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第一話 三下くんと勇者さま

 山が爆ぜた。


 どん、という腹の底に響く音が、麓の村の畑まで届いた。

 遅れて、爆風が木々を揺らす。

 山の中腹から黒い煙がもくもくと上がり、空へ向かって大きく膨らんでいった。


 畑で鍬を振るっていた老人は、手を止めた。

 隣の畝で草を抜いていた老婆も、腰を伸ばして山の方を見る。


「……また勇者さまかねぇ。」

「そうじゃろうのぉ。」


 老婆は目を細めて煙を眺めた。

 その顔には、驚きよりも、慣れと諦めが浮かんでいる。


 初めて山が爆発した時には、村中が大騒ぎになった。


 火事か。

 魔物か。

 魔王を倒した勇者さまの身に、何かあったのか。


 皆で恐る恐る山へ向かった。


 そして、瓦礫の中から無傷で出てきた勇者さまに、「失敗しました」と言われた。


 二度目からは、少し人数が減った。


 三度目には、誰も行かなかった。


「今度は一体、何をしとるんじゃろうか。」

「さあのぉ。あのお方のすることは、わしらにはよう分からん。」

「この調子じゃ、救った世界を壊す勢いじゃのぉ。」

「せっかく魔王もおらんようになって、平和になったのにねぇ。」

「勇者さまは、どこかおかしいのぉ。」

「おかしいのぉ。」


 老夫婦は顔を見合わせた。

 それから、あはははは、と笑った。


 決して笑いごとではない。


 けれど、あの山で何かが爆発するのは、ここ1か月ですっかり日常になっていた。




「……また、失敗。」


 爆心地にいた春野小雪は、瓦礫の下から起き上がった。


 正確には、瓦礫の下に埋まっていた。

 少し体を動かすと、焼け焦げた木片がぱらぱらと落ちる。


 服は煤だらけだった。

 髪も煤だらけだった。

 顔も、たぶん煤だらけだった。


 だが、体は無傷だった。


 小雪は、しばし考えた。


 もう少し火を弱めるべきだったのだろうか。

 あるいは、容器の密閉度が高すぎたのかもしれない。

 いや、そもそも材料として選んだものが違っていた可能性もある。


 分からない。

 分からないが、結果として爆発した。


 そして、家は壊れた。


 小雪は目の前にある、元は家だったものを見た。


 壁は半分吹き飛んでいる。

 屋根は斜めに落ちている。

 扉はどこかへ消えていた。

 煙突だけが、なぜか真っ直ぐ残っている。


 小雪は立ち上がり、手についた灰を払った。

 払ってもあまり変わらなかった。

 手は真っ黒だ。


 まあいいか。


「復元。」


 小雪が短く告げる。


 壊れた家が、巻き戻るように形を取り戻していった。

 散った木片が集まり、壁になる。

 落ちた屋根が持ち上がり、元の位置に収まる。

 どこかへ飛んでいた扉も、林の向こうから戻ってきた。

 ぎい、と音を立て、元の場所に収まる。


 見た目だけなら、家は元通りになった。


 見た目だけなら。


 小雪は扉を開け、中を確認した。


 床には割れた瓶が散らばっていた。

 焦げた紙束が積もっていた。

 机は横倒しになり、椅子は足が一本なくなっている。


 鍋は逆さまになっており、中に入っていたはずの昨夜の残り物だった何かは、天井にべたりと張り付いていた。


 小雪は天井を見上げた。


「ごはん……どうしよ。」


 復元の魔法は、形あるものを形あるものとして戻す。

 大きくて荒っぽいものなら、小雪にとって直すのは難しくない。


 壁。

 屋根。

 扉。

 折れた柱。


 そういうものは、戻せる。


 だが、魔法で料理は作れない。

 作れる人間もいるのだろうが、小雪は全く得意ではなかった。


 そもそも魔法に頼る以前に、料理ができない。


 天井に張り付いた、煮込み料理を試みたはずの焦げを見ながら、小雪はしばし考えた。


 あれは、まだ食べられるだろうか。

 昨晩は食べられた。

 美味しくはなかったが、体は拒否しなかった。


 しかし、今は天井に張り付いている。

 あれは落ちたものではない。

 天井に張り付いたものだ。


 ……三秒ルールは、果たして適用されるのだろうか。


 その時、遠くから馬の蹄の音がした。


 小雪は扉の前に立ったまま、音のする方を見た。

 山道を、王家の紋章が入った馬車が登ってくる。


 面倒そうだ。


 小雪はそう思った。


 馬車は家から少し離れた場所で止まった。

