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第五章~②

 そう言って席を立ち、扉を開けて部屋の外へと出た。彼の意外な行動で拍子抜けしたのか、一瞬張りつめていた空気が和らいだ。その為須依は意図的に明るい声を出して言った。

「何よ。調子が狂っちゃうじゃない。もうこれだからおじさんは嫌なのよ。トイレが近くなっちゃうし、お腹も壊しやすくなって取材先でも大変なんだから。特にコロナ禍になってから、トイレだけ借りるって駄目になった時が一時期あったでしょ。知らないかな」

 やや戸惑いながらも彼は口を開いた。

「ネットの記事で読んだ覚えがあります。だからそうならないよう、外出する時は気を付けていました。だけど普段もなるだけ外で借りないようにしていたから、そんな不便はなかったです。あとは使うならどこの公衆トイレか、出先の会社または途中にあるホテルや百貨店だとか決めていましたし。ただハンドドライヤーがどこも使えなくなったので、ハンカチは忘れずに持ち歩いていましたけど」

 黙っていて急に喋ったからだろう。彼の声は少しかすれていた。体に力が入っていたのかもしれない。烏森はこうした効果も狙い、あのタイミングで外に出たのだ。

彼の行動に感謝しつつ、須依も話を続けた。

「そうよね。コロナ禍のせいで、色々変わっちゃったからなあ。ただでさえ外出する時は注意しないといけなかったけれど、それまで目印にしていたものが変わったから、本当に大変だったよね」

「はい。外へ出るのが余計に怖くなりました。それでも最初の頃は人が少なかったからまだマシだったけど、だんだん増えてきたじゃないですか。そうすると僕らのような奴は邪魔に思うんでしょうね」

「長引くコロナ禍の影響で、苛つく人が増えたからだと思う。だから私達のような社会的弱者に当たるんじゃないかな。目が見えていたら白杖でぶっ叩いてやるのに。ああ、健常者だったら白杖は持っていないか。それなら強烈な蹴りを、一発お見舞いしてやるか」

 そう言って笑うと、彼もつられたように言った。

「須依さんに蹴られたら、相当痛いでしょうね。元日本代表ユースのキック力は、半端じゃないですから」

 いじめなどもそうだ。自分より弱いまたは攻撃しやすい人間を狙い、相手が困る様子を見て楽しんだり、自分の鬱憤を晴らすだけの目的で捌け口にしたりする。人を貶めることで、自分が上に立ったと勘違いし喜ぶのだろう。

 全く愚かな人達が多い世の中になったとつくづく思う。もちろんそんな人ばかりで無いと分かってはいるが、こうした非常時となれば隠れた本性が表に出てくる。

 そうした悪意に何度晒されたことか。秀介も相当嫌な目に遭ったはずだ。その上両親の件もある。そうした不満や鬱積が溜まり、捌け口を求めて行動した結果がオーバーカムの利用であり、葵と出会うきっかけになったのではないかと須依は想像していた。

 ようやく気持ちがほぐれ肩の力が抜けた所で烏森が部屋に戻り、腰を下ろしながら言った。

「悪い、悪い。ちょっと腹の調子が悪くてな。ああそうだ、須依。例の物は新しくなっていて、古いものは無かった。これからその件を追及して調べるようだから、もう少し経てばはっきりするだろう」

 さらっと何気なく告げた言葉を聞き、最大の疑問が氷解した。また最も懸念していた事案がこれで拭い去れる。須依は心の底から安堵のため息を吐いた。

 その様子を察したのだろう。秀介が初めて質問を投げかけてきた。

「何ですか、今の話は。何が無くて、誰を追求して調べるんですか」

 再び警戒心を持ち、緊張感が走った。だが須依は質問で返した。

「秀介君、仕事で使っていたスマートグラスは、少し前に新調したんだって。それまで使っていたものはどこにあるの。部屋の中には無いようね。もう捨てちゃったのかな。警察が家宅捜索して押収した中にも、発見されなったそうだから。おかしいなあ。持っていたはずよね。だって仕事で必要だったでしょう。特にコロナ禍になって文字起こしの際、リモートで指示を受けるようになってからは、よく使っていたはずよね。でも前のって、そんなに古かったかな」

 彼は息を止めたかのように黙った。それでも続けた。

「今、先ほど挙げた今回の事件に関わった人達の家や職場を、警察が改めて調べているわ。もちろんあなたが持っていたスマートグラスとの通話記録があるかどうかや、現場周辺の防犯カメラの位置などを確認したかどうかも分かるはず。それが判明したら、今回の事件は全て繋がるの。もう証拠がないなんて言わせない」

 須依は烏森に手話で指示していたのは、部屋の中にスマートグラスがあるかの確認だった。彼がトイレだと言って席を外したのは、佐々に連絡する為だった。

 警察が秀介の部屋から押収した物で、リモートアシストが出来るヘッドフォン並びにマイクやスマートグラスがどうだったかを確かめて貰ったのだ。戻って来た彼が教えてくれたことで推測が確信に変わり、彼を問い詰めることが出来たのである。

「止めて! 僕が殺人で捕まったら、兄貴は警察を辞めなきゃならなくなる。須依さんはどっちの味方なの。どうしてそんなことをするんだよ!」

 悲痛な訴えを聞き、須依は冷静に告げた。

「江盛正治さんを刺したのはあなたね。完全黙秘を貫いていたのは、葵さんを庇う為だけではなかった。もし計画を白状し罪を問われれば、刑事であるお兄さんは警察を追われてしまう。それを恐れていた。答えはイエス、それともノーなの」

「僕は何も知らない、喋らない。もう出て行ってくれよ!」

 彼は答えず、再びそう叫んだ。しかしここで切り上げる訳にはいかない。あと一歩なのだ。その為静かに言った。

「江盛正治さんが殺された夜、あなたは誰かを刺したのね。でもそれが江盛さんだとどうやって知ったの。あなたは目が見えないわよね。本人に話かけて聞いたのかな」

 反応が無い彼に変わって、烏森が話し出した。

「それはあり得ない。いくら視覚障害者だとはいえ、夜道で見知らぬ若い男性に声をかけられて素直に答える人はまずいないだろう。それに江盛が刺されていたのは背中だ。つまり相手に気付かれず近づいたか、逃げる相手を追いかけたかのどちらかになる。でも犯行現場に走った形跡など残っていない。つまりこっそり近づいた相手に刺されたんだ。これをどう説明する」

「僕には関係ない」

 ようやく絞り出すように呟いた。しかし須依はそれを否定した。

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