スチル32.選択(紅&蒼)
カレンダーが真新しいものに変わり、新しい年がやってくる。
青鸞の特待生推薦入試は、本当にあっけなく終わった。
入念に重ねた準備が肩透かしで終わる結果になるとは思ってもみなかった。トビーが言った通り、試験は面接だけだったのだ。あの人、嘘以外も口に出来るのか。
面接官の一人に学院に入ってからの抱負を尋ねられ、「とにかく上手くなりたいです」と答えた私に、ドッと皆が笑う。な、なんで?
ずらりと並んだ面接官の中央に座り、テーブルに両肘を乗っけて手を組んだ偉そうな(まあ、実際に偉いんだろうけど)トビーから「期待してるよ」とのお言葉を賜り、面接は終了。
他の受験者達はこの後、初見と聴音、実技のテストがあるみたい。
特例なのか、私はそのまま帰っていいと言われた。
案内に同封されていた学院内の簡単な見取り地図を片手に、玄関まで戻ってくる。
青鸞学院というのは、とにかくだだっ広い学校なのだ。街中の一等地に建っているとは思えないくらいの敷地面積を誇っているし、建物の数も非常に多い。
学院の歴史は古いから、外観は非常にクラシックで瀟洒な感じ。打って変わって学校の内部は、耐震補強ばっちりな近代仕様だ。
業務用サイズのエレベーターなんて初めて見た。楽器を運搬するのに使うのかな? せっかくだし、もっと探検してみたかったな。
後ろ髪をひかれる思いで、駐車場で待つ母さんの車に駆け寄る。
「ごめんね、お待たせ!」
「お疲れ様。本当にすぐ終わったんだね! もう帰っていいの?」
「うん、いいみたい。入学案内は来月送付します、だって」
母さんの拍子抜けした表情に、思わず笑ってしまう。
朝から父さんも緊張してたんだよね。
お姉ちゃんだけが「真白が落ちるわけない」と自信満々だったっけ。あの自信は一体どこから出てきたんだろう。
そして迎えた2月。
その日は朝から雪がちらついていた。
電気ヒーターで足元を暖め、ピアノの練習をしていたところに、一本の電話がかかってきた。
鍵盤から手を離し、点滅する携帯を取りあげる。着信の表示を見て、首を傾げた。
紅からだ。彼の方から電話をかけてくることは滅多にない。
珍しいこともあるものだ、と訝しく思いながら通話ボタンを押す。
「もしもし、紅? どうしたの?」
「こんにちは。突然ごめんね。今日、何も予定がないなら家に来ない?」
「紅の家に? なんで?」
「会いたいから」
ストレートな返事に、グッと喉が詰まる。
電話越しに聞こえる紅の声は、ひどく生真面目なものだった。
いつもだったら断っていた。
ごめんね、ピアノの練習してるから。そう言えば紅は、「そうか、仕方ないな」と苦笑して電話を切っただろう。
「……ほんとにどうしたの?」
紅の様子が、あまりにも普段と違う。
何かしらのSOSを発しているのでは? と心配になった私は、思わずそう尋ねていた。
カッコつけの紅のことだ、困った事態に陥っていても素直に助けを求めてくるとは思えない。
「もしかして、何か話したいことがあるの? 大丈夫?」
「話……そうだな。話したいことがあるって、最初から言えばよかったな」
紅の声は、どこまでも静かだった。
冷たいのとはまた違う、淡々とした調子が気になって仕方ない。
「お前は本当に、そういう所だけは勘がいいよな」
紅はおどけて、そう付け足した。
いつもなら、「なにそれ! そんなこと言うなら行かない!」とか何とか言い返すところだけど、先ほどから感じる違和感がそれを許さない。
「分かった。すぐ行く」
私が言うと、紅は「水沢を行かせるから、そのまま家で待ってて」とだけ言って、電話を切った。
妙な胸騒ぎを覚えながら、水沢さんの運転で成田邸に到着する。
紅はエントランスホールで私を待っていた。いつも出迎えてくれる田崎さんは見当たらない。
「こんにちは。あれ? 田崎さんは?」
「いらっしゃい。今日は外して貰ってるんだ。……おいで、こっち」
紅は私を促すと、くるりと踵を返し、スタスタと前を歩いていく。
レディファーストが身に沁み込んでいるはずの紅が、勝手に先に……?
