3-10.迫りくる霧
大鐘の音が街全体に鳴り響いていた。
ガンガンと乱打されるソレは危険を報せるもの。
いつもの穏やかな音色ではなくて、人々に逃げろと呼びかける。
住人たちは不安げだ。
教会堂の鐘が、なにかを教えようとしているのは理解できる。
しかし、その内容は不明であった。
彼らは、隣近所の人たちと何ごとがあったのかと話し合う。誰も知らなくて、みんな困惑するばかりだ。それでも教会からの警報を疑う者はおらず、各々が小集団をつくってヒソヒソと会話をつづける。
「お、おい、ありゃなんだ?」
男が大きな声をあげて、海上を指さす。
霧の白壁であった。
巨大で真っ白な塊が横一直線になって陸地にやって来る。
街から海に向かって左右を見渡しても、壁面はずっと続いていて途切れがない。横幅だけでもざっと数十キロメートル、高さも優に百メートルは超えるほど。
霧壁は物理的な圧迫感があった。
たかが水蒸気のあつまりのはず。しかし、迫ってくる白霧は、領都を圧し潰すのではないかと恐怖を抱かせる。
無音なのが不気味だ。
尋常ではない巨壁が押し寄せてくるのに、まったく音がしないのが、逆に恐ろしい。
異常な現象であった。
超常的で、そして明らかに自然発生的なものとは違う。
絶対に面妖しい。
この時期、会場が靄ることはあっても、横一直線になって街に近づいて来るなんてことは、あり得ないからだ。しかも、海風がピタリとやんでいるのに、霧だけは前進してくる。
「に、逃げろ。街からでるんだ」
「いや、無理だ。アレがやってくるほうが早い」
「とにかく避難しよう。外にいるのはマズい」
市民の多くは建物へと入った。
ある者は自宅へ、別の者は近くの建築物に籠って窓や扉を閉める。
屋根と壁がある場所で身を守らなければ。そんな思いで、あわてて建屋のなかへ飛び込んだ。
いっぽうで、屋外に留まる輩もいる。
霧に気づかなった住人や、度胸試しのつもりで街角に立つ馬鹿者まで。どこにでも天邪鬼な連中はいるものだ。
やがて、ミストが領都シュバリデンに到達した。
急に辺りが薄暗くなる。
つい先刻まで、太陽の日差しが大地を明るく照らしていたのに、今は黄昏時みたいだ。
視界も悪くなった。
濃霧のせいで、十メートルほど先すら視認できない。
ときおり、靄のなかをうごめく影がいて、どうにも不気味な気配が漂う。外にいた人たちも、さすがに白霧が異常だと実感しはじめたのだが、もう手遅れであった。
人間を断罪するモノがやってきたのだ。
これから、恐怖の時間が始まる……。
■■■■■
シンたちは丘の上にいた。
横にいるはルナとグレゴワールの爺さん。
三人は、霧が海からやってきて市街を包み込む様子を見て、唖然としていた。
霧塊が陸地を襲う様は、まるで津波のよう。
第一波は、街のなかほどまで到達して止まった。
続いて第二波、第三波とやってきて、シュバリデンは完全に白霧に埋没する。その後も、水蒸気の塊は何度も押し寄せた。
白いガスは、最終的に周辺の平野部全体を勢力圏内に収めてしまう。
シンは、ふと気づいてしまった。
異常現象が始まってから、かなり長い時間が経過している。
「うん? いつの間にか大鐘の音が止まっているな。教会でなにかあったのか」
はじめのころ、鐘はガンガンと響いていた。
人々を急き立てるような調子で警告を発していたのに、今ではピタリと停止している。
あたりは、すごく静かだ。
静寂すぎて奇妙なほど耳が痛い。
聴覚に刺激がないと、逆に苦痛を感じてしまうなんて不思議な感覚だ。
ルナが、彼のつぶやきに反応した。
「確かに変よねぇ。あれだけ鐘音が聞こえていたのに」
確実なのは、鐘楼に人がいなくなったこと。
いつ鐘が鳴り止んだのか判らないが、ちゃんと避難できたのだろうか。どんな人物か知らないが、無事なのを祈るばかりである。
「さて、この先どうしたものか。爺さんと貴女の意見をきかせてくれ」
「用心しながらでも街に戻るべきじゃな。なにが起きているのか確認せんと」
「私は反対だわ。アレは危険な香りがプンプンする。迂闊に近寄って痛い思いをするのは避けるべきよ」
相談の結果、領都に戻ることにした。
あの霧が異常なのは確かなのだ。
しかし、このまま郊外にいても仕方がない。意外と無害であったなんて可能性だってある。アレが危険だと判明した時点で逃げだせば良かろうと、シンの楽観的な意見がとおってしまった。
三人は騎竜に騎乗して街内へとむかう。
彼は移動の途中、念話で本拠地【岩窟宮殿】へ連絡した。
『ミドリ、確認したいことがある。街周辺に待機させている諜報部隊とは念話接続は可能か? 』
『回答します。いちおう【念話ネットワーク】は生きています。
ただし、通信は不安定な状態ですね。問題の白霧は、念話回線に対して悪影響があります』
白霧には注意が必要だ。
補助人格ミドリによると、念信が断絶するらしい。
念信網は、たかが霧ていどで通信障害を受けるほどヤワではない。それなのに、邪魔されているのだから、霧塊には警戒すべきだ。
シンは、諜報専門の人員を周辺に配置していた。
この部隊はツクモ族の動物シリーズで構成してもの。
新設したばかりで試験運用中だけれど、こんな状況だと貴重な戦力になる。もともと諜報活動用なのだから、情報収集にはもってこいだ。
ただ、彼女の情報によれば、能力は半減している。
