑問をちょうど目の前にいた彼女達のうちの一人に投げかけたことがあったわね。」

「その人はどう答えてくれたもの?」

「あなたの満足いく答えではないかもしれないわ。」

「それはあなたを満足させたものだった?」

「いいえ。その理由は特にないということだったから。いうなれば念のため、ということらしわ。」

「なにを想定していないのに?」

「そうね。ありもしないことのために、理由もなく備えているのよ。」

「やっぱり彼女達にはいろんな秘密があるものなのね。」

「私たちが知らないだけよ。でもそんな彼女たちがなぜ王子を助けに行かないのかって思っていない?それはそうよね。彼女たちの境遇を見てそう思わない人はいないわ。」

「それだけの力量もあるでしょうに、早く行けばいいのにって?」

「でもそれはできないのよ。彼女たちは勝手なことできないの。本国からの通達でね、王子についてはそのまま見守ることと言い渡されているものだから。」

「そうなの。」

「きっとそうよね。理由を考えればよ。でも彼女達って唯一王子の命を聞く存在であったはずなのにね。」

「唯一の存在?」

「彼女達は王子のために存在するもので、王子のことをなによりも第一に思って生きるものにある。他の何がどう言ってきたとして、何の事情であってもそれは揺らぐことはない。」

「そう言っていたの?」

「そう言っていたのよ。」

「現実はそうではなかったということね。」。

「彼女たちはどんなに王子を心配しようと歯がゆくとも助けに行くことはできない人たち。所詮は侍女であり、愚かなる存在なのよ。」

「そうも言っていた?」

「王子を本当に心配するなら命令に背いてでも独断をもって助けに行ってもいい。にもかかわらず誰一人そういうものがいないなんてね。悲しき集団だわ。それではいくら心配していると言ったところで、口ではなんとでも言えると言われてしまえばどう返すことも出来ないものだわ。」

「そう陰口を言われてなお彼女たちはこの生活を続けていくものなのね。」

「彼女たちは改めて侍女たちというものを認識せざるを得なかったものでしょうね。彼女たちはそうやって自分たち侍女というものの実際の姿について学び、認識を寄せていくの。彼女もまたね。」

「なんだかあなたってその存在しない人、新人の彼女を想像して恋焦がれているみたい。」

「そう見える?だったら変かしら?」

「さあね。それで?それからどんな日々を送っていくもの?」

「彼女について私はどんなことをしてしまいそう?」

「ちょっと心配だわね。愛しい相手へは、時に凶暴になってしまったりするものだから。」


「眠い中、雨の音だけはずっと聞こえ続けているわ。」

「それは相変わらずなのね、そういう時期なのかしら?」

「そんな中で目を開けるべきか否か考えていると、いったいどうやって開いたものか、その方法をすっかり忘れている自分に気づくもの。彼女は記憶の中から有効な解決策を探しはじめるけど、それは一向にはかどらない。眠ったり起きたりしながらではね。」

「彼女はいったいどんな一日の送り方をしているのかしら。」

「好きでそんなことを考えているわけじゃないの。怖いものがあるなら目をそらしたいじゃない?」

「怖いもの?」

「だんだんとこちらへ近づいて来ていることはわかっているのに、ただそうするに任せるしかないのだもの。不思議と感覚は研ぎ澄まされているわ。このベッドに横になる日々も段々とその理由がわかってきてもいる。だからこそその気配ははっきりと疑いのないものになって、よくない考えを変えることが出来ないのよ。そうしている内にいつの間にか雨が止んでいるじゃない?きっと眠っていたのでしょうけど、そのおかげでそれがすぐ近くまで迫ってくる恐怖は感じなくて済んだと思ったらそれは既に同じ部屋の中にいたなんてね。」


「まだ意識が混濁しているみたいね。返すべき言葉は浮かんでも、それが口から出ないなら無理はしなくてもいいのよ。今のあなたはそういうものだとこっちが受け取れば心外ですらない。でもあなたを気にかけている人の目を縫うのは大変だったんだから。その人ったらあなたの運命すべてを握り、突き動かしていると信じて疑わないのだもの。まあ実際そうだったかもしれないけど、でもあなたはここにいるのにね。いいの。気にしないで。関係のない話だわこれは。あなたが聞くべきなのは、私によってあなたが選ばれ、その役目を私から譲られることになったこと。」

「私はこの城を出るわ。理由はどうしても見たい景色があるとかなんとか。いいえ、本当のことを言うとそうではないの。世の中にはどうしても人の助けがいる場面はどこかしらにはあるものよ。誰かがいないとそれは失敗してしまったり大変なことになってしまう重要な場面。そんな人の前にふらっとわたしみたいなのが現れたならそれは助かると思わない?その人は恐る恐る声をかけるものの、結果は決まってるわ。だってその相手はなんの用事も持たないしまた、自身がこれからどうしたいとかいう意思も展望も、希望すらなんら持ってはいないのだから。要は暇で手が空いている人ってことね。協力を断る理由がないの。なぜそんな人がいるのかと思う?その人はアレルギー体質でね。もっともちゃんと医療機関で調べたわけではないけれど、生きてきた中でそういう実感があるものなの。その人は侍女として王子に尽し、王子の為の人生をこれまで送ってきたものなんだけど、数年前から自分の中に願望や欲求と言ったものが湧き起こっていることに気づいたの。それでなんだかそういうものがひどく気持ち悪かったり嫌悪感を感じてしまう自分がいて、自分はそういったものを今まで持ってきていない人だったなんてことにも初めて気づくのよ。きっとそういう体質なのね。それで王子の侍女として生きる限りそう言った吐き気からは逃れられないと思ったものだから旅に出ることにするわけ。もちろんなにも持たずにね、頭の中には。」

「王子のもとで生きるわたしにどんな願望が芽生えたものか気になる?王子のお妃になりたいとか王子を独り占めしたいとかそういったことではないわ。これからも王子にお仕えしていきたい、ただそういったものよ。」

「でもこういった私の経緯を相手に説明することで、その人は気兼ねなくわたしの協力を求められるようになるわ。それが本当のことかどうかは別としてね。」

「適当なことを言っていると思ってる?私が旅に出る本当の理由を問い詰められる状態にない今の自分だからこそ、目の前の相手は何かしらを押し付けようとしてくるのだと。それならそれでいい。」

「でもこれだけは言っておくわ。あなたがどんな役目を与えられ、その責任を負ったものか。自身の目で見てそれを理解したのなら、あなたはわたしになにか憎しみを抱かれていたものと一度は思うこともあるかもしれない。でも決してそういうことではないの。あなたを選んだ理由は別のところにあるんだから。誰でもよかったわけでもない。私はあなたを選んだのだから。ただ選んだ理由が何なのかは言わないわ。これは私の中だけで取っておくこと。あなたはそれが気になったことがあったならあなたなりに考えを巡らせばいい。そうすれば暇な時間でも、または人を待つようなそんなひと時があっても苦痛ではないでしょうからね。」

「私はこの城で侍女をやめたただ一人の女性となる。でも恥ずかしくはないわ。誇らしくも無い。それは私の事情によってそうなっただけの一つの出来事に過ぎないもの。」

「あなたはそんな状態にある自分を不安に感じ、こんなんでそれが、目の前の侍女が本来やるべきだったなにかがちゃんと出来るものか不安そうな顔をしているわね。いいえ、していなかったとしてそれはそう考えることが自然なことなの。あなたは自分がどうしてそのような状態にあるものか覚えてる?高い棚に足を掛けたりなんかしてそれらごと倒れこんでしまったとか、ずり落ちてきた重い音響機器を入れた段ボールの達の下敷きになったということではないものよ?聞いたところによると、あなたはある植物の鱗粉をまともに吸ってしまったと聞いているわ。どういう状況においてか、もしくはなぜそんなことになってしまったものか詳しくは知らないのだけど、なんだか突然変異だとかなんとか、そういうものだから誰のせいでもない。ということは聞こえてきたわね。」

「なかなか思い出せなかったことがはっきりとしたことで、あなたはこれから急激に回復し、三日後にはカラになったベッドがほんの少しずつ城の中心に向かって動き始める光景がここにあるのではないかしら?私のみたてはそうなの。そんなあなただから私は特に心配もせず、最後に噛みしめるべき侍女の日常に戻ってしまうべきだと思うのだけどどうかしら?いいでしょう?あなたからは引き留める声もないのだもの。」

「でもここにあったのね。行方が分からなくなっていたのよ、これ。この部屋全体が生臭く、あなたのにおいにしては変だと思ったのよね。これはきっとなにかしらの手違いでもって複数の侍女の間を運び渡され、最終的にここに落ち着いたものではあるのでしょうけど、あなたはこれが、この木箱とその中身がなんなのか知ってるかしら?」

「もしも知っていたのなら、病床のあなたにそんなものを思い出させては悪いものと思うし、知らなかったならそのまま知る必要も無いわ。この中身はとても不吉なの。そう言われては興味を抱いてしまうことはわかっているけど、あなたは努力してそれを抑えるべきね。その方が絶対にあなたのためよ。」


「ずっと話していたと思ったのに、そう話す彼女はいつの間にか姿を消していたわ。彼女が去る瞬間を見ているはずなのにどんなだったかわからないのは、きっとまた眠りについていたからなのでしょうね。彼女は目の痛みに気づくわ。汗が目に入ったの。それは真夏の夜の出来事だった。」

「彼女は再び眠りにつけるものか考え始めながらまた眼を瞑るのでしょうね。」

「ええ。でもいつもそうやって想像で話してばかりね。深部に入ってからもうずっとそうよ。」

「仕方ないじゃない。話すべき話題も尽きてしまったんだから。」

「話題がないわけじゃないわ。あなたはそうするのが好きなのよ。」

「まあそうでしょうね。私は彼女たちのことが好きなんだわ。あの人たち今頃どんな日々を過ごしているでしょうね。もう引っ越しは終わったものかしら?」

「とっくに済んでいるわよ。どれだけ長い間私たちはこうして歩き詰めの日々を送っていると思っているの?」

「そうね。それで城の中をせわしなく移動しながら彼女達の一人は時折足を止め、しんしんと降り積もる雪をボーっと眺めるひと時があってもいいわ。」

「ええ、引き潮のように戻ってくる風は心なしか以前よりもひんやりとしているもの。」


悪魔の正体


「これは調査員が落としたものかしらね。」

「どれ?」

「キーホルダーのようなものだけど、二つのちょっとした文鎮のようなものに紙が挟まれている様子のものがあるわ。」

「なにかしらね、でも私それを見たことがあるかも。においをかいでみて、ほら、ほのかに粉っぽく煙っぽい独特のにおいがしない?」

「そうね。確かにする。どこで見たもの?」

「どこでかは忘れたわ。でもこれがなんだかは知ってる。それはお守りね。」

「お守り?」

「こんな風な、というか同じものがそういうものとして売られていたのよ。結構な値段がしたように思うわ。」

「お守りね。そんなものを落とすなんて何かあったのかしら?」

「縁起が悪いわ。」

「それとも自分で捨てたか。」

「捨てた?なぜ?」

「お守りで祈るべきことが無くなったとか。」

「どうして?」

「状況が変わったのかしらね。それとも、お守りに頼っている場合ではなくなったか、もしくはないことに気づいたのか。まあその人じゃないから知らないわ。でもこれって結構重いのね。見た目以上にずっしり来るわ。」

