17.
市長室。
昼前のことだ。秘書のマリカ女史が郵便物を持ってきた。彼女自身がチェックし終えたものを渡しにくるという流れになっている。
葉桐市長は書類に目を通しながら、「そこに置いといてちょうだい」と言った。
普段であれば、たったそれだけのやり取りで済む。
でも、今日に限ってマリカ女史が「あの、市長……」と、どことなく言いにくそうな調子で口を開いた。
だから私は、PCのディスプレイからマリカ女史のほうへと視線を移した。案の定、彼女は、難しい顔をしている。
市長が顔を上げ「マリカ、どうかした?」と訊ねた。すると、おずおずといった感じで、マリカ女史は名刺サイズの白い紙を、両手で市長に差し出したのだった。
市長は眉根を寄せ、白い紙を見る。「なに、これ?」と呟いた。私は自席を立ち、市長のデスクに近づく。「見せていただいていいですか?」と言ったところ「どうぞ」と、それを手渡された。
紙に描かれているものを確認した瞬間、私の口からは「あっ」と声が漏れた。
見覚えがあるからだ。ポップな蛇のイラストだ。白い肌に黒い斑点が特徴的な蛇だ。とぐろを巻いていて、ちょろりと舌を出している。だけど、それだけ。裏にもメッセージ等は記されていない。
「黒峰さん、それ、見たことあるの?」
「あります」
「えっ、そうなの? どこで?」
「以前、自宅マンションの郵便受けに入っていたんです」
「入っていただけ?」
「いえ。受け取った翌日、あの、言いづらいんですけれど」
「いいわよ。言ってちょうだい」
「出勤途中に腰を刺されました」
「刺されたって、刃物?」
「はい。ヒトよりは気配に敏感だと思うんですけれど、刺されるまでまったく気づきませんでした」
「犯人は捕まったの?」
「いえ。その後の足取りは、まったく掴めていないんです」
市長は「まあとにかく、言ってみれば、殺し屋からの予告状ってわけね」と、あっけらかんと言ってのけた。
「怖くないんですか?」
「愚問ね、黒峰さん。怖いに決まってるじゃない」
「だったら、警備を増強――」
「しません。スタンスは変えません」
「背に腹はかえられませんよ」
「貴女がなんとかしてください」
「そんな……」
「はい。この話題はおしまいっ」
市長が話を一方的に打ち切ったその時、私の自席の上のスマホが鳴った。
通話要求。
忍足さんからだ。
「はい。黒峰です」
「お昼でもどう?」
「えっ」
「なに? 驚くこと?」
「い、いきなりだなと思いまして……」
どうしてだろう。日々を二人一組で過ごしていた折には、それこそ忍足さんのそばにいるのが当たり前で、だから特に緊張するようなこともなかったのだけれど、最近、少しおかしい。ジムで抱き締められた時からだろうか。それともお弁当を渡したところからだろうか。とにかく、急速に距離が縮まったように思えていて……。いや、だからといって、なにがどうこうということはないはずなのだけれど……。
「サンドイッチでも買っていくよ」
「あ、あのっ」
電話は切られてしまった。忍足さんってこんなに強引なヒトだったっけと思い、眉をひそめた私だった。
忍足さんはエビが四つも入っているサブウェイのサンドイッチとおいしいコーヒーを買ってきてくれた。でも、自分にはウィダーが二つだけ。相変わらずの燃費のよさだ。「しっかり食べたほうがいいですよ」くらいは言ってあげたくなる。
市役所五階のフリースペースで昼食をとりながら、なにか詳しい情報を聞かせてもらえれば幸いだと考え、私は蛇のイラストが描かれている例の白い紙を、忍足さんに渡したのだった。
「ヨコバイガラガラヘビ。別名はサイドワインダー」
「はい。『サイドワインダー』は殺しを専門とする組織の名前です」
「以前、君を標的にした組織でもある」
「はい。彼らについて、なにか、シェアできるような情報をお持ちではありませんか?」
「持っているような気もするし、持っていないような気もするし」
「えっ、それってどういう――」
「君が知る必要はないってことだよ」
そう告げられたので、少々むかっと来た。
「そんなこと言わないでください。私だって同僚なんですよ? もっと信頼してくださってもいいじゃありませんか」
すると、忍足さんは驚いたように目を大きくして。
「あっ、いえ、えっと、その……失礼しました」
「いいよ。頭は下げなくて。でも、僕がなにか有益な情報を抱えているのだとしたら、それは本部のDBに報告書というかたちで放り込んでいるよ。それにしても、ふぅん、そうかあ」