 中から降りてきたのは、王城の事務官だった。


 たしか、見覚えのある男だ。

 いつも汗をかいている。

 今日も汗をかいていた。


「ゆ、勇者コユキ・ハルノ様。」

「はい。」


 小雪は頷いた。


 事務官は、ちらりと家を見た。

 復元された家は、外から見れば普通だった。

 ただし、窓からは煙が漏れている。


 次に、煤だらけの小雪を見た。


 事務官は何かを言いかけた。

 しかし、言わないことにしたらしい。


 賢明だった。


「本日は、国王陛下より、正式なご招待に参りました。」


 事務官は震える手で巻物を開いた。


「本日、王城大広間において開催されます、魔王討伐記念式典、ならびに、勇者様への感謝を捧げる祝賀晩餐会に、ぜひともご出席いただきたく……」


 なんだそれは。

 いかにも面倒くさそうだ。


 断ろうかと思った瞬間、小雪の視界に、天井に張り付いた焦げが入った。


 そうだ。


 先ほど、晩餐会と聞こえた。

 つまり、食事が出るかもしれない。


「ごはん。」

「はい?」

「ごはん、出ますか?」


 事務官は一瞬、固まった。

 それから、全身で頷いた。


「も、もちろんでございます。王城の料理長が腕によりをかけ、最高の晩餐をご用意しているとのことでございます。」

「じゃあ行きます。」

「ありがとうございます!」


 事務官は、なぜか泣きそうな顔をした。


 小雪は家の扉に鍵をかけた。

 中はぐちゃぐちゃだが、鍵はかかった。


 なら、問題ない。


 不自然に額の汗を拭き、家の中を見ないようにしている事務官を置いて、小雪は馬車へ乗り込んだ。


 さすが王家所有の馬車だった。

 乗り心地は悪くない。


 山を下りる馬車の窓から、春の景色が流れていく。


 八年間、魔王を倒すために世界中を旅した。

 けれど、こうして何も倒さずに馬車へ揺られるのは、まだ少し変な感じがした。


 魔王は静まった。

 そして世界は平和になった。


 だから小雪は、山に籠もっていた。


 やりたいことがあったから。


 しかし、そのためには色々と足りない。


 鉄。

 銅。

 硝子。

 そして、知識。


 小雪は窓の外を見ながら、しばし考えた。


 まあ、それより今は、ごはんだった。




 王城の大広間は、きらきらしていた。


 天井は高い。

 柱は太い。

 壁には金の飾りがついている。

 床は磨かれすぎていて、少し滑る。


 小雪は事務官に案内されるまま、広間の奥へ進んだ。


 長い卓がいくつも並んでいる。

 晩餐会で使われるのだろう銀器や、金の縁取りがされた皿もすでに用意されていた。


 しかし、料理はまだ出ていなかった。


 それが一番の問題だった。


「勇者様、こちらでお待ちください。」


 事務官がそう言ったので、小雪は一番奥の椅子に座った。


 大きく、立派な椅子だった。

 背もたれには細かい彫刻が施されている。

 座り心地もよい。


 周囲が少しざわついた。

 しかし、小雪は特に気にしなかった。


 今日は勇者が主役だから、この席が正しいはずだ。

 誕生日会でも、主役は奥や真ん中に座ることが多い。


 たぶん同じだ。


 少し離れたところで、王が立っていた。

 王は汗をかいていた。


 小雪は王を見た。

 王も小雪を見た。

 目が合うと、王はさっと目を逸らした。


 座ればいいのに、と小雪は思った。

 椅子はたくさんある。


 その間にも、広間には貴族たちが集まってきていた。


 小雪を見て足を止める。

 小雪の椅子を見る。

 王を見る。

 そして、何も言わない。


 この国の人間は、思っていることをあまり言わない。

 小雪はそう理解した。


 その時、広間の入り口が騒がしくなった。


「は。召喚されてから八年もかかってんだろ? 随分のろまな勇者だな。」


 声が大きい。


 小雪はそちらを見た。


 三人の若い男が広間へ入ってくるところだった。

 一番目立つ真ん中の男は、金髪で、吊り目で、背が高い。


 顔立ちは整っている。

 服も上等だ。

 そして、とても偉そうだった。


 偉そうな人間が、偉そうな歩き方で、偉そうな顔をして入ってきた。


 左右にいる二人も、なかなか長身だ。

 真ん中の男の取り巻きだろうか。


 随分でかい腰巾着だ。

 邪魔にならないのか。


 というか、なぜわざわざ三人で入ってくるのだろう。

 一人では歩けないのだろうか。