「重いわりには効果も定かではないものなんて捨ててしまい、少しでも先を急ごうとしたのかも。でもなんとなく近くには感じるわね。」

「私たちの前に入ったという調査員なるその人を?まあそうね。」


「これもそうなのかしら?これもお守り?」

「どれ?」

「白い花びらが落ちているわ。ほらその砂の窪みの底らへん。」

「なら違うでしょうね。これはここだけじゃなく、あなた達は気づかなかったかもしれないでしょうけど、深部に入り込んでからチラチラと落ちていたものよ。ここにおいても目を凝らせばそこここに散乱しているもの。」

「これは何なのかしら?彼女たちが撒いたもの?この花びらを。彼女たちは王子の帰還を信じていると言いつつ、彼は帰らないとも思っていたものなのかしら?それともこの花びらは彼女たちが撒いたものではない?」

「上から降ってくるとか?その闇の中から。」

「そう言えば上を見上げても天井は見えず、闇の中からカーテンが地面に引っ張られているのね。柱が無い。」

「そのことに今気づいた感じ?」

「しかしそれにしては花びらが舞っている姿を見たことが無いわね。またそれらに干からびたものはなく、どれも白くみずみずしく見えるのに。いや、時間によって変わるようなものではなさそうな。軽い揚げせんべいのような軽さと質感をしているのよきっと。」

「触って確かめればいいのに。」

「いいわよ、面倒だわ。」

「まあでもいろいろ考えられるわね。あなたの言う通りある時期の彼女たちが撒いたもの。もしくは今も撒き続けているもの。それとも上から舞い落ちてくるもの。または月の砂に含まれた原料の一つが発芽したもの、とかね。」


「このにおいはそのせいなのかしらね。」

「におい?」

「けもののにおいがすわ。それは日向のにおいとも言うのかしら。」

「今の風向きはどちら?」

「さあ、どっちなのかしら?でも深部にかなり入りこんできた今にあっては、もはや外の冷たい空気も届かないようで、また外層にいる時のような彼女たちのさわやかなフローラルやトロピカルな香りはなんら楽しむこともできなくなってしまったものよ。」

「ここはなんだか生き物のにおいに満ちているわね。」

「なんていうかプライベートな部分を見てしまっているような、こちらとしても恥ずかしく感じてしまうようなもの。」

「バツが悪くてなんとなく罪悪感すら感じてしまうような?」

「ええ。ただ悪いけどあなた、もうちょっと声を張ってくれると助かるわ。あ、これは今日言ったことではないわね。今あなたに言ったこと。薄いとはいえカーテン越しでは私に届くその声も若干その大きさも縮んでしまうようだし、あなたのものって元々くぐもったようなものでしょう?声が悪いということじゃないの。別に嫌悪感は感じないし人によって、特に私からすれば安心するような、いつまでも聞いていたいようなものだとは思うものの、それはまず聞こえてくれないことにはね。まあとりあえずここまでは、何一つ間違っていないと思うわ。なにも違和感を感じたことは無い。でもこうやって再現するのも面白いものよね。今日あなたと私で会話したその内容を思い返しながらそれをできるだけ正確に、そう話した通りの声の抑揚をもって会話するのっていうのって。どういうきっかけでこんなことを始めたのだっけ?まあいいわ。その続きってなんだったかしら?カーテンをくぐる瞬間が怖い。そう私が言ったのかしらね。これもまた何をきっかけにか。」

「じゃあそこになにもいないか、覗かずにまず手か足だけをカーテンと砂の隙間に入れ込んでみるのは?」

「もっと怖いじゃないの。今にしてはそんな事なんてとてもできる状況にないんだから。私たちは深部に入り込んでしばらくするとある悪魔にたぶん会ってしまい、それに追い立てられている内どちらに進んでいたものかわからなくなってしまっている困った状況にあることをあなたは忘れてやしない?私たちが進むべきは城が形作る円の内側にはなるけど、内側っていうのがどちらなのか。すぐにわかりそうなものなのにわからないなんてね。」

「ええ。一つ一つの部屋は綺麗な長方形であるだけで、どちらの面がどちらに湾曲しているのかなんてまったくわからない。たいして小さな部屋でもないのに。これはまだ中心がだいぶ遠いということを表しているものだとは思うけど、実際困ってしまったわ。カーテンがこんな形で障害となるなんてね。深部に入った途端にカーテンは薄くて白く透けるものから真っ黒の暗幕に変わってしまったものだしね。」

「どちらから吹いてくるものか、その風でカーテンが揺れるのがまた怖いのよ。しわの形が変わるでしょう?するとそれに乗じてその影が浮かび上がってくるのだもの。悪魔の姿が。」

「それはただそう見えるだけじゃない?埃具合が気になるとか、ものの置き方が気になるとか、左右に持った荷物の重さの違いが気になるとか、右に二回まわったままだから左に同じだけ回りなおさないといけないとか。」

「なによそれ。」

「結局は気にしても意味が無く、できるだけ気にしない方がいいっていうこと。」

「ええ。気にしたくないようなこと。目をそらして克服するしかない。忘れてやるしか。そういったものに悪魔は似ているのだわ。それはこんな会話を聞きながら今もきっとやさしく微笑んでいるのでしょうね。」

「そんな気がする?」

「ただ手を出さずに私をほほえましく見ているの。幼子を、もしくは小動物を見ているような感覚でね。私の気持ちがわかるのよ。その習性がね。」

「習性?」

「それは、一人になるのを怖がっているわ。一人になるときなんてほんとうにわずかだからそうね、他の二人が眠っているときとか。そんなとき、彼女はカーテンのシワで形作られたその陰に手を伸ばすのよ。」

「どういう気で?」

「そんなのはどうでもいいわ。どうにでも。それに触ろうとか、それともやっぱり不快だからその形を崩そうとしてもいい。一方でそれは手を伸ばしてきてくれるのならなんでもいいの。その手をひっつかむことが出来ることに変わりはないのだから。でもまだそうなってはいない。妄想をしているのね、その悪魔も。待っているわけじゃなく、その妄想をしているだけでいいとも思っているのだわ。もちろんじっくり私を見ながら。この得られそうで得られない感じがなんともたまらないのよ。ただだからといって本当にそれだけでいいと思っていたとして、実際手が伸びてきたなら咄嗟につかみ取って勢いよく引っ張り込むものなんだから。そうでしょう?」

「ええ。」


「こんなことを考えてしまうなんてどうかしてる?」

「どうかしら?」

「きっとこの場所に立ち込める怪しい雰囲気が私をそうさせるのね。この空気にやられて私は嫌なことばかりを考え進めて、そしてひとりでに破滅へと向かっていくのだわ。」

「悪魔の意図通りに?」

「ここを、この城を設計した人は今の私達を包んで止まないこのただならぬ雰囲気までを意図していたものなのかしらね。その意図通りの空気を私達は感じさせられているものならなんだか頭にくるものだし、もしもそうではなくその人の意図しないことを私たちは体験しているものならそれはまた不安だわ。」

「ここは侍女達さえ踏み入ってはいない場所になるものね。」

「なんだか私たちの見知った理とは違うようなもので動いているような、ルールがわからない場所みたい。」

「風の便りを間違えると悪魔に会ってしまうような?」

「そう。悪魔に追われるなんてね。でもなんだかそれと私たちの関係っていうのはすごろくのような感じに思えるのよね。」

「すごろく?」

「何が言いたいかわかる気はしない?」

「私たちが逃げた分だけそれもまたこちらに進み来るような感じ?だからどんなに早く逃げてもその距離は一緒だとか、そういうことかしら?」

「悪魔は私たちの一番恐怖するような距離を保ち、私たちはいつまでも強い不安に怯え続けるの。」

「そうなら逆に動かなくてもいいってことにもなるわ。そのままでは餓死するだけだけど。いいえ、この場所ではそうではないわね。」

「死ぬことは無いけどいつまでも居心地はよくならず、不快で仕方が無い場所。風なりがかすかに歌のように聞こえたならすぐに逃げないといけない。そうしている内進む方向をまた見失い、迷路の中をさまよっている気分になってきたなら私たちはまた頻繁に目をつむるようになる。」

「音に耳を澄ますため。」

「ええ。」

「迷路と言えばその建築家は元は迷路師だったらしいわ。」

「迷路師?」

「作る方ではなく解く方らしいけど。その建築家からこの城の事について聞き出すのは大変だったわ。特に思い出させることに骨を折らなければならなかったんだから。」

「ここを訪れる前にあなたはそういう下調べをしてきたということね。でも彼はこの城について忘れようとしていたものかしら?せっかく作った建築物が何かしらの怪しい儀式に利用されているらしいこの現状を嘆いて。」

「いいえ、彼に言わせれば次の構想に支障があるから忘れるよう努力した。それだけらしいわ。」

「この城について悪い印象は特に持っていないどころか、彼はこの城の存在すら忘れていたということね。」

「ええ。でも彼はこの城の完成によって、妻を失うことにはなったけどね。」

「失った?」

「心を痛める準備なら要らないの。その人は彼のもとを去ったという意味だから。」

「なるほどね。この画期的で業界人やその道の人間がいかにも称賛しそうな建築物を建てたことでそれなりの名声を得ることになり、仕事や仕事とは言えない取材を受ける日々でもって、知らず知らずの内に妻をないがしろにしてしまったために逃げられてしまったと。よくあることよ。聞き飽きたというよりも、いいえ、常に起こっていることだものね、こういうのって。夫婦という関係が至りがちな一つの形だわ。」

「そうね。世間でも彼はそういう面で、そういうありがちな失敗をした人ってことで認識されてしまっているわ。ただね、そうではなかったの。その女性は彼の前から姿を消したものの、その経緯が違う。心の中で起きていたことは違う。」