違和感がますます深まる。
二階の応接間へ通されるかと思いきや、連れて行かれた先は、どこの三ツ星レストランよ! と突っ込みたくなるような厨房だった。
ピカピカの調理台の上には、何故かずらりと調理器具や小麦粉、バター、牛乳なんかが並んでいる。
「も、もしかして……?」
見上げた紅は、ニヤリ、と悪い笑みを浮かべた。
◇◇◇
泡だて器を握りしめ、がっくりと項垂れる。
なんと私は厨房で、チョコケーキを作らされることになったのだ。
信じられなくて、何度も溜息を吐いてしまう。
「あのさー。わざわざ招いたお客様に、ケーキ作らせるとかさ。ありえない! ほんと、ない! こっちは何かあったのかもって心配したのに」
「そのお客様って誰のこと?」
「私に決まってるでしょうが!!」
そんなお決まりのやり取りの後、きゅっと口を噤み、作業に取り掛かる。
泡だて器で卵を固く泡立て、ふるっておいた小麦粉とココアパウダーを混ぜ込む。
木べらでさっくりと混ぜ合わせた後、溶かしたバターと牛乳も加えて、丸いケーキ型に流し込んだ。
紅は、厨房に置いてあったイスを引き寄せ、背もたれを前にするようにクルリと半回転させると長い脚でまたいだ。
そのまま腰をおろし、背もたれの上部に両腕を乗せる。
普段の紅には似つかわしくない乱暴な仕草に、不本意ながらドキリとした。
今日の紅は、明らかに変だ。一体どうしたんだろう。
出来上がった生地を丸い型に流し込み、トントンと軽く台に打ち付け、空気を抜く。それをあらかじめ熱したオーブンに入れ、40分のタイマーをかけた。
ようやく作業が終わったので、口を開く。
「しかも、高みの見物とかさ~。ちょっとは手伝おうと思わなかった?」
「真白があんまり手際いいから、邪魔になるかなと思って」
紅がちょこんと首を傾げると、それに合わせて赤い髪がさらりと流れる。
あざとい! そしてカッコいい! 悔しい!
くうううと地団駄を踏む私を見て笑った後、紅はようやく用件を切り出した。
「蒼がドイツから戻って来るよ」
「――え?」
調理中じゃなくて良かった。
途中だったら、耐熱ガラスボウルに入ったケーキ生地を床にぶちまけていた。
今、蒼が帰ってくるって、聞こえた。
固まった私を見て、紅は寂しそうに微笑む。
「いきなり学院で蒼と再会、なんてことになったら、心臓発作起こすんじゃないかと思ってさ。心の準備をさせてあげようと思って、呼んだんだ」
「そう、ですか。それは……どうも」
膝に力が入らない。ふらりとよろめいた私を支えたのは紅だった。
すかさず立ち上がり、私の肘を支えながら別の椅子に座らせてくれる。
ありがとう。そう言いたかったのに、喉から出てきたのは掠れた空気音。
蒼はもう日本には帰ってこない。
私はそう理解していた。
だからこそ、私はあの日、あんなに酷いやり方で彼を突き離したんだ。
たった三年で帰ってくると分かっていたなら、もっと違う方法で蒼を宥めた。
『ちゃんと待ってるから、頑張っていっておいで!』って。
笑って励まして、お別れ出来た。
こんなのって、ない。こんなのって……。
混乱のあまり、私は泣きそうになっていた。
誰が悪いわけじゃないのに、誰かのせいにしたくて堪らなかった。
胸の奥が、訳の分からない憤りで荒される。
あんな風に傷つけたくなった!! と幼い私が泣いている。
静まり返った厨房に、紅の声が響く。