「まったく、少し魔法が強ぇくらいで、威張りくさってんだろ?」


 威張り腐っているのは、お前たちの方では。


 そういう感想が浮かんだが、小雪は静かに視線を逸らした。


 貴族らしい格好こそしているが、きっとこれは、やくざ崩れというやつだ。


 なんだっけ。

 半グレだっけ。


 関わったら、オラオラとかされるに違いない。


 犬と同じだ。

 目を合わさないようにしよう。


「だよな。一度、そのしけた面を拝んでみたいぜ。」

「いたぜ。……ってか、なんで陛下の席に座ってんだよ!おかしいだろ!」


 取り巻きの一人が、小雪を指さした。


 小雪は、自分が座っている椅子を見た。

 そして、少し離れたところで立っている王を見た。


 しばし考えた。


 なるほど。

 ここは陛下の席だったのか。

 だから王は立っていたのか。


 そうならそうと、早く言ってくれればよかったのに。


「おい、てめぇ。勇者か何か知らねえが、そこは王族の席だ。移動しろ!」

「すみません。」


 小雪は素直に立ち上がった。

 そして、近くの空いている椅子に座った。


「いや、そこも公爵家の席だから!」

「そうですか。」


 小雪はまた立ち上がった。


 空いている椅子はたくさんある。

 だが、どれが誰の席なのかは分からない。


 小雪はしばし考えた。


「床でいいですか。」

「よくねえよ!」


 取り巻きが叫んだ。


 何が正解なのだろう。


 面倒だった。


 その時、真ん中にいた金髪の男が、取り巻きの肩をぽんと叩いた。

 ごほん、と軽く咳払いをする。


「……やめろ、ライナス。」

「は? どうした、ヴェル?」

「ことは早い方がいい。」

「何のことだよ。」


 金髪の男は答えなかった。

 小雪を見ていた。


 先ほどまでの偉そうな顔は、そこにはなかった。

 口元が、何かに耐えるように引き結ばれている。


 目元が赤い。

 若干、瞳も潤んでいるように見える。

 頬が赤い。

 耳も赤い。


 小雪は、しばし考えた。


 この男は、熱があるのだろうか。


 金髪の男は、もう一度咳払いをした。

 それから、ぎこちない動きで小雪の前まで来る。


 背が高い。

 正面に立たれると、見上げなければ顔が見えなかった。


 小雪は見上げた。


 男の顔が、さらに赤くなる。


「オオオオオオナマエハ?」


 小雪は首を傾げた。


 呪文だろうか。


 発音は悪いが、魔力の流れはない。

 たぶん呪文ではない。


 小雪が黙っていると、金髪の男はさらに顔を赤くした。


「お、おまえ、名前は?」

「先に名乗れ、三下。無礼だぞ。」

「さ、三下……?」


 男は顔を赤くしながらも、どこかぽかんとした様子で小雪を見つめた。


 ふむ。


 三下という言葉は、こちらの世界では一般的ではないのかもしれない。


 小雪はしばし考えた。


 小物。

 雑魚。

 チンピラ。


 いや、さすがに貴族に対して言ったら怒られるだろうか。


「俺はヴェルヴァルド。ヴェルヴァルド・グランツ。グランツ公爵家の次男だ。」


 結論が出る前に、男が名乗った。


 なんだか長い名前だった。


「そうですか。」

「そうですか、じゃねえ。いや、じゃありません。おまえは?」


 その時、ラッパの音が響いた。


 ようやく晩餐会が始まるのだろうか。


「えー、皆さま。これより開会式を始めますので、お席にお戻りください。」


 魔法機で拡張された事務官の声が告げる。


 まだ開会式らしい。


 一体、ご飯はいつ供されるのだろう。


 小雪は近くの椅子に座り直した。

 念のため事務官を見る。

 遠くにいた事務官が、力強く頷いた。


 ここは座っていいらしい。


 なぜか三下の吊り目が隣に座る。


 席はたくさんあるのだから、あちらに座ればいいのに。

 とは言わない。


 なぜなら、面倒だから。


「まずは陛下より、開式のご挨拶です。」


 その言葉に、王が拡張器の前へ歩み出た。


「えー、あー。ごほん。本日はお日柄も良く……」


 こいつは長くなるやつだ。


 小雪の心はしぼんだ。

 お腹もしぼんだ。


「……このヴァルクレスト王国は、世界屈指の魔法大国として栄えてまいりました。唯一、異世界から勇者候補をお迎えできる魔法技術を持つ、誇りある国でございます。その誇りがいつから続いておりますかと申しますと、第三代国王の御代にまで遡り……」