「真実はそうではないと?」

「彼は言っていたわ。最もそれは自分の中でだけでのこと。彼女の中で起きていたことはわからない。思えば彼女が何を考えていたものか、僕は最初からわかっていなかったのかもしれない。」

「どういうことを言っているのかしら?彼は妻である女性が姿を消したその理由がわからなかったということ?」

「そう。居場所が見つかったと彼女は言っていたらしいわ。」

「居場所が見つかった?」

「彼女が彼の前から姿を消す数か月前、彼は完成したこの城を彼女に見せたらしいの。手をつないで城の周囲を数日かけてようやく一周した二人は布のカーテンをくぐって中に入り、何枚かを通り過ぎたところで彼女がそう呟いたことがあったのだって。彼はいなくなった彼女について思い返してみると、彼女がどういう女性かあまり知らない自分に気づくわ。」

「あまり知らないっていうのは?」

「彼女についてはその性格が優しいとか、料理ができるとか。そういったことは知っているものの、特筆して語るような、彼女の特徴的なものを彼は思い出すことが出来なかったもの。」

「彼女が特徴のない人だったということ?」

「印象に残ることが無いのよ。唯一挙げられるとすれば彼女は人と会うような時はいつも自分の後ろに隠れ、そうすることを面白がっていたように思う。それだけ。彼女は妻となる前には雑貨を仕入れて来ては売るというような仕事をしていて、それは積み木のようなものと聞いた気がするものの、それ以上の詳しいことは聞いていない。」

「彼女自身のことについてあまり聞かないことが、夫婦を長く続けていく秘訣だとでも彼は思っていたのかしら。」

「実際にそれはうまくいっていた様子。」

「彼女が突然姿を消すその日までね。」

「ええ。」

「彼女は彼に不満があったのかしら?彼女がいなくなるその兆候は他にはなかったもの?」

「彼は特別鈍感な人でもないわ。そして彼女は至って普通の女性なの。親が早くに亡くなっているもののそれはいたって普通の、よくあるような病気での死であり、早くと言ってもそれは成人してからのこと。」

「人によってはなんら不満が無いでしょうね。」

「彼女はそれからも一般的な市民として平均的な人生を送ってきたものよ。普通に働いて慎ましくお金をやりくりしていたようだし。具体的なことをいくつ知ってもなんら変なところはない。ただその生活の中で友人というものはいなかったらしいけどね。」

「そう。」

「学生の頃にはいたらしいものの、学生時代を終えてからはその友人たち、具体的には二人だけど、連絡を取り合っていない様子。」

「そういうものよ。それに社会人で友人が一人もいないなんてさして特徴的なことでもないわね。典型的なこと。」

「そう。でも私は彼女の過ごしてきた様子を知っていくうち、なんとなく彼女は何か隠れるように生きてきた印象を持ったのよね。」

「どういう理由で?」

「なんとなく。それだけ。彼女に関してはやっぱり特筆すべき点も無い人。」

「そう。」

「でも一つだけ気になることはあったものだわ。彼は彼女との出会いが思い出せないらしいの。いつどこで彼女と出会ったものか。そうなものだから彼女との思い出、一番古い記憶というものを辿ろうとしても辿ることが出来ない。初々しい彼女というものの記憶が無く、思い出せる記憶の内では、彼女は既に彼の見知ったような女性になっていた。これもよくあることなのかしらね。どう?ありそう?」

「さあ。」

「もしかしたら彼は彼女がどこにいるものかちゃんとわかっているのかも。彼が彼女を大して探そうとせず、次の建築物の構想に没頭したのはどういう理由があるのかしらね。」

「ええ。でも、」

「ねえ。さっきからカーテンに話しかけて、あなたは何をしているの?」

「え?」


彷徨える調査員


「眠りも妨げられないようなこの緩やかなる風が、内と外からとで入れ替わるその様子は波のようだと私たちは表現し、実際にそうであるように感じてきたものだけど、これはどういう理屈でこうなっているのかしら?」

「中の空気が外側へ吐き出され、吐き出された空気の分を取り戻すようにして吸い込んでいるのじゃない?」

「呼吸のように?」

「ええ。」

「そうなのよね。奥に進み入っていく内なのか何なのか、私か、私たちはそれを波とか風というよりはむしろ呼吸のようなもののように感じているの。どういうわけかそちらの方がしっくりくるのよ。その周期はそれよりもずいぶんとゆったりしているものなのにね。」

「でも気づいてる?それは私たちに気づかれたくない程度にほんの少しずつ早くなっているみたいよ。」

「周期が?そう感じるの?」

「それは徐々に早くなり続け、最終的に呼吸と同じになったりして。」

「誰のものと?」

「誰のもの?」

「侍女達のうちの誰かか、それともそれ以外の誰か別な人か。あなたはどう思っているもの?そうでしょう?人によってその早さは違うもの。私はそう思っているわ。」

「じゃあ彼女たちが今目の前にしている偽物の彼じゃないことは確かかしら。」

「そうね。でもそう言うならあれよね。なぜ偽物の王子なんかが用意されたものなのかしらね?本物の王子が姿を見せなくなってしまったとはいえ。」

「彼女達がかわいそう?」

「王子の代わりということだからしょうがなく世話をさせられている感じだったように見えたし、実際そうなのだわ。何のために彼女達はあんな横柄な人の相手をしなくてはならないのか、その意図がいまいち浮かばないのよ。」

「王子がいるときの生活を忘れないため。」

「忘れないため?」

「いつでも王子を迎えられるため。」

「あの偽物では王子の代わりにはならないわ。不足しているものが多いもの。それでいて無駄な部分がありすぎるのだわ。」

「だけどそれでいいし、それがいいの。いいえ、そうでなければならない。」

「どういうこと?」

「彼は充足していないことがいいの。それは造花ではなく、花の形をした紙細工。気持ち悪さを感じないもの。」

「偽物ですらないから?」

「きっと見た目にも全然似ていないのでしょうね。彼女達は日々彼にがっかりし、イライラさせられながらかいがいしくそのお世話をしていくわ。」

「本物の王子との心地よい日々を思い出しながら?」

「ええ。彼は王子が戻ってきたらどうするかしらね。」

「彼にとって侍女たちの取る態度は分かり切っているわ。王子が帰還後すぐさま、その姿を消すのではないかしら?要は無いし、周囲にとってこんなのがいたら目障りでしょうがないもの。」

「そうね。彼は本国から派遣されてきたものと私たちは思っているけど実のところそうでもなく、その存在はもしかしたら本国も知らないことなのかもしれないわ。」

「どこから来たものかわからない?」

「彼女達がそんな彼を追い出さず、あんな風に振る舞っているのは彼女たちがそれほど寂しいためでしょうね。彼女たちとあの偽物の彼との間には、私たちのちょっと測りかねた表に出てこないそういったなにかがあったりするのかも。」

「そう。」

「でもその偽物の王子のことを姫が見たらそれはまたどう思ったでしょうね。」

「姫?」

「王子には一緒になる予定の人がいたものよ。」

「そうなの?」

「それがまたかわいそうな人なの。彼女はある王家に通ずる一族に生まれ、上には姉が一人いただけ。内気で口下手な彼女に比べ、その姉は奔放な人でね。本来なら王家の王子と一緒になって一族の権威を維持していくべき責務があったもののそんな性格のせいかある日ふらっと旅に出てしまったわけ。」

「勝手気ままにも?」

「その人以外の周囲にすればね。そうしたものだから彼女は自分が家を支えていかなければならないと自覚して、その性格をなおし、どんな王子との縁談があっても相手に気に入られるような女性になるよう訓練を受けてきたものよ。」

「姉とは、性格も考え方も違うのね。」

「でもいろいろと詰め込み過ぎてしまったみたい。それとも自分を追い込んでしまったのか。彼女は潰れてしまったわ。」

「精神的に?かわいそうね。」

「彼女はひどく自信を失って誰にとっても合わないような姫になってしまった。満足な受け答えも出来なくなってしまったのだもの。でも日常生活における家族や友人との会話は普通にできるの。あるいは男性との会話においてもなんら支障はないかもしれない。」

「なにがダメになったの?」

「縁談相手とのものとなると言葉が出てこないのよ。面接やそういったものでも事前にリハーサルをして経験を積んで備えるじゃない?」

「そうね。」

「彼女は使用人や教育係を王子に見立てて模擬の縁談をするのだけど、どうしても言葉に詰まってしまうようになったのよ。」

「相手が大事な縁談相手としただけでひどく緊張してうまくいかないのかしら。」

「幾度繰り替えしても慣れるどころかどんどん酷くなっていく。彼女は一層自分というものにがっかりしていくわ。」

「どうしていいかわからなくなってしまったのでしょうね。」

「それは彼女の内面における問題になるから周囲もまた何をしていいものかわからないの。」

「変に言葉をかければ余計重圧に感じさせてしまう恐れもある。」

「そんな彼女にとって重苦しい年月を経たある時、旅に出ていた姉が家に帰ってくるわ。遠方の国の王子と婚約を果たしてね。」

「まあ、自由奔放な姉だったけど、結果的にはうまいこといくものね。きっと生き方が器用な人なのよ。」

「家は安泰となり、彼女もまた姉を祝福したわ。嘘偽りない心で。」

「そうなのかしら?」

「彼女はそんな姉を慕っていたの。家を支えると強く自覚したのはなんのしがらみ無く彼女が旅を続けられるようにしたかったためでもあったりしたのかしら。ただこうなっては、彼女は自身を必要のないものとして扱って疑いない。彼女はその時ある王子と縁談が決まっていたのだけど、その相手とのものが予想通り失敗したものなら、あとはどうして生きようか、それとも何かの方法でもってこの閉塞感から解放されてしまっていいか考えていたものよ。きっと。」

「まあ。彼女は自身をどう思っていたものかはわからないけど、他人からすれば明らかにそれはかわいそう。決して彼女にはそういう目を見せてはいけないものだとはわかっているけれど。ただ、その彼女を見ていたであろう姉となるその人はなにをしていたのかしら?」

「一体?」

「ええ。」

「二人は口を聞いていないのよ。姉は家に帰って親に顔を見せるとまたすぐに遠方にある彼の国へ帰ってしまったものだから距離的に離れてもしまったし。白状かしら?」

「無責任だとも思いたくなるものよ。わかるでしょう?」

「ええ。でも会えばその人は、王子と一緒になったのは妹である自分のためではないと言ってくるだろうし、言わざるを得ないものよ。」

「そうでしょうね。」

「そしてそれは事実なのだろうけどそれを口にすること自体、相手に見透かされていると思わせるのが嫌なのだもの。とっても。いいえ、それはどうみたって避けなければいけないことでしょう?」

