第11話 優しい闇とおやすみ
布団の重さが全身を押しつける。手足が鉛のように沈んだ。
コレットは仰向けに横たわる。天井の闇がゆっくりと回転する。
冷たい枕が頬に触れる。リネンの匂いが鼻をくすぐった。
セーラの目が思い浮かぶ。図書館の窓辺で、あの青色が揺らいだ。
「私の力は、国にとっての資産ですから」
その声が、もう一度耳の奥で響く。優しい調子の裏に、ひび割れがあった。
アルヴィンの手の温もりも蘇る。彼がそっと指を絡めた時の、硬い関節の感触。
「自由を尊重するのが、愛だと母は言いました」
彼の言葉が胸の奥で温かく燃えた。その炎は、冷えた体の芯まで届く。
まぶたの裏に、書架の影が揺れる。自分が『月と海の誓い』を手に取った時の、革表紙の手触り。
ミリアーナの、あの複雑な表情。驚きと戸惑い、それに少しの――恐れ。
コレットは布団の下で拳を握った。指先に力が入る。爪が掌を刺す。
ふと、力を抜く。息が深く、長く流れ出した。
もう、悪役令嬢の運命などない。図書館で交わした言葉が、現実を塗り替えた。
セーラの秘密も、アルヴィンの想いも、全部、今ここにあるものだ。
コレットはそっと目を閉じた。星の灯りが、まぶたの裏でちらつく。
闇が優しく包み込む。体の重さが、次第に布団と一つになっていく。
遠くで波の音が聞こえるような気がした。それは、海の向こうの王国からの、優しいささやきだった。
***
コレットの指先が、冷えた窓ガラスに触れた。外はもう真っ暗だった。
彼女はゆっくりとカーテンを引いた。布地が滑る音が、静かな部屋に響く。
温めた石を湯たんぽ代わりに布団の奥へ入れ、コレットはベッドの縁に腰を下ろした。
足は鉛のように重い。一日の緊張が、ふっと抜けていく。
「明日は……」
彼女は小声で呟き、枕元の手帳を閉じた。革表紙が微かに温かい。寝間着の紐がほどける。冷たい絹が肩から滑り落ちた。
窓辺の星明かりが、コレットの鎖骨のくぼみを仄かに照らす。
彼女はゆっくりと息を吐いた。白い霧が闇に溶ける。
湯気が立ち上る洗面器の水に顔を近づける。温もりが頬に伝わる。
手の平で水をすくい、額からあごへと流す。水音が規則的で落ち着く。
タオルで顔を押さえる。柔らかな布地が肌の水分を吸い取る。
鏡に映る自分の目を見つめる。瞳の奥に、今日の言葉がちらつく。
「あなた自身で選んだのね」
セーラの声が蘇る。コレットは軽くうなずいた。
ベッドへと歩く。足の裏が冷えた石畳を感じる。
布団をめくる。干したばかりのリネンの匂いがほのかに漂う。
体を横たえる。羽毛のマットレスが優しく体を受け止める。
天井を見上げる。暗闇に浮かぶ梁の影が、ゆっくりと一つになっていく。
「……大丈夫」
彼女は小声で言った。誰にともなく。
手を胸の上に重ねる。鼓動が静かに、確かに打っている。
その音を聴きながら、コレットはまぶたを閉じた。
闇が深く、優しかった。部屋の冷気が肌を刺す。コレットは肩をすくめた。
彼女はマントの留め金を外した。金属が軽く鳴る。重い布が床に落ちる。
足元に広がるマントは、一日の重みを溜め込んでいるようだった。
ドレスの背中のホックに手を伸ばす。指先が冷たい。一つ、また一つと留め具が緩む。
布地が身体から離れる。絹がざっくりと音を立てた。
彼女は寝間着に袖を通した。リネンが冷たい肌に触れる。一瞬、鳥肌が立つ。
窓辺に置かれた洗面器の水に顔を映す。水面が微かに揺れる。
手を浸す。水の冷たさが指の関節まで染みる。
手のひらで水をすくい上げる。顔を洗う。水が頬を伝い、首筋へ流れた。
タオルで顔を拭う。布が肌を摩擦する音だけが響く。
鏡の中の自分が瞬きをする。瞳の周りに、薄い影ができている。
コレットはそっと息を吐いた。白い吐息が鏡を曇らせ、すぐに消えた。
ベッドへ向かう。足の裏が石の床の冷たさを感じる。
布団の端をめくる。中から温めた石の微かな温もりが漂う。
彼女は体を横たえた。羽毛のマットレスが重い体を受け入れる。
毛布を首元まで引き寄せる。布の感触が顎に触れる。
天井の梁の影を見つめる。闇の中で、その輪郭が次第にぼやける。
胸の上で手を組む。指と指が絡まる。自分の鼓動が掌に伝わる。
鼓動は遅く、深い。今日という日が、確かに終わる音だった。
まぶたが自然に閉じる。闇が視界を覆う。
「……おやすみ」
声は布団に吸い込まれた。
体の力が、ゆっくりと抜けていく。重さが布団へと移行する。
呼吸が静かなリズムを刻む。その音だけが、闇の中に残った。
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