 なんだろう。


 会場がグラウンドでないだけましなのだろうか。

 ましと思わなければいけないのだろうか。


 隣の吊り目も、そわそわしている。


 手を組み直す。

 足の位置を変える。

 小雪を見る。

 目が合うと逸らす。

 また見る。


 なんだろう。


 トイレにでも行きたいのだろうか。

 なら早く行け。

 隣で音を立てるな。


 王の話は、途中から演劇に入ってきていた。


「百年に一度、魔王は果ての地より蘇る。そのたびに世界は乱れ、魔族と魔物は人を襲い、天は荒れ、大地は痩せる。しかし、女神は我らを見捨てなかった。異界より千を超える勇者候補を遣わし、恩恵を授け、この世界を救う道を示してくださった。」


 途中で衣装が変わったり、紙吹雪でも降るのだろうか。

 いや、こちらにスポットライトが降りてきたりするのだろうか。


 小雪は静かに姿勢を正した。


「八年にわたる過酷な旅の果て、勇者コユキ・ハルノ殿は、ついに魔王を討ち果たした。我ら人類に、再び平和がもたらされたのである!」


 拍手が起きた。


 広間にいる貴族たちは、小雪を見ていた。

 騎士たちも、小雪を見ていた。

 使用人たちも、小雪を見ていた。

 隣の三下も、なぜか小雪を見ていた。


 王だけは、小雪を見ないようにしていた。


 小雪は王を見ていた。

 王の額に、汗が浮かんでいる。


「よって、王国は勇者殿の功績を称え、望む褒美を授けたい。勇者殿。そなたが望むものを、何なりと申すがよい。」


 褒美。


 小雪はしばし考えた。


 これは想定していなかった。

 褒美がもらえるのか。

 何なりと、ということはいくつでもいいのだろうか。


 まず、ごはんはこの後出る。

 ならば、それ以外がいい。


 鉄が足りない。

 銅も足りない。

 硝子器具はすぐ割れる。

 色々な材質の粉も、できるだけ揃えたい。


 山奥の家はよく壊れる。

 実験用の、壊れにくい小屋もほしい。


 あと、助手だろうか。


 手先がよく動き、文字が読めて、計算ができて、力があって、壊れにくい人間。


 そこまで考えた時だった。


 遠くで、何かが軋んだ。


 小雪は顔を上げた。


 広間の天井が割れた。


 轟音が響く。

 悲鳴が上がる。


 石片と木片が降り注ぎ、巨大な鳥の頭が、王城の壁を突き破って広間へ突っ込んできた。


 鋼のような嘴。

 赤黒い羽。

 硬い刃のような羽毛の隙間から青白い光が漏れる。

 人間の胴ほどもある爪。

 濁った赤い目。


 魔物だった。


 しかも、真っ直ぐ小雪を見ている。


 広間の騎士たちが剣を抜く。

 貴族たちは席を立ち、互いにぶつかりながら逃げ始めた。

 悲鳴と怒号が飛び交う。


 その中で、小雪だけが座ったまま、しばし考えた。


 小雪の魔素に引き寄せられたのだろう。

 山から王城まで来たせいで、匂いのようなものが流れたのかもしれない。


 失敗した。

 帰ったら対策を考えなければならない。


 面倒だった。


 巨大な嘴が、小雪へ向かって突っ込んでくる。


「危ねえ!」


 隣で椅子が倒れる音がした。

 視界が、一瞬だけ暗くなる。


 先ほど隣に座った三下が、小雪に覆いかぶさっていた。

 小雪を抱え込むようにして、強く目を閉じている。


 魔法は使っていない。

 魔力の流れもない。

 防御障壁もない。


 小雪は、しばし考えた。


 もしかして。

 これは、庇おうとしているのだろうか。


 この場で。

 いや、この世界で最も強いこの勇者さまを。

 しかも魔法無しで。


 衝撃は、もちろん来なかった。


 巨大な鳥型の魔物の嘴は、小雪の手のひらで止まっていた。

 小雪は片手を上げただけだった。


 使っていない方の手を顎に当てて、ふむ、としばし考える。


 この魔物は少し大きい。

 小さな術式では、処理に時間がかかりそうだった。


「開廷――審理開始。」


 細く透明に近い糸が、魔物の体に絡みつく。


「証拠保全――封鎖。」