「だから顔を合わせることすらしないと。」

「気にしているという感情はどうしても顔に出てしまう。会っただけで伝わってしまうことも分かり切っているわ。まあ、会わなかったところで結局彼女はちゃんとわかってはいるのだけどね。自分の存在すら忘れたような態度のそんな姉の胸の痛みなんか。」

「人の思いというのは意外とわかってしまうものよね。」

「そういう心情の流れになったらもうそれは外から変えることはできない。この状況から脱出するには自分が変わらなくてはならないとわかっているものの、彼女はどうしていいかわからない。」

「もがくのも恐いのね。深みにはまってその圧力で壊れそう。」

「ただその閉じゆく世界の中である意外な出来事があってね。彼女を取り巻く状況は一変するわ。彼女におけるそれはもちろん心の状態のことを指すものよ。」

「ええわかってるわ。彼¥女に何があったの?」

「縁談は、相手方がそれらしい時間を設けることが出来なかったようで、彼女は王子の電車の旅におけるひと時においてだけ、それに乗り合わせる形で行われることになったの。途中の停車駅で乗ってほんの数時間だけ一緒に同行し、また途中で降りていく。そんな感じ。結果的にその出来事は姫の内面を楽にしたみたい。」

「縁談は成功したということ?」

「まあそうでしょうね。ただそうなるには相手が姫を認める以外に、姫もまた相手を気に入らなければならないものだったのでしょうけど。」

「どんな会話があったのかしら?」

「それはわからないわ。その会話はその二人だけのものだもの。まあそこに一人くらいは相手の護衛か世話係かがいてもおかしくはないものの、私達なんかには測りかねるもので違いないでしょ?」

「そうね。でもよかったわ。」

「そうかしら?彼女の相手はどんなことになっているのよ?」

「そうだわ、その相手がかの王子なのだった。」

「そうでしょう?」

「ええ。」


「そんな沈んだ顔をしないで。私たちには嬉しむべきこともあるんだから。ちゃんとね。」

「嬉しむべきこと?」

「周囲をよく見て、なんとなく円の中にいるものと意識できるような形にはなってきたと思わない?部屋を区切るカーテンをよく見るとそれが弧を描いているものよ。これは終わりが見えて来たってことを現しているものということはわかるわよね?」

「ええ。終わりが近いのがなんとなくわかるわ。でもそれだけね。」

「そうよ。だから彼女も同じことを感じていたのではないかしら。」

「彼女?」

「さあ、誰だと思う?」

「悪いけどものを考える気分じゃないわ。なにもかもがなんだかひどく面倒に思えて仕方がない。布の城の中心付近というのは誰かさんの話によればなんて言われていたのだっけね。」

「それがあなたの今の精神状態かもしくは頭の中をも含めた体調なりに影響しているということかしら。」

「これは甘えだと思う?」

「さあね。何も知らない私達だもの、なにがどうだとも言えないでしょうね。例の話通り、この場所における時間の速さが遅くなっていたってどうだって私たちにそれを確認する術はないわ。もしも本当にそう言ったことが起こっているのだとして、私たちの姿は外周にいる彼女達からすればひどくのんびりとしているように見えていたりするのでしょうけどね。」

「イライラさせてしまうような恐れだってあったり?」

「それは無いわ。彼女達は私達を見に来ることはできない。そうでしょう?」

「ええ。彼女達だもの。でも逆にすっかりその中にいる私たちにとってみれば、彼女達のせわしない日々は一層激しく、収集のつかないものになっているのでしょうね。この中心を置いてきぼりにしながらグルグルと彼女達は先へ先へ回り続けて行ってしまうの。」

「渦が出来てしまうわね。」

「そう、そのぐるぐるした線は積み重なり続け、どんどん厚くなっていくわ。でもその渦はどちら向きかしら?」

「その誰かが右利きか左利きかによるでしょうね。」

「誰かとは?」

「例の人か、もしくは王妃か。」

「まあ誰でもいいわ、私たちはまだその誰の顔すら見れてはいないんだから。そんな知らない人たちに振り回されてこんなおかしなところにまで来てしまってね。この砂だって変だわ。なんでこんなに奥まで届いていているのでしょうね。時間の流れが遅いのならそれはまだ届いていないはずだと私は思ったりするのだけど。」

「時間の壁に阻まれて?」

「ええ。それらは中央に近づくほど厚く積もっていくばかり。王子は彼女達の溢れる愛を集めて離したくないみたい。そんな侍女たちの想いに対して王子はなにを返すものかしらね?」

「一方で彼女たちは、砂が王子を運び返してくれるよう願っているかもしれないわ。」

「運び返す?」

「海に浮いているものはじき海岸に流れ着くものでしょう?打ち上げられるようにして。」

「砂は城の外まで溢れてしまっているのに彼女達は撒くことをやめないのはそういうことなの?」

「それをやめられないのは、王子に帰ってきてほしいから。」

「そう。」

「彼女たちにとってもっとも嫌な結末はなんになるのかしらね。王子は別の侍女達との生活を送っているなんてものが無駄な妄想だとすれば。」

「彼が痛ましいことになってしまうこと。」

「もしくは王子のやっていることが悲劇的なこと、破滅的なことであること?」

「破滅的?」

「例えば、私達みたく調査に訪れるものがあるじゃない?それは月日を経る中で徐々に人員が増やされて行き、月日を経ればそれはたくさんの人が入ることになるわ。それでも事態が進展しなければ彼女たちもまた探索を我慢できなくなるし、そうしたことやいろいろな理由で実に膨大な数の人がこの城に吸い込まれていくことになるの。」

「それで?城に入った人たちはどうなる訳?」

「部屋の一つ一つが誰かの部屋になるわ。」

「一人一人に部屋が割り当てられるかんじ?それで奥から詰めるようにか、それともランダムに収まっていくのかしらね。枝豆がその皮の中に行儀よく入るみたいにして。いや、この例えはちょっと変ね。」

「それで一度部屋が決まったらその人はずっとその中から出ないわけ。なぜならそれが自分だけに与えられた大切な部屋なのだし、それ以上に居心地が良すぎるものだから。」

「その人達の気持ちも全くわからないではないものよ。ここにいては何をする必要も無いもの。私達だって仕事でなければあなたの言うことなんか無視して、すぐにでも寝そべってテレビのリモコンを探し始めでもしてしまうんだから。それで?それはすべての部屋が埋まるまで続くのでしょう?きっと。」

「そう。そうやって埋まったときにそれは起こるの。いいえ、もしくは何も起きなくていいわね。それはやっと終わるということになれば。」

「終わる?そのあとは?」

「ずっとそれが続いていくだけかもしれないわ。」

「それは何の意味があるの?続いていくことに意味があるとか?」

「もしくは続いていくことができるとかね。」

「その中にいる人たちはどういう心境なのかしら?しばらくは気持ちよくて、寝ては起きて起きてはすぐに寝て何も考えない日々を送っていくのでしょうけど。」

「みんな同じ場所に収まるものだから同じことを思って然るべきなの。同じ考えになるか、それとも同じ人みたいになるか。人格とか意識がね。」

「でもそうなったらちょっと気持ち悪いわね。見た目も違うし年齢も違うのにっていうか、同じ人ばかりがいるっていうのはなんだかね。同じような性格の人が一か所にいる光景を思うだけで、ちょっとこそばゆくなっちゃうわ。」

「どうして?」

「性格が同じ人はこの世の中たくさんいるでしょうけど、そういう人たちは世界にいい感じに散らばっているものだからね。そのおかげで全く同じ性格をした人が世界に余るほどいるなんていう人の集団の恥ずかしい事実をうまく隠せていたり、そういったことを意識しないで済んでいるかもしれないんだから。」

「集団というものを測るステータスは、その多様性にあると言われるものね。」

「多様性のある集団がさも正しいもの、すばらしいものと怪しいラッパ吹きがみんなに言いふらすのを私は聞いたことがあるわ。それらは彼らの価値観でしかないものではあるけどでも、実際的な話、多様性があることはその集団にとってのある種のリスクを分散できることはあるらしいわね。危険のリスクによって全部がダメになる可能性が少しずつ削られていくって感じ。」

「どの程度?」

「ほんのちょっとずつね。歯石が少しずつ厚くなっていくくらいのもの。」

「ほんのちょっとじゃないの。」

「そう、ほんのちょっと。だけどやっぱり多様性は必要なものかもしれないとしたところで、さらに彼らは別の人でなければならないわ。別の人たちがあつまるからこそ集まっていることに意味があるのだから。同一人物が一か所に集まってもそれはなんのお祭りにもならないわ。そうでしょう?いろいろな他人でごった返すから花火大会は楽しいのよ。」

「そうなの?」

「たぶんね。」

「じゃあそこに集まる人は同じ人格や性格になるということにはならず、そうね、同じ夢を見るというくらいのことでいいのかしらね。」

「同じ夢?どんな?」

「それはきっと王子に関係すること。」

「王子?それは彼のなにになる?王子の半生を辿るとか?それとも王子が見ている風景を見るとか。」

「もしくはそうね。やっぱり一人一人見ているものは違ったりするのかも。みんな好き勝手に、でも意思とは関係なくその人なりの王子の夢を見ていくの。でも共通する点はあってね。それは王子のこれからについてのことになるわ。これから王子がどういう人生を送っていくか。」

「どういう生活をし、旅をするならどのような旅をどういう場所を歩むことになり、そして目指すことになるのか?」

「その途中で誰に出会いそしてその中の誰と一緒になるものか。または王子の旅はとても孤独なもので、寂しさに包まれた中で出会った誰かなら、その人と手を取り合って歩みを進め始めるのはごく自然なこと。」

「始めはただ一緒に行ってみるということだけではあるかかもしれないわね。それが一緒に旅をしていくうちに、お互いを必要とし、そしてまたパートナーを失った人などを見ていくうちにその大切さを実感したりしてね。本当はそんなことが無くても、片方は最初から決めていたかもしれないものだけど、二人は彼らがそう願いたくなった通り、一緒に旅をし続けていくという感じ?」

「一緒になるとは言っていないわ。二人が一緒になるのは旅を終えたあとからだけ。それまでは旅のパートナーよ。」

「じゃあもしかしたら王子はその旅の中でこう思い悩むこともある?自分が旅を続けたいと思うのは、彼女とずっと一緒にこうしていたいからだけなのではないだろうか。旅をやめ、二人の仲が次の段階へ行くことを自分は恐れているのでは。」