「はい?」
「いや、君の例があるから、市長さんのこと、心配だなあって思ってね。警備の増強は図らないの?」
「例によって、市長は嫌だって駄々をこねています」
「じゃあ、僕がつこうか」
「えっ、お仕事のほうは?」
「詰まってない。だから今もこうして、君とお昼を食べてる」
「そうなんですか……。い、いえ、でも、ここは――」
「一人でやる?」
「はい。私の仕事ですから」
「君じゃ心許ないって言ってるんだよ?」
「……それ」
「うん?」
「それ、事実だとしても、もう少し、言い方ってものがあるんじゃないですか?」
「なに? 今日はえらく突っ掛かってくるね」
「私に任せてくださいって言ってるんです!」
大きな声を出したせいだろう。横顔や後頭部に他者の視線が刺さるのを感じた。すぐに反省、猛省する。声を荒らげる場面じゃない。ましてや、忍足さんの助けを断るなんて真似、私ごときがしていいことじゃない。
「どうしてもって言うのであれば、参加しない。ただ、市長さんのことを僕も少しは気遣ってるってことは覚えておいてほしい」
「……すみませんでした」
「ん?」
「やっぱりその……お願いします。市長に会ってください。危険なのは事実ですし、聞き分けのない彼女でも、忍足さんの言うことなら、きっと聞き入れてくれるはずですし」
「それでいいの?」
「いいです」
「本当に?」
「はい」
「了解」
忍足さんはジャケットのサイドポケットからスマホを取り出した。後藤さんに話をつけるのだろう。
私は小さく吐息をつく。良くも悪くも、ここまで私の心を揺さぶってくれるのは忍足さんだけ。その思いを新たにするより他なかった。
予想通りと言うべきか、忍足さんが臨時のボディガードとして働くことを聞かされた葉桐市長は、飛び跳ねんばかりに喜んだ、というより、実際にその場でぴょんぴょんとジャンプした。果てはがっちりと忍足さんの手を握り、「お願いします! なんでしたら、臨時と言わずにずっとお願いします! 黒峰さんと交代していただいてもかまいません!」とまで言い出す始末。
まったくもって、ひどい話だ。
私としては、時間をかけてゆっくりと、市長との関係を育んできたつもりなのだから。
二十二時過ぎ。
市長を家に送り届けるための道のり。
運転手は強面のSP。助手席には忍足さん。後部座席に私と市長が座っている。
前を向いたままの忍足さんに「帰りはいつもこの道なんですか?」と訊かれ、SPは「ルートはいくつかある。帰路はランダムだ」と答えた。
「車の数は? いつも一台だけですか?」
「そうだ」
「今日も一台だけ?」
「ああ。それがどうかしたか?」
「ぬるいなあ」
「なんだと?」
「『サイドワインダー』の危険性については黒峰から説明を受けたと思うんですけれど、だったらデコイの一つくらい用意しようとは考えませんか?」
「じ、人員には限りがある」
「そんなことはないはずです。葉桐氏は市長という役職以上に重要な立場にある。ヒトを使おうと思えば潤沢に使えるはず。要するに、僕はSPさん達のプランニングの甘さを指摘しています」
「ぐ、ぐっ……」
市長が「ゆ、悠さん、私がいいって言ったんです。あんまり大げさなことをする必要はないって」と助け船を出した。忍足さんとSPの間に流れる空気が険悪になったのを察してのことだろう。
「おとりを設けるくらい、大げさでもなんでもありませんよ」
「そうかもしれませんけれど、ほら、ただでさえ、毎日、道は変えているわけですし」
「まあ、それもそうか」
「そうですよぅ。ほらほら。リラックス、リラックス。気楽にいきましょーっ。あ、悠さん、一ついいですか?」
「なんでしょう」
「とりあえず、今日はウチに泊まっていきませんか?」
つい「えっ!」と声を上げたのは私だ。
「し、市長、なにをおっしゃっているんですか?」
「あら、黒峰さん、だってそうでしょう? 犯人を捕まえる、あるいは犯人が捕まるまでは、誰よりもそばにいていただかないと」
「それは私の役目です」
「僕、着替え持ってきてませんよ」
「じゃあ、この足でドンキにでも寄って、適当に買って帰りましょう。大丈夫。お金は私が出します。ということだから、SPさん、お願いね?」
「市長、で、ですからっ」
「黒峰さん、シャラップ。ベッド、一つしかありませんけれど、忍足さん、いいですよね?」
「ええ。それは別にいいですよ」
「一緒に寝てくれますよね?」
「場合によっては」
「おっ、忍足さん、貴方もなにをおっしゃって――」