 黒い嘴が、糸の下で鈍い音を立てて潰れた。

 黒色の液体が、白い大理石の床にぼたぼたと滴る。


「身体拘束――緊張。」


 糸が魔物の体をぎりぎりと締め上げた。

 みしみしと音を立てながら、巨大な羽が不自然な方向へ曲がっていく。

 魔物の咆哮が、王城を震わせた。


「主文――有罪。」


 糸が魔素の伝達を受け、金色に輝いた。


 一瞬指に痛みが走る。


「執行――火刑。」


 赤い炎が、音もなく魔物を包んだ。


 次の瞬間、魔物の体が爆ぜた。


 鋼のような嘴が崩れる。

 赤黒い羽が燃える。

 人の胴ほどもあった爪が、黒い炭になって落ちる。


 先ほどまで魔物の体だった灰が、雪のように舞った。


 あれほど騒がしかった広間が、静まり返った。


 青年が、そっと目を開ける。


 目が合った。


 青年の琥珀色の目が、大きく見開かれた。

 次の瞬間、顔がみるみる赤くなる。


 小雪はしばし考えた。


 やはり病気かもしれない。


 小雪は、青年の腕をほどいた。


 まだ小雪を庇う形のまま固まっていた彼は、そこでようやく自分の体勢に気づいたらしい。

 息を呑み、慌てて体を起こす。


 小雪も立ち上がった。


 灰が、二人の間を静かに舞っていた。


 そういえば。


 先ほど、この男は自分の名前を聞いていた。


「小雪。」


 青年の喉が、小さく鳴った。


「春野小雪です。」


 それだけ言った。


 青年は動かなかった。

 まるで息の仕方を忘れたかのように、小雪を見つめている。


 小雪は、そんな彼を少しだけ見ていた。

 それから、王の方へ視線を移す。


 王は震えていた。

 貴族たちも、騎士たちも、使用人たちも、全員が小雪を見ていた。


 床には巨大な魔物の灰が積もっている。

 壁には大穴が開いている。


 料理は、まだ出ていない。


 小雪はしばし考えた。


 この空気でごはんを待つのは、面倒だった。


「私がいても、ご迷惑のようですので帰ります。」


 丁寧にそう言って、小雪は魔物が開けた横穴へ歩き出した。


 出口まで戻るより近い。

 なんか請求されたら面倒くさいし。


 そこかしこから止める声が聞こえたが、小雪はすべて無視した。


 お腹が空いた。

 もう早く帰って、豆でも齧ろう。


 外はよく晴れていた。

 壊れた壁の向こうで、春の風が吹いている。


 小雪が一歩踏み出した時、背後で誰かが叫んだ。


「待て!」


 小雪は足を止めた。

 振り返る。


 さきほどの青年が、まだ真っ赤な顔のまま立ち上がっていた。

 灰まみれで、服も乱れている。

 それでも、琥珀色の目だけは真っ直ぐ小雪を見ていた。


「お、おまえ、褒美……まだ言ってねぇだろ。」


 小雪はしばし考えた。


 そういえば、そうだった。


 鉄。

 銅。

 硝子器具。

 壊れにくい小屋。

 そして、助手。


 手先がよく動き、文字が読めて、計算ができて、力があって、壊れにくい人間。


 小雪は、灰まみれの青年を見た。


 先ほど、魔法も使わずに小雪を庇った男。


 力はありそうだ。

 丈夫そうでもある。

 偉そうな三下だが、貴族なら文字は読めるだろう。

 計算も、たぶんできる。


 悪くない。


 小雪は、しばし考えた。

 そして、王を見た。


「褒美。」


 王がびくりと震えた。


「は、はい。何なりと。」


 小雪は青年を指さした。


「これください。」


 広間が、完全に静まり返った。


 青年も固まった。

 王も固まった。

 取り巻きたちも固まった。


 小雪だけが、真顔だった。


「……は?」


 青年が、かすれた声を出した。


 小雪はもう一度言った。


「助手にします。」


 春の風が、壊れた王城の壁から吹き込んだ。


 灰が舞う。


 料理は、まだ出ていない。


 こうして、三下くんと勇者さまの、非常に迷惑な日常は始まった。

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