「今の心地よい関係から、次の仲へ移行することで、それがどういうことになるのかそれが怖い?」

「近づきすぎて相手に抱く性的な衝動や、相手へと向かう気持ちがもしかすると飽きたりして薄まってしまうことがあるかもしれない。」

「それは甘えかもしれないわ。決断を回避して旅を続けることは。」

「でも甘えることになんの罪悪感を感じる必要があるものか。それもまた疑問なのよ。」

「そうね。その旅の目的を彼は探し確認していくものの、彼自身もその答えを出すには随分と時間がかかりそうだと自覚するものなのかもね。まあそう考えつつも現実には相変わらず甘く希望溢れる旅を続けていくものなのでしょうけど。自分勝手かしら?でもいいのよ。それは彼らの希望なんだもの。頭の中でならなにを願ってもいいものでしょう?」

「そういったものでもなく中にはしょうがない夢を思ってしまう人もいるかもしれないわ。本当に願ったものかどうかよくわからない。でもまあそれも決して少なくはないでしょうね。」

「ええ。それで、星の数ほどとはいかなくてもたくさんの夢が作られていく中、王子もまた気楽なもので、その中の一番いいシーンを彼は選んでそれを自分のものとしていくのよ。」

「選んで、そしてまた次のいいシーンを渡っていく?」

「それが王子にとっての旅。人生は選択の連続だというけれど、王子にとってはそういうことなのよ。」

「でも好きな場面ばかりを並べ立てたとして、それぞれは別につながっているわけではないものでしょう?それはやっぱり好きなシーンばかりになるのだから。皆に対して間が繋がるように想像してなんて言えないものだし。」

「それは彼が自分でやればいいわね。そんなに難しいことじゃないものだろうし。それは説明が付けばそれでいいの。もしくは彼はその作業こそに楽しみを感じているものかもしれないわ。だってどんなに悲劇的なことを間に挟んでもね、それは結局次の心地よいシーンへ繋がることが約束されているものだからなんら悲しいことなんてないの。もしかしたらそれがわかっているからこそ、彼がその間に挟む旅は壮絶なものを用意するかもしれないわ。それがどうやって解決され、二人は旅を続けていくものか。考えることは楽しいことよ。きっと。」

「いいとこ取りで大分うらやましいものよね。」

「すべては彼のためにあるものなの。まあ、今にしてもこの城自体が王子のためのものなのだから。」

「彼女達はそういうことを恐れているという話だったかしら?」

「いいえ、もしも王子が望むことなのであれば、それでいいものよ。」


「でもその中に一人、彼女たちを騙しながらここにいる人物について私は知っているわ。」

「彼女たちを騙してここにいる?」

「その存在だけね。侍女達一人一人には特に役職も無く。ほとんどの仕事はローテーションで回されることはもう言ったか聞いてるわね?」

「そのやり方はうまくいっているとも。」

「そういった中、ただ一人王子の側近として働いているものがいるらしいの。」

「他の全員に黙りながら?」

「彼女は侍女の仕事をこなしながら密かに本国と連絡を取り合い、王子を観察してはその様子を報告し、またなにかしらの指示を受け取るの。受け取った指示や連絡のうち、王子に伝えるべきは伝える、そんな役目。」

「他には?」

「王子は定期的に本国へ行っていたそうだけど、ひっそりと彼女も帯同していたらしいわね。どのような方法で彼女達の目を盗んで城や仕事を抜け出していたものかは知らないけど。」

「じゃあ、彼女は彼女たちが知らないような情報をいっぱい耳にしていたのではないかしら?」

「そうでないはずがなく、王子の知ることならすべて彼女も知っていくの。時には王子以上に。」

「では、王子が城の奥に引っ込んで出てこなくなってしまったその真相も彼女は知っているのではないの?」

「そう、だから私は彼女に会って話がしたかったものだけどそれは叶わなかったわ。もっとも顔も知らないのだけど。でもいいの。彼女もまた最後の結末について、王子がどうするかは知らない。すべてを知っているわけではないのでしょうから。彼女自身は自分のことをどのように思っているかしらね。王子に起こっているその真相を知りつつ、彼を慕って仕方がない他の全てを欺き続けるなんて。また王子自身に対してだって、彼を監視しつつ縛り付けるような役目ではあるのよ。」

「それは王子を守ることにつながるものと彼女は納得していたのかしら?」

「もしくは葛藤も無く、彼女自身は巨大な歯車なる事業を自分のような小さな部品の不具合によって停滞させることがないようにだけ、それだけを思っていたのかも。」


「誰において、王子にさえもなにの言葉を掛けられたところでこの心は動かず、本国の指示以外のことは致しません。」

「それは正しいね。でも君は僕と二人になるときはいつもそう言うのだね。それはそう決まっているのだろうか?」

「はい。これは王子、あなた様においても忘れられてはならないもの。」

「そう。だが君の姿勢はそれでいいのではないかな。そのほうが君を目の前にする相手としては楽な時もあるだろうから。相手に届かないなら何を言ってもいいし、どんな声色でもいい。とにかく気を遣うことが無い。」

「普段私たちに対して気を使っているのですか?」

「そういう部分は少なからずある。大切な君たちだもの。」


「そんな人がいたなら一度話すことは無理でも見てはみたかったわ。」

「どうして?他の彼女たちと比べてどんな冷えた目をしているか興味があった?」

「ええ。」

「そうならあなた達か私が話した侍女の中にいたわよ。側近とされる彼女なら。」

「あなたはその人のことを知らないんじゃなかったの?知ろうとしたけど断念したって。」

「いいえ知らないわ。でもいたことはわかってる。」

「何をもって?」

「調査員なるものが城を訪れたなら、きっとその側近なる彼女も顔を出して、どんな人が城の深部へ探索に入るものか見てみたり話してみたりしようとするはずよ。その素性を隠して。」

「あなたは自分が彼女の立場だったらそうするもの?」

「そうするだろうから言ってるわ。」


「いつまで歩き続けるのかしら。」

「さあね。」

「例の調査員にだってぜんぜん会える気がしない。」

「その痕跡を見つけたのに?」

「ええ。」

「彼女もまた立ち止まってはいないでしょうからね。でも調査員といえば、側近の彼女はその人とも話さずにいたものかしら?その調査員なる人の素性を彼女は知っているものなのに。」

「調査員の素性を知っている?」

「きっと顔を見ているはずなのよその人は。私たちの前にこの布の城に入り、深部へ探索に入ったまま出てこなくなった人。その調査員は姫なの。」

「姫?」

「どこの姫かはもうわかっているでしょう?私の口から出た人の内、姫と言えばそれは例の彼女しかいないものだもの。」

「それは確かなの?」

「ええ。彼女は深部の奥深くで迷い彷徨っているかもしれないわね。彼がまだこの世にいるものか、もしくはいなくなってしまっているか不安な中で。彼女がなぜ深部の探索に入ったものか、それは言わなくて大体はわかるものとは思うのだけどどうかしら?」

「あなたはそれがわかるの?」

「彼女は王子を失えば以前と同じになってしまうもの。生きる理由も無くなってしまうわ。だったなら王子を探しに行ってしまう他ない。彼女がこう考えない理由があるかしら?」

「姫は彼についてどこまでを知っていたもの?その深部で行われていることについて。」

「さあ、どこまでかしら。それは相当深いものだとして、でも彼女もまた最後までは知らないのでしょうね。彼女は探索に入ったのだもの。結果を知っていればそうする必要も無いでしょう?」

「ええ。」

「それとも彼女は彼の遺体を探す、そんな寂しい旅をしているのかしら?」

「もしも遺体を見つけたなら彼女はどうするもの?」

「そうね、姫の立場だったらどうするか。遺体を持ち帰ろうとは思わないわ。彼女が私だったとして想像できるのはそこまで。でも彼女ならもしかしたらその横になって、そのまま命を落とした彼に添い遂げようとすることもあるのかしら?でもこれでは寂しすぎるわね。彼女は一人でこの中を進み入ったとしてそれはきっと寂しくなかったのよ。彼女は彼を救うために来たのですもの。そうでしょう?」

「ええ、きっとそうね。」

「そして彼女が中心部に到達したならすべての結果が明らかになるのだわ。」


「思ったのだけど、一方で侍女たちは姫を知らなかったのかしら?」

「知らなかったらしいわね。彼女たちの中では彼女は調査員という認識でしかない。」

「王子と縁談をして、恐らくお互いが認め合った仲なのに?」

「縁談の場は電車の中だったものだし、姫は王子と一緒になる儀式を済ませるまで城には入らないのが普通よ。ただ彼と彼女に関してはまた違った事情があってね、その縁談はそれ自体が無効なの。」

「無効?」

「本来この縁談はあるはずのないもので、何かしらの手違いで行われたものらしいわ。簡単に言えば王子は縁談をするような人ではなかったということ。だってそうでしょう?彼はこのようなことになることがわかっていたのなら、それは行ったとして意味のないことだわ。」

「そう、とにかく侍女達は知らなかったと。」

「何よその顔は、まだなにか引っかかっているような顔をしているわね。」

「それはそうよ、不可解なことばかりだわ。王子の探索に彼女は来たのでしょうけど、それには布の城の彼女達、ではなく本国の許可が必要なものでしょう?あなたが持ち込んだ書類をみてわかる通り。」

「そうね。」

「よく本国は彼女の探索を許したなと思って。」

「そこは確かに不可解なところではあるの。こういった調査は本国の宰相のサインが入った専用の書類が必要なのだけど、彼は書類を用意した覚えもサインした覚えも無いっていうのだもの。」

「また何かの手違いがあった?姫と王子の縁談のように。」

「そうそう起こることじゃないし、一人でできることでもないことだとは思うわ。誰かの手引きがあったのか。いずれにしても彼女がどのような方法で入り込んだのかはわからない。」

「なんだか私としては王子よりもその姫の無事のほうを願ってしまいたくなっているわ。」

「そう思うのは自然なことよ。もしも姫を助け出そうとする役目を負う人がいて、その人が姫を見つけることが出来たとして、果たしてそれがどういう状況だったなら、その人は姫を連れ戻すことが出来るものかしら?」