空での活動が主になる鴉タイプがいるのだけれど、白霧のせいで飛行できないとのこと。とりあえず、猫タイプを中心に動くように指示しておいた。
ついでに無理をさせず、可能な範囲内で偵察するようにとつけ加えておく。
三人は領都に戻ったが、霧のせいで街の様子が分からない。
見通せるのは眼前十メートルほど先まで。
それ以上の距離になるとサッパリ見えないのだ。白い靄の中に、何が潜んでいるか判らなくて、ついつい移動する速度は遅くなってしまう。
ついでに言うと、街全体が潮のにおいに覆われていた。
しかも、風がピタリと止まっているせいで、潮気が肌にまとわりつく。どうにも気持ちが悪い。
シンは異常を感じて足をとめた。
「血のにおいがする。気をつけろ」
男の遺体が路上にあった。
随分と無残な状態だ。胴体を真っ二つに裂かれている。
上半身は建物に寄りかかり、下半身は道に転がったまま。
ふつうの人間にできる所業ではない。
大人の体を上下に切断するには、かなりの“力”が必要になるからだ。魔物かそれに準ずるモノの仕業なのかもしれない。
ルナもなにかを発見した。
「死体はこれだけではないわ。あそこを見て」
彼女が指し示した先にも、たくさんの遺骸があった。
どれも身体がバラバラにされていて、五体満足なものはない。
惨殺死体を調べてみる。
切断面はギザギザしていて、動物かなにかが大きな咢で?み千切った形状だ。打撲傷も多い。
傷痕から推測するに、凶器は平べったくて巨大サイズのもの。
棍棒だとか戦槌といった類の武器ではない。どうやれば、こんな傷ができるのか謎であった。
「なにか変だ。死骸の位置が面妖しい」
奇妙な表現だが、死体の散らばりかたが“立体的”なのだ。
大半の遺体が、屋根や建物上部の壁面にへばりついていた。
ふつうなら、遺骸は地面のうえにあるはず。
凶暴な大鬼にやられたとしても、死傷者は大地に倒れる。
こうも上下に拡散するなんてしない。惨状の主犯は、空中を移動できるタイプなのだろうか。
三人は、冒険者組合にたどり着く。
街門から近くて、もっとも住人が多く集まっていそうな場所であった。いつものように騎竜のウコンたちを裏手の獣舎にいれて、建物正面へとまわる。
しかし、扉はガッチリ閉じられていた。
「おい、入れてくれ」
ドアをガンガンと叩く。
しばらくすると、内側からガチャガチャと開錠する音がした。
ほんの少しだけ扉が開く。
細い隙間から、男が声をひそめて尋ねてくる。
「あ、あんた人間か? 他に誰かいるか?」
「おいおい、この姿をみてくれ。私は人だぞ。連れも二人いる。とにかく、中に入れてくれ」
建屋内には避難者たちいた。
冒険者はもちろんだが、一般の庶民や親子連れまでいて雑多な印象だ。
「アンタら、よくもまあ無事で。運が良かったなぁ」
「なあ、バケモノってどんなだった?」
「おねがい、街の様子をおしえて。まだ友達が外にいるの」
各々、勝手に話しかけてくる。
大声を出しており、収拾がつかない。
みんな、市街がどうなっているかを知りたたがっていた。
見かねた組合長がその場を鎮める。
ついでに、彼が仕切って互いの情報交換をすることになった。
シンは街内外で見たことを伝える。
いっぽうで、住人たちの体験を教えてもらった。住民たちが無事であったのは建物のなかに避難していたから。
屋外にいた連中は襲われたらしい。
“らしい”と表現しているのは、目撃者がいないからだ。
状況判断の元は、被害者の叫び声だけ。何度か冒険者チームが偵察にでたが、誰も帰ってこなくてヤキモキしていたとのこと。
そこにシンたちが現れたのだ。
しかも、のほほんと郊外からやってきて、何者にも遭遇していなかった。
これが切っ掛けで、一般市民たちが騒ぎ出す。
謎の化物が、いなくなったと勘違いしたのだ。
惨殺された人々のことも聞かされたが、市民の関心は別にあった。
信じたかったのは、脅威が“ない”こと。
古の名言に『信じたいことだけに耳を傾ける人間は多い』というものがある。まさに現状を言い表すに相応しい言葉だ
「もう、バケモノはいないんだ。あの人たちが無傷なのが証拠だ」
「じゃあ、家にもどれる。妻や子供に会えるぞ」
「止めないで。娘のことが心配なのよ」
組合長は、外に行こうとする住人たちを制止した。
もう少し待つべきだと意見するが、騒ぐ者たちを押し留めることはできない。
あまりにも要望が強すぎたのだ。
家族の無事を確かめたい。
自分が生きていることを報せたい。
そんな自然な思いは、ひとの感情として当然のこと。ましてや、彼らは一般市民であって、冒険者組合の命令や要請に従う義務はない。
結局、多数の市民が外へと出た。
その数は二十人ほど。各々が急いで自分の家へとむかう。一般市民に交じって、幾人かの冒険者たちも建物からでていった。
住民の姿が、白霧のなかへと消えてゆく。
しばらくして……。
悲鳴が響いた。
それも、大勢の叫び声。
ひとりやふたりではない。
組合建物から出ていった者の多くが助けを求めたのだ。
彼らがむかった先は、バラバラなのに、進んだ先々で襲われている。
なにが起きているのか不明な状態であった。
真っ白な霧のせいで、被害者の様子も、何者が襲撃しているのかも見えない。
■現在のシンの基本状態
HP:198/198
MP:210/210
LP:75/120
活動限界まで、あと七十五日。