「あいつに『城山くん、おかえり』なんて言うなよ。お前はけじめのつもりだろうけど、蒼は傷つく」
紅らしい忠告に、ふっと頬が緩んだ。
そうか。紅は、蒼を守る為に動いたんだ。二人の友情は何も変わってない。私だけが、あの頃とは違う場所で立ち尽くしている。
居た堪れなくて、紅の顔は見られなかった。
俯いたまま、言い返す。
「……しょうがないよ。私が蒼になんて言ったか、紅だって知ってるでしょ? ――『大っ嫌いだ』って言った。『私に重荷を乗せてくるな』とまで言った。もう昔みたいには呼べないよ。そんな資格、私にない」
話しているうちに、感情が高ぶってくる。
激情を堪えようときつく拳を握りしめ、自分の太腿に押し当てた。
「大体さ。たった三年で帰って来られるのなら、あんなに思い詰めなくても――」
ああ、嫌だ。こんなこと言いたくないのに、口が止まらない。
吐きかけた身勝手すぎる非難は、紅が止めてくれた。
パチン。
私の頬を、紅が両手で挟む。
さっきまで立っていたはずの紅は、私の前にしゃがみこみ、低い位置からこちらを見上げていた。
鋭い眼差しに息を呑む。
「お前だけは、それを言うな。蒼はお前に心酔してた。たった3年? あの時のあいつにとっては、永遠に等しい長さだったんだよ」
紅は怒っていた。私の醜い言い分を責める低い声が、耳の奥に突き刺さる。
彼の言う通りだ。
私は自分の気持ちばかりで、蒼の気持ちを全く思い遣っていなかった。
「――ごめん。……ごめんなさい」
せめて泣くまい、と歯を食いしばり、途切れ途切れに謝る。
紅は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「いや。……悪い、そんなに強くしたつもりはなかったけど、痛かったか」
紅はすっくと立ち上がり、近くのシンクに歩み寄った。そこで自分のハンカチを濡らして戻ってくる。
そして再び私の前に屈み込み、冷たいそれをそっと頬に当ててくれた。
「赤くはなってないから、大丈夫かな。ごめんな」
叩いたわけでもないのに、大げさだよ。
紅も蒼も、優し過ぎる。
酷いのは私だ。二人への罪悪感で、心がズキズキ痛む。
「ううん、私の方こそ、取り乱してごめん。あと教えてくれて、ありがとう。帰国の日っていつか分かる?」
何とか気持ちを立て直し、改めて尋ねた。
「ああ、控えてある。……知りたがるだろうと思ってた」
紅は羽織っていたジャケットの内ポケットから小さく畳んだメモを取り出し、私の手に握らせた。
離れる前の一瞬、ぎゅっと手を握られた気がして紅の顔を見る。
彼は私の方を見ないまま、立ち上がった。
「このケーキ、焼けたらどうすればいい?」
唐突に尋ねられ、面食らう。
私は貰ったメモをポケットにしまいながら、えーと、と手順を思い返した。
「冷ました後に、ガナッシュクリームを作って塗ったら終わりだよ」
「そうか」
紅は私の腕を引いて立たせ、華やかな笑みを浮かべた。
「取り出して冷ますまでの作業は、こっちでやってもらっておくよ。待ち時間は二時間くらい?」
「うん、それくらいだね」
「じゃあ、待ってる間、二階で合わせないか?」
紅の申し出に、私はポカンと口を開けた。
今日は驚くことが多すぎて、頭が上手く回らない。合わせるって……合奏のこと、だよね?
ってことは、紅の方から合奏の申し出をしてきたってこと!?