「どういう状況だったなら?どういう状況でも、状況に寄らず。いいえ、その顔を見たら駆け寄って強く抱きしめ、すぐに手を引いて引き返すに決まっているものよ。」

「果たしてそうかしら?」

「そうよ。」

「その光景が、姫を含んだその情景がそうする手を止めさせても?」

「どういう情景があるの?」

「わからないわ。でもそれを見てはもう引き返すしかできなくなるの。」

「もしくは見届けたくなるような?邪魔をしないような位置でそっと。」

「ええ。いずれにせよどうするべきかはまず見なければわからないものでしょう?彼女の今の状況、その状態を確かめないことには。」

「そうね。」

「姫は誰に引き留められることもなくここに来たのでしょうね。そうする前に密かに準備を進められ、前触れなく居なくなられてわね。」

「ここに来たであろうことはすぐにわかったわ。」

「彼女の親はすぐさま迎えを出すことにしたでしょうね。」

「姫のことについては、親ではなく彼女の姉に一任されているものよ。」

「例の人に?」

「理由どうあれ、彼女に関してはそうなのよ。」

「その姉はちゃんと速やかに姫を救い出そうと動いてくれたものかしら?」

「彼女は例によって姫のこれまでの生きてきた日々について、その内面までを手に取るようにわかっているものでしょう?姫に王子という存在が出来たことはひどく喜ばしいことだったに違いないものよ。そんな彼女だから、姫が王子のもとへ駆けつけようと城の奥へ入り込んでいったことだって、もしかしたらそれはそれで姫がなにかしら没頭できるものができたとし、さして悪いことでもないと思っているかもしれないわ。それは姫の意思による行動なのだし、閉塞感に苛まれていた日々よりはずっとマシなのだもの。」

「そういう考え方もあるのかもね。でもその結末がどうなるかはわからない。彼女は人を出してこの城に向かわせ、その誰かにそれを見極めさせようとするのね。」

「ええ。見た光景によって彼女を救出するかどうかを判断させるの。」

「それって姫の生き死にをその人は決めることになるということよね。その人は随分重い責任を負っているじゃないの。きっと本人はそのことを自覚してしょうがないのだろうし。」

「その人は姫の姉が示した指示よってその決められた行動を取ればよく、機械のようにあればいいのではないかしら?」

「そうあることはできないでしょうね。」

「え?」

「きっとその人は責任の重さよりも姫に対する気持ちの重さで苦労しているのだと思うわ。」

「どうして?」

「そういった重大な判断を任されるような人ならその姫をあまり知らないなんてことは無く、きっとその人は姫と近しい距離で日々接してきた人なのでしょうから。姫が送った苦悩の日々についてもそのすぐそばで責任を感じたり心を痛めてきたような人。そうなればやっぱり姫を助けに来た人っていうのは、誰の要請によらず独自の判断でここへ来たものなのかも。」

「姫の姉にも知らせずに?だとしたらこの城の深部に入るためにとった本国との手続きなりあれこれを一人でやるのは一苦労だったのではないかしら。布の城に入るだけでもいろいろと条件を付けられたり。」

「もしも姫の姉がその動きを知ったことがあったなら、多少強引にでもその人に連絡を取るなりして、急遽雇った私たちみたいなのを合流させようとするものでしょうね。」

「やっぱりそのひと一人に全てを負担させたくないばかりに?」

「ええ。だったなら役には立てているものかしら。緊張するし多少吐き気もするけど、これこそが負担を分担しているということなのだものね。」

「やっぱりあなたたちはすべてを聞いてきていたのかしらね。てっきり何も知らされず何も聞かされないまま、私みたいのについて行けって言われて来たものかと思っていたわ。」

「そうなのかなと思って話しただけよ。あなたの思う通り私たちはなにも知らないわ。でもだから最初の最初、あなたは思いつめたような、そんな顔をして私を見たのかしら?」

「そんな表情をしていた?」

「会話が始まったとたんその顔は引っ込んでしまったけどね。」

「だけどもしかするとその人ったら、姫の状態によってはその姫に寄り添い、そのまま添い遂げようと覚悟しているかもしれないわよ?」

「大丈夫よ。その人の横には私たちがいるもの。私たちの身も犠牲にするような、そんなことはできないでしょうからね。もしくはそうなりそうな雰囲気があったなら、私たちは手に持っている何かしらの道具でもってあなたを縛り付けてしまうこともあるかもしれないわ。」

「その人はそうしたいのに?」

「その人のためじゃない、私たちのためだもの。そうであればどうしようと勝手でしょ?私たちを寄越した人の意図通りでありそうなことだけど。」

「あなた達は本当のところどんなことを言われて来たのかしらね。」


「でもそういう役目の者がどうして僕達なんだろう?いや僕ではない。君だ。」

「その人はまたとんだ危険な仕事を与えたものね。この私に。」

「受けた仕事は投げ出さないと信頼してもいたみたいね。ただどんな恨みを買ったのかしら?」

「君のことだから、適当な居酒屋かカフェなんかに居合わせた人に対し、相手が何を言うのも聞かず勝手に自分の価値観を語ったり押し付けたりしたんだろう。」

「それが姫の姉だったと?まあ、お忍びで市民の生活を楽しむなんていい趣味してるじゃない。それでなにかの怒りを買ってしまったと。」

「いいや、純粋な怒りだと思うよ。」

「その会話の中で、お金を前払いでもらったなら決して仕事を投げ出してはいけない、なんていうことを説教じみた口調で言ったのよ。」

「そう聞いてるの?」

「いいえ、これもわたしの想像よ。」

「まあいいわ。お金はもらってしまったもの。そういうことをその人に言ってしまったかもしれない手前、やり切るしかないわよ。なんか報酬が高すぎると思ったのよね。そう思わない?」

「僕は君について来ただけだ。いつものごとく何も知らされずにね。毎回僕は君のもらってくる仕事に付き合わされて、それで大変な目にあうことが多い。」

「そうね、あなたはそういう人だもの。それにしても、その人は大変だったでしょうね。」

「どの人が?」

「城の深部へ向かう目的が王子の探索でないのでは侍女たちが通してはくれなさそう。」

「ええ、彼女達との交渉は大変だったものよ。」

「違うわ。私が言っているのはその人の手続きに長々と待たされることになった人のこと。」

「そうね。」


侍女、恐ろしい本性


「彼女たちは季節が変わるごとに旅行に行くの。侍女達だけで。」

「それは彼女達の全員が参加する城の公式的な行事となっているわ。一人として漏れることなくこの城にいる侍女の全員が一斉に行くということ。」

「そのときだけは城の紋章が大きく刺繍された足首までが隠れる真っ黒なコートを羽織っていくのだそうよ。秋も春も、夏においてだって。」

「見た目はどうあれ修学旅行みたい?でも季節ごとなんてまた頻繁だと思う?それで旅行なんて羨ましいことだとも。でもその間中彼女達はずっと集団行動なものだから、それというよりは遠足と言う方があっているのかも。」

「それではなんだか楽しさが半減しそうだと思う?遠足であっても最近は自由時間を与えられて好き勝手に散策させるって言うものね。」

「だけどずっと皆してぞろぞろ行く方が楽しいと感じる人もいるものよ。どこかの都市かテーマパークで解き放たれるよりも、集団で山登りする方がワクワクすると言った感じでね。」

「でもその間城はもぬけの殻となる?いいえ、誰もいなくなるわけではないわ。王子がそこにいるもの。」

「そう。彼女達は王子を置いていってしまうの。それは彼女達だけのもの。彼女達は彼女達だけで出発するの。いえ、そこには先導者がいるとかなんとか言っていたかしら・・・、まあとにかく王子はその中に含まれておらず、彼女たちがいない二、三日かもしくは一週間程度の間における王子の大事な世話やら彼女たちにとってはどうでもいい倉庫の運営やらはどうなるものかは知らないけどでも、どこか遠い異国の都市や価値ある遺産に認定されるような景色の中でおしゃべりしながら歩き回る彼女達の姿といったものはなく、彼女達の旅の行き先はいつも同じ場所になるの。」

「その旅行はその同じ場所に行くだけのものということ」

「彼女達は飽きてしまうかもしれないけど、それはどのような場所になったりするかと言えば、それはあるお墓がある場所。」

「簡単に言えばお墓参りといったところかしら。でも彼女達はその墓の前に行って手を合わせなくていいし、祈る真似すら求められないわ。それは建設の途中であって、それはまたそう言ってしまうにはひどく大きくてね。むしろ墓標と呼んだ方がいいもの。彼女たちはその前でお弁当を食べさせられては、すぐに帰らされるだけになる。その為だけに彼女達は長い列車の旅をさせられるの。旅行のほとんどは移動に費やされることになるのだから。」

「それって楽しいと思う?どうかしら。彼女たちは最初その意味も分かっていなかったようだしね。だけど季節ごとにその機会はやってくるのだし、月日が経てばその回数も積み重なっていく。そして墓標もだんだん形を成していき、そうなるともう彼女たちは薄々ながら感づいてきてしまうの。本当に薄く、いいえ、色濃く。まるでそれは気づけと言われているみたい。そう言われなくても彼女たちは気づいているのにね。わからないふりをしても、確信させられていくしかなくなるの。」

「彼女達はだから祈りもしなかったのね。祈りもせず、彼女たちはひたすら遠足のようにはしゃいでいるのだって。口うるさくおしゃべりしながらお弁当を口にするの。たぶんあえてそうしているのよ。それは切ないことだけど。」

「王子は彼女たちがどんな旅行をしているか知っているものと思う?彼女たち侍女は自身の知ることならそのすべてを包み隠すことなく王子へ話すものよ。それが彼女たちとしての義務だから。彼女たち自らがそう語っていたの。でもそう言いながらそれだけは別だったみたい。彼女達は墓標を見せられていたことは王子に言わないの。本国から季節が来るたびに王子の墓を見せられているなんて言いづらいものね。それにそんなことは言う必要がないことだわ。王子もそんなことは聞きたくないでしょうし、話したところで、聞いたところでなにがどうなることでもない。それは思いやりといったものなのかもね。」

「でも彼女たちは隠し通すべきではなかったと後悔していたわ。どうして王子に隠してしまったものか。自分たちが見たそれをちゃんと王子に伝えていたなら今のようなことにならずにいたかもしれないと。その姿を見ることができなくなってからそう思っても遅いわよね。今となっては後悔しかない。私たちは肝心なところで間違えてしまった、そう思っている。もっと慎重になるべきだった。でも、真剣に考えた結果がこれなのだものね。」


「彼女たちは王子に関しては間違ってばかりよ。」

「彼女たちはやっぱり後悔しているの。自分たちが王子の責任感、使命感を育ててしまったということに。責任感や使命感を持つことはいけないことではないわ。それはいいことよ。普通ならね。」

「でも彼女たちにしてみたとき、それは結果的に間違いだったのよ。なぜなら王子が帰ってこないその理由を彼女たちはなんとなくわかっているから。おぼろげでひどく抽象的ではあるけど王子はなにか儀式的なことを行うよう言い渡されていて、王子もまたその使命を自覚しているからこそ執り行っているということを。本当なら遠足で見させられているものが王子の墓標だとわかった時点で危機感を持つべきだったのよ。頭をちゃんと働かせてこういうことが起こり得る、いいえ、本国がなにをしようとしていたかを思案すべきだったの。まあそれでもこの状況は変わらなかったでしょうけどね。その頃には既に王子は使命感のある立派な人に育ってしまっていたのだもの。」