「冗談だよ、黒峰さん」
私がなかばしどろもどろになってしまう中、車は左折、車線は二つから三つに増えた。まだ官庁街を抜けてはおらず、もういい時間だから、車の通りは少ない。
そんな帰路にあって、やがて真ん中の車線に、白いレインコートのようなものを被っているニンゲンが見えた。まだ距離はある。でも、不安感を煽るような剣呑さが伝わってくる。
忍足さんが「おいでなすったみたいだね」と、けろりと言ったのを機に、車内の緊張が一気に高まった感を、私は覚えた。その感覚は間違いないだろうと思う。
そして、いきなりだった。スナイパーライフルだろう。白い人影はそれをこちらに向け、発砲してきた。
前輪のタイヤをやられ、瞬く間に車が駒のように回転する。市長が悲鳴を上げ、私はアシストグリップを握った。何回転もしたところで、車はようやく止まった。運転手のSPはどこかに頭でもぶつけたのだろう、失神しており、忍足さんはというと、腕を組んで平然としている。
「タイヤも防弾じゃないんだね。ホント、ぬるいなあ」
のんきな調子でそう言った忍足さん。
撃ってきた人物はレインコートのフードを取り払い、長い黒髪を晒した。男だ。
男はライフルを捨て、二丁拳銃に切り替えた。
「たった一人、なんですか?」
「黒峰さん、意外?」
「は、はい。だって、一人だとなにをやるにも不確実では?」
「だけど、一人でやれば、とちった時の被害は最小限で済む。自己責任ってヤツだよ」
「そういう連中だと?」
「うん。そんなことより、一点、疑問が生じた」
「そ、それは?」
「帰り道はいくつかあるルートの中からランダムで選んでるんだよね? だったら、なぜ、こうして捕捉されたの?」
「あっ……」
忍足さんと来たら、なんの前触れもなくドアを開け放って、ひょいと外に飛び出した。途端に発砲してきた。放たれた弾丸がカンカンとドアを叩く。防弾だから簡単には抜かれない。車がスピンした時は悲鳴を上げたものの、もう冷静さを取り戻したらしい市長が「しつこーい!」と声を発した。
私は「忍足さん!」と叫んだ。
だけど、忍足さんはもう、声の届く範囲にはいない。
幻覚でも見ているようだった。ほとんど体を動かしていないように見えるのに、次の瞬間には一歩か二歩、離れたところへと移動しているのだ。だから、弾が当たらない。まったくもって当たらない。そんな忍足さんの様子を目の当たりにし、私と市長は同時に「どうして……」と呟いた。
白いレインコートの男は、命中させることを諦めたらしい。銃を捨て、トンファーだ、それを両手に迫る。忍足さんが発砲する。当たらない。じぐざぐに動いてやり過ごす。経験則に基づいた勘を頼りに動いているように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。
接近戦になっても、忍足さんの優勢は変わらない。相手の攻撃は空振りばかり。すべて見えているのだろうか。それともなにかコツのようなものがあるのだろうか。それはわからないけれど、とにかくすべてかわして見せる。
そのうち、忍足さんは至近距離から相手の左の太ももを撃ち抜いた。男は前につんのめるようにして倒れ込む。忍足さんの一連の凄まじい戦いぶりを目にし、私は思わず生唾を飲み込んだ。
あとは話を聞かせてもらうだけ。
忍足さんもそう考えたことだろうけれど、男はうつ伏せに倒れたまま、二度と起き上がらなかった。舌でも噛み切ったのだろうか。だとしたら、大した覚悟だと言わざるを得ない。
忍足さんがスマホを耳に当てる様子が見えた。警察に電話を入れるのだろうと思っていたら、連絡先は私で、だからとても驚いた。
「すぐに新しい車を手配して市長を家まで送って。できるよね?」
「は、はい。可能です。現場は警察に引き継いでオシマイですか?」
「警察に引き継いだら、あるいは市長が事情を根掘り葉掘り訊かれることになって、結果、彼女自身がダメージを負うことになるかもしれない。だから、この男はウチで引き取ることにする」
「わかりました」
「うん」
通話を終えた。
市長のほうを向く。もう完全に平時の表情に戻っている。顎に右手をやり、考え事をしている様子。そのうち彼女は「誰が情報を漏らしたというの……」と呟いた。
「ひとまず、ご自宅までお送りします」
「ええ。そうしてもらえる? だけど」
「わかっています。本件について話をされたいんですね?」
「そういうこと」
「お付き合いします」
「ありがとう」