――『いいぜ。お前が何かのコンクールで入賞するくらいの実力者になったら、な』
幼い日の約束が、一気に蘇ってくる。
懐かしさと、ちゃんと覚えていてくれたんだという喜びで、胸の中がぐしゃぐしゃになった。
私はぐい、と袖で目元を拭い、滲みそうになった涙を押し込める。
「私がコンクールで優勝したら、合奏してやる。昔、そう約束してくれたよね?」
「ああ。真白も覚えてたんだな」
紅があんまり嬉しそうに笑うもんだから、またもや視界が涙で曇った。
二階の音楽室に入り、さっそく楽譜を見繕おうとした私に、紅が首を振る。
「愛の悲しみ。あれにしないか」
「うわ、懐かしい! あ、でもここにあった楽譜、私の家にあるよ」
「大丈夫、ネットでDLしておいた。……もしかして、練習時間が必要?」
からかうような声色に、眉を上げて抗議の意を示す。
「まさか。がっつりマスターしてありますよ。あの時弾けなかった音符も、弾けるようになったし」
「それは良かった。じゃあ、お手並み拝見といこうか」
紅は機嫌よく言うと、楽器ケースの中からヴァイオリンを取り出した。手慣れた様子であっという間に調弦を済ませてしまう。
紅が準備している間、私はベーゼンドルファーに楽譜を立て、椅子に座った。
あの頃難しくて苦戦したピアノ譜が、今では簡単過ぎるくらいだ。
それから、いつでもいいよ、というように紅を見遣る。
紅はおもむろにヴァイオリンを顎に当て、弓を構えた。
凛としたその立ち姿に、一瞬見惚れてしまう。
紅が弓を動かすのに合わせ、艶やかなヴァイオリンの甘い音色が部屋中に満ちていく。
完全に暗譜済みらしく、紅はただ私だけを見つめていた。楽譜や手元は一瞥もしない。
どこか激情を孕んだ紅の真剣な眼差し。
音楽に集中しようとすればするほど、私も紅から目を離せなくなる。
紅は私を見つめながら、切ない音色で美しい旋律を謳い上げていく。
曲がクライマックスにさしかかったその時、唐突に私は理解した。
――紅は私を好きなんだ。
訴えるようなヴァイオリンの切ない響きが、別れを惜しむような紅の瞳が、雄弁にそれを物語っている。
言葉で伝えられても信じられなかっただろう。
だけど、紅のヴァイオリンの音色は、彼の心を切り開いて私に見せつけてきた。
今日は2月15日。
わざわざ私を呼びつけ、どうしてもチョコケーキじゃなきゃ駄目だと言い張って作らせたのは、バレンタインチョコが欲しかったから?
一日遅れなのに、意味なくない?
蒼の帰国の話をして、日程のメモまでくれたのは、私に選ばせる為? あなたか、蒼かを――。
なんて分かりにくい、不器用な男なんだろう。
『好きだよ。俺には、真白だけだ』
かつて蒼が贈ってくれた真っ直ぐな告白が、耳の奥に蘇ってくる。
彼はいつだって直球で、私を求めてくれた。月に一度、ポストに届く手紙にどれだけ励まされたか。蒼からの絵葉書と手紙の束は、一通残らず大事にしまってあった。
答えを出さなきゃいけないんだ。
紅も蒼も大事だから選べない、なんておためごかしは、許されない。
本当はずっと前から分かっていたのかもしれない。
『ボクメロ』に関わりたくない、という大義名分を掲げ、自分の気持ちから目を背けていただけ。
私だって、好きだった。
誰よりも大切で、気になって、出来ればもう離れたくないと願ってしまう人。
それは――。
◆◆◆◆◆
本日の主人公ヒロインの成果
攻略対象:城山 蒼 & 成田 紅
イベント名:分かれ道
無事、クリア
読了ありがとうございました!
これにて共通ルートは完結です。
出来ればもう離れたくない
(心の距離的に)⇒紅ルート
(実際の距離的に)⇒蒼ルート
どちらも、本ルートです。
両方合わせて読むと分かる仕掛けもありますので、よかったら続きもぜひ!
(リメイク版は、来年の今頃連載できたら……と思っています)