「彼女たちは城を訪問する誰かがあるのなら、その人たちには王子のことは甘やかしてきたと聞こえるように言うものよ。甘やかすだけ甘やかして、使命なんかを自覚しないような人にすればよかったということの表れとして?それがあの偽の王子への態度としても表れているものなのかもね。でもやるべきだったことを今さらやってもそれは全く意味のないこと。だけど彼女達はそうしてしまうもの。この城の侍女たちはこういう人達。」

「そう。」


「どう?思い出せたかしら?目の前の私のことを。今語った彼女たちの中にはそれらを客観的に語ってしまうこの私も含まれているものだからね。」

「君によれば僕というのは記憶を失った君の恋人なのだったね。」。

「そう、私にとってあなたは、またあなたにとって私は大切な人ということ。いつどこでその記憶を失ったものかは知らないけど、そんなあなたはこうして私のところへ会いに来てくれているものなのよ。」

「僕は君を訪れる途中でそうなってしまったのだろうか?」

「それともなにかの不幸な出来事によって記憶を失い、失ったことであなたは朦朧とする意識の中で私のもとを訪れようとしたのかもしれないわね。」

「その言い方だと、こうなる前の僕は君のもとをこうして訪れることもあまりなかったような気がする。」

「あまりなんてのも言い過ぎかもしれないものよ。下手すると一回としてってことも大いにありえるもの。」

「そうなんだね。」

「そういうことも否定はできないっていうこと。記憶がないあなたにとってはどうだってその可能性は等しくあるものなのだから。」

「もしも君の言うことが本当なら僕は少しばかりほっとしてもいる。」

「ほっと?どうして?」

「僕は記憶を失いながらもしかし、大切な存在だという君のもとへなんとか行き着いて、こうして対面して話ができているのだから。場合によっては記憶を失った僕は君の存在を知らずにどこかへ彷徨い去って、そして君を悲しませたこともあったかもしれない。」

「そうね、今あなたと私がこうしてお互いの存在を認識していることをもって、もうそういうことにはならないということだものね。」

「ああ。」

「でもあなたはあなたで、できる限り早く思い出さなければならないわ。私が語りつくしてしまったあと、私はその沈黙の中でなにを思えばいいかわからなくなり、こみあげた不安とそしてこれからのことを思って絶望していくばかりなのかもしれないもの。」

「そうだね。」


「これは悲劇なのかしら?それとも幸運なこと?」

「どうしてだい?」

「片方の記憶がなくなってそしてまたそこから始まるなんてね。どちらもが忘れてしまったならそれはもう、その二人については運命に任せ、一緒にならないならそういうものとして放っておかれるものだけど、片方が未だ覚えていたのではそれはどうなるのかしら?」

「どうなるだろうね。」

「でもそれは覚えている方次第よね。その恋人の関係を再び呼び起こしたいものかどうか。その仲がとてもよかったならまた一緒になろうとするでしょうし、もしかして飽きてしまっていたならその恋については再び始めることも無いものかもしれない。要は覚えている方が選択権を持っているということ。」

「恋仲の二人ならそれは元に戻ってほしい。」

「覚えている方、例えば女性の方は元の中に戻るのは割と簡単なことと思っているかもしれないわ。」

「相手の男性と付き合ってきた経験とその記憶があるからね。」

「彼の好きなものや好きだと思う女性のことについてよくわかっているわ。」

「まるで起こることがわかっているような。まるで予知が出来るかのように相手の反応や、言い返してきそうなことや表情が見て取れるかもしれない。」

「でも現実に起こることはそういうものであるとは限らないの。」

「限らない?」

「彼は彼女の思ったようなそう言った反応は示さないものかもしれないわ。」

「なぜ?」

「彼は彼女と一緒にいたときは好きだとして喜んでくれたことも、今はそういうそぶりも見せないの。」

「どうしてそうなってしまうのだろう?記憶を失ったばかりに、性格が別人のようになってしまったのだろうか?」

「そうではなく、彼は合わせてくれていたのかもしれないわね。」

「自分の好きなものと違うのにそういう風に笑ってくれたり、喜んでくれたりしていてくれたものと。」

「そう。そして私のこともまた好みではないのに、好きでいてくれたのだわ。」

「僕はその話を聞いたところでもし君の見せてくれるその表情やしてくれる話、見せてくれる格好や仕草について、どう返してやることが君のためになるだろうか?」

「気を使う必要はないの。逆に私のためを思うなら、思った通りのことを自然体でしてくれればいい。そうしてくれないと私はそこにある、もしくはそこにあった真実を知ることはできないもの。」

「それはたとえ残酷なことであっても?」

「それでもよ。本当のことが知りたいのだもの。人はそういうものなのよ。相手を知り尽くしているものと思ったもののそうではなかったことに気づいた彼女は、自分の知らない、前の自分が知ることの無かった彼を引き出してみようと考えるかもしれないわ。その作業はきっと楽しいのでしょうね。」

「僕の話している君は僕が見てきたかもしれない君とは違うものなのだろうか?」

「そうではないとは言い切れないものよね。相手が忘れて知らないのをいいことに得をしているかしら?」

「彼を想っているならその分彼女は悲しんでもいるのだろうからいいのさ。だが目の前の君が今まさにその感情を抱いてくれていることのうれしさを僕は感じることが出来るようになれるだろうか?」

「あなた次第ではないわね。それは運命みたいなもの。あなたはそのやり方を知らないものでしょ?」

「ああ。」

「身を任せるしかないわ。」

「もしくはそれは君次第かもしれない。」

「ええ。私がいかにあなたに記憶を呼び起こさせてしまうようなことを言えるものか。」

「だがそう言ってしまうのは君に悪い気がする。君に負担を強いてしまうのは忍びないな。」

「いいのよ。それは私が選んだことでもあるかもしれないでしょ?」

「そうだね。」

「でももしも思い出せたことがあったとしてこれは覚えておいて。今は王子のものである立場の私だもの、すぐにはあなたに付いて行くことはできないわ。ここでの日々は私にとって悪いものではなく、とても充実したものなの。王子を愛することが楽しいのよね。成就せず、見返りもなくただ愛を注ぐだけなのがどうしてこう愛おしいのかしら。人ってそういうものなのでしょうね。注がれている本人にしたら大分おっくうなのかもしれないけどそれがまたいいのよ。今はその彼が姿を見せずひどく寂しく、不安な日々にはなっているけど、そう思うこともまた悪いものではないのよ。どう?あなたはちょっと胸がムカムカするとか居心地が悪い感じはしない?この話を聞いたところで。残念ながらないものかしらね。」

「悪いとは思っているよ。歯がゆい思いをさせていることもわかっている。」

「あなたの首当たりに刃物を走らせてすぐに眠らせてあげたいくらいの気分になられても仕方ない?」

「ああ。少し怖いけどね。」

「そう?自分が目の前の猫背を指摘してあげたくなるような特徴を持つ魅力的な女性の恋人であるかどうなのか。あなたはその可能性を残したまま眠りにつくのなら、それはきっと悪いことではないと思うのよ。期待を残したままその目の前にいる私に見守られながら目を閉じることが出来るのですもの。あなたがそうしたいならそうさせてもあげたい。私はこう見えて意外と優しいの。」

「ああ。」

「どう?それともどうされるものかは自分で選んでみたいものかしら?要望があるなら聞いてもいいものよ。手足をピンと伸ばしたまま固定する磔の台とかもしくは身動きできないくらいに縛ってそれを沸騰した鍋に入れるとか。でもこういうことが言えるほどの余裕はあるみたいよ、今の私は。」

「僕はそんなことになりたくないな。」

「そうはならないわよ。そんな設備は今ここにないもの。なるならもっと地味なこと。例えば身体全体を長い刃物で八つくらいに分解されるとか、また最初に目を潰されてそれからじっくり死に至る行為をされるものか。」

「それもいやだ。」

「そうでしょうね。じゃあそうなりたくないならあなたはどうするもの?私をこうして目の前にしている限り、あなたはそんな風なことになることは目に見えているものなのだしね。」

「そう仮定したなら、僕は君の前から姿を消そうとするだろう。」

「どうやって?」

「走り去った方がいいだろうか?君が追ってくるものなら。」

「そうでしょうね。でもあなたは走ったところで逃げることはできないものよ。砂に足を取られて満足に走ることはできないし、また逃げおおせたところでその先にはあなたを待ち受けるなにかがあるかもしれないもの。結局は捕まることになる。あなたの運命はもはや決まっていることね。」

「そうかな。」

「そうよ。なんなら試してみる?でもそうするなら本気を出してね。私はあなたが冗談でそうしているものかまたは本気なのか判断をする気も無く、全力で切りつけに行くつもりなんだから。」

「君こそ冗談で僕を脅かさないでほしいところだ。」

「脅かすつもりはないわ。ただあなたがどう出るか警戒しながら慎重に探りを入れているだけ。」


「探り?」

「記憶のないあなたは可能性を秘めているものと言ったでしょう?あなたはいつまでも恋人気分でいていいものかどうか考えることも必要かもしれないわ。」

「そうなのかな。」

「というかいつまでも私の恋人気分でいられても困るのよ。あんなの意味のない戯言、冗談でしかないものかもしれないんだから。」

「冗談?」

「あなたはただの記憶を失った侵入者に過ぎないのかもしれないの。あなたはそうであるかどうかわからないものでしょう?」

「ああ。だが僕は頭の整理がついていない。君に何を言われているものかちゃんと頭で受け取れているかも疑わしい。」

「受け止めるしかないのよ。あなたの目の前にはこの私しかいないのだから。カーテンに話しかけてもなにかいいことを返してくれることがある?あなたは考えるの。」

「僕は君とは何の関係性も持たないただの侵入者だと。そうだとしてさっきのが本当に冗談ならそれはちょっと酷いな。」

「いいじゃない。あなたは私という人物に対しては何の感情を抱いてはいないのだから。さっきのように言われたことのそれだけでどう思うってことでもないでしょう?ワクワクもしていないし、それはただ私に委ねられていたものに過ぎない。だから同情してあげる必要も、あのように話した私においてもその義務もない。私は私の侍女という立場をもって、この城に侵入してきたあなたをどうにかしてしまうものよ。」

「そうかもしれないんだね。」

「あなたがどう抵抗しようと私はその準備が出来ているわ。」

「そうならしかし過剰すぎやしないだろうか?ただ城に入り込んだだけにしては。それはよほど罪のあることであるかは君の態度でわかる気はするものだけど。」

「恐い?でもしょうがないわ。これが私たちの本性なの。」

「そろそろ本当のことを話してくれないだろうか?もしも僕について何も知らないならそう言ってくれればいい。そうした上ではじめて僕は僕のすべきことを考え始めることができる。」

「私は既にあなたの素性を知っており、そのあなたをどうするかを決めているわ。」

「やはり君は僕のことを知っていると。本当に?」

「ええ本当。あなたの運命は既に私の中で決まっているの。」

「僕がそう望まなくても?」

「それを拒むのはあなたの自由だわ。そうしたくなるだろうこともわかっているしそれは当然のこと。」

「僕はなにか酷いことをされるのだろうか?」

「それはそうよ。この城に入ってあなたは何をするつもりだったのか。想像するだけで寒気がするわ。」

「何をするつもりも無いさ。」

「この私たちの、いいえ、王子の大切な城に忍び込んだなら、あなたは王子をどうにかしようとしていたつもりなのかしら?それとも王子の帰還を待つ私たちについて何かをしでかそうというもの?例えば私たちの王子の帰りを信じるこの気持ちを削ぐようなものとか、私たちに王子は帰らないものと思わせてしまったり。」

「帰らないと思わせる?」

「王子の帰りを信じなくなった私達はなにをするかわかったものじゃないでしょう?悲劇的、または破滅的とも取れるような行為に走ったりね。それとも偽物の王子をどうにかしてしまうとか。彼によって不本意ながらも私達侍女は精神的なバランスを崩すことなく未だ暮らせていることは確かだもの。この城に破滅をもたらすのなら、彼を消すという一見地味な行為でも大きな効果がありそうよね。そういう微妙に嫌なことをしてくるのよあなたは。」

「どういうことだい?」

「今思ったのだけど、王子が城の奥で私達とはまた違う侍女たちとの生活を送っているというような噂、あれはあなたが流したものなのではないかしら?」

「そんなこと思ってもいない。君は僕を何だと思っているんだ。」

「危険な存在。」

「危険な存在?」


「私はそれがいるかどうかさえ知らなかったのよ。いいえ、私だけじゃないわ。世の中のあなたのことを知るほどんどの人はそうなのでしょうね。知ってる?世の中には人や人々が大切にするものをダメにして回る、そんな存在がいるらしいの。」

「ダメにする存在?」

「それは大規模な事業や大切な儀式や伝統的な行事に忍び込んでは、その中で悪さをしてそれらを台無しにしてしまったりするのだって。ニュースペーパーやテレビ画面に映る大事故や失敗や悲劇の半分はそれが引き起こしたものとも言われているわ。それは規模に寄らず、例えば大きな城の塔の頂上にいる姫になにかを吹き込んで人の頭に向かって物を投げさせたり。一国の王子に無謀な地下への旅へ向かわせたりといったようなこともする。それはまた見境が無く、誰かたちの慎ましくも大事に育んだ愛といったものをなにかしらの勘違いを起こさせて絶望をさせ、取り返しのつかないことにしたりね。やっぱり嘘を吹き込んだりして。悪い存在でしょ? 」

「そうだね。」

「その存在を専門に扱う研究者というのも何人かいたらしいのだけど、いずれも姿を消してしまったと言われているわ。その失踪の要因はどこにあるものかもまた定かではない。まあそれも伝聞であって確かなことかはわからないんだから。人によっては、それは顔も知られていないのだから人々の間で交わされる存在しない話題かなにかだと言う人もいるわ。ねえ。さっきから口元に力が入っていないような顔で私のことを見ているけどわかってる?それがあなたなのよ。」

「そう言いたいことはわかるが、きっと違うさ。」

「ねえ、あなたってどこからやってきたの?もちろんどこぞのかわいそうなことになったか、これからあなたのしでかした結果が少しずつ表に現れ出て来てしまうようなそんなあなたの前の滞在先を聞いているんじゃないの。聞いているのはあなたが元々いた場所。だってあなたって遊園地の鏡の館の一番奥にある鏡の中から出てきたものと言われたり、美術館に飾られた麦畑を描いた絵画のその隅にぽつんと一軒だけある家から出てきたものと言われたり、その場所やその人の年や育ってきた学歴によって言うことが全然違うのですもの。まあ、聞いたところで教えてはもらえなそうね。あなたはそういう風な人を今は演じているのだから。」

「演じてなんかいないさ。僕はそんな話すら聞いたことがない。」

「どんなつもりなのかしら。どうしてそういうことをするもの?その理由はあなた自身にもわからなかったりするのかしら?だとしたらそれはやっぱり衝動というものになる?だから悪い存在というよりはそういうものに突き動かされているかわいそうな存在って感じ?いずれにせよ私達とはきっと見ている景色が違うものよね。もしくは見えていなかったり?」

「見えていない?」

「衝動に動かされているのでもなくただそうするものなの、あなたという存在は。私達っていうのは私というなにかがものを感じたり考えたりもしくは衝動と折り合いをつけて、それは自分自身がことを起こしたり喋ったりして、そしてその様子をまた私自身がそれを見たり聞いたりして感じることを感じ、物思いにふけるものだけど、あなたといえばそういったことがまるでなくて、あなたのその言動を聞いたりその目が見る景色を見る何かがまるで存在しないの。つまりは空っぽということね。その頭の中は。いいえ、その中には私たちと同じ肉が詰まっているものだとしても。まあ本当に頭を開いてみたものなら、実際に空っぽだったりするかもしれないけど。そんな気がするわね。」

「勝手に話しを進めるのはいいが、僕は早くこの状況から脱したいんだ。君は僕のことをやはり知らないんだと思う。そうなら僕は記憶を取り戻せるよう努力するとともに、今どうすべきかを考えるための情報が欲しい。君のその話に付き合っているよりも。そうしたほうがずっと有意義だ。」

「そうね。でもこれは偶然に見つけたもので、まさかそんな風なものが城の中に紛れ込んでいるなんて思っても見なくて、いつもの通り昨日の夜寝る前に読んだ物語の内容を思い出しながら荷物を抱えて歩いていたものなの。もしかしたら侍女たちの一部ではすでにあなたの存在を確かに感じていて、不安に駆られている人もいるかもしれないけど。でも私はそんなもので、無意識だからこそ会えたのね。会えたまでは無意識的なこと。ただそれは偶然的なことでもこうったとなれば逃さないわ。」

「僕は偶然出会った人が悪かったみたいだ。」

「あなたにどうにかされるハズだった人たちは。ここをもってどう変わっていくのかしら。あなたがこれからぶち壊しにしてしまうはずだった男女や大切な思いは、今この時の結果次第。この私があなたを仕留めることによって、あなたという変な生き物をこの世の中から退場させることによって運命が変わり、それらはどういうことになって行くでしょうね。それともあなたという災厄、試練が無い分、人は傲慢になるものだから結局だめになる?そんなことはないのよ。その人たちはどうしたって幸せになるべき人達。そのために私はあなたに対してどうしてもここでやるべきことをやらなければならないのよ。」


「叫びでもすれば別の誰かは見つけてくれるものだろうか?」

「そうしたいならぜひそうして頂戴。でも誰も来ないかもしれないわ。声が届かないのではなく、ちゃんと届いていたとしてね。」

「やめておくよ。隙を見せた瞬間に、君からなにかされないものか心配だからね。」

「何かをしてくるように感じる?」

「君の右手の先がずっと体の裏に隠れているんだ。」

「考え過ぎではない?」

「君こそそうさ。僕は君の思うような人物じゃない。」

「心当たりがない?いいのよ。あなたがどういったところでこの強い警戒を解くことは無いの。私はあなたがどういったものかを知っているし、それは今のところ想像通りなのだから。あなたは決して自分がそうであると認めることは無い。最後までね。こんな感じであなたをちゃんと認識して追い詰めた人ってこれまでいるかしら?いいえ、これぐらいのことなら幾度もあったのでしょうね。きっとここからなのよ問題は。あなたは過去において幾度となくも追い詰められたものの、誰もこれを仕留めることが出来なかったのはなぜなのか。」

「僕は十分追い詰められているよ。」

「そう思っているのは私だけ。でもそうして油断してしまったならすぐに飛びかかられて命を失うの。じっとして動く気配が無いカミツキガメみたいなもの。でも逆に言えば油断をしなければ仕留めることができる。私はそう信じているわ。信じつつ、私は自分に言い聞かせなければならない。その口からその素性が漏れ出ることは無い。可能な限り、あなたの口が動くそのうちにおいては嘘をつき通すもの。いいえ、あなたの場合それは嘘というよりもあなたにしてはそもそも本当というものが存在しないのかしらね。だから私は最後まで記憶を失ったか弱い人物とこういう話ができるだけ。それが怖いの。だけどそれが私に迷いを与えるものとは思わない方がいいわ。あなたがそういう態度を見せてよこす程に私は警戒を解くどころかどんどん強めていくだけ。」

「それは、僕がなにを言ったところで君に命を取られてしまうことにはならないかな?」

「だから最初からあなたはそうなのだって。」


「話によればその人物、もしくは存在というものは見られたことが無く。少なくとも君は今までそれを見たことが無いと見えるしそうなのだろう。そんな君はなぜぼくのことをそういう者だとしているのだろう?」

「どうしてそれだとわかったか?」

「そう思っているか。」

「そんなことを口にしても意味のないこととあなたは思わないのかしら?わたしにはわかるの。その理由を言う必要はないわ。あなたがそうであるように、私もまたあなたとまともな受け答えをするつもりはないのだもの。この今の私がそれを口にすると思う?」

「口にしなければなにも始まらない。」

「そうね、始まらせるわけにはいかないわ。始まったところで私のすることに変わりはないものだけどね。隙も与えるわけにはいかない。だったらなぜ、こんなに長々と話しているものなのでしょうね。こうして話しているのは時間を稼ぐためだとあなたは思ってもいるかもしれないわ。そうだったなら手の内がばれてしまっているものかしら?あなたは私のことを見透かしてもしまっていて、はじめから私がひどく恐怖を感じ、緊張している様子も見て取れるかもしれない。でも恐がるのは正しいことなのよ。恐がって緊張して、冷や汗をかいてその動向に注視するの。そのせいで多少体が硬くなってしまうことはあってもきっとうまくやれるわ。私たちの剣の技術はこの時のためにあったものなのね。」

「武器を持っているのかい?」

「あなたはここから出ることはできないわ。私の前から姿を消すことも。私の視界にあるうちに、あなたの視界の内に私が映りこんでいる間においてこそあなたはこの世からいなくなるの。私は絶対にそうしなければならない。」


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