第三十二話 小さな成功と、新たな課題
複合属性魔法の基礎授業が始まってから、数週間。
王立学院の演習場では、今日も二年Aクラスの生徒たちが、それぞれの魔力と向き合っていた。
春の陽射しは少しずつ強くなり、演習場を囲む木々には鮮やかな若葉が茂り始めている。
「では、始めてください」
クラウス先生の声が響く。
生徒たちは一斉に手を前へ伸ばした。
次々と、それぞれの属性魔法が展開されていく。
炎。
水。
風。
土。
光。
闇。
演習場には六つの属性が入り混じり、色とりどりの魔力が揺らめいていた。
ミリアも静かに息を吐く。
「……よし」
掌に、柔らかな光を灯す。
以前なら、ここまでは何の問題もなかった。
問題は――ここからだ。
(光を維持したまま……水を少しだけ)
ミリアは慎重に魔力を動かした。
光の周囲に、ほんのわずかな水の魔力を集める。
すると――。
淡い光の中に、小さな水滴が浮かんだ。
「……!」
ミリアの目が大きくなる。
水の魔力は光に触れた瞬間、弾けることなく、その場に留まっていた。
今までとは違う。
ほんの数秒。
それだけだった。
けれど――。
(消えない……!)
ミリアは息をすることさえ忘れそうになる。
光と水。
二つの魔力が、互いを打ち消すことなく、同時に存在している。
「……できた」
思わず、小さな声が漏れた。
『ミリア! できてるよ!』
ライトが嬉しそうに飛び跳ねる。
「うん……!」
ミリアの顔にも自然と笑みが浮かんだ。
だが、その直後――。
ふっ。
光と水が同時に消える。
「あ……」
ミリアは自分の掌を見つめた。
成功したのは、ほんの一瞬。
それでも――。
「今のは……」
少し離れた場所にいたクラウス先生が、ミリアへ視線を向けていた。
「テルファメート様」
「はい!」
ミリアが振り向く。
クラウス先生は穏やかに頷いた。
「今の状態を維持できた時間を覚えていますか?」
「えっと……数秒くらいです」
「十分です」
「え?」
ミリアが目を丸くする。
クラウス先生は演習場全体を見渡した。
「皆さん、少し手を止めてください」
生徒たちが魔力を消し、先生へ視線を向ける。
「今、テルファメート様が光と水の魔力を同時に維持しました」
その言葉に、周囲から小さなどよめきが起こった。
「本当に?」
「成功したの?」
「すごい……」
ミリアは少し照れたように頬を掻く。
「まだ、ほんの少しだけですけど……」
「それでいいのです」
クラウス先生は微笑んだ。
「複合属性魔法は、いきなり完成した魔法を作るものではありません」
先生は自分の掌に、水の魔力と光の魔力を同時に浮かべる。
「まずは二つの属性を同時に存在させること」
二つの魔力が静かに回る。
「次に、それぞれの魔力を安定させる」
光と水が少しずつ近づく。
「そして最後に――一つの形へと導いていく」
二つの魔力が一つの球体へとまとまった。
「これが複合属性魔法の基本的な流れです」
生徒たちは食い入るように見つめている。
「ですから、今のテルファメート様の成功は、その第一歩を踏み出したということです」
「第一歩……」
ミリアは掌を見つめる。
ほんの数秒。
それだけなのに、不思議なくらい嬉しかった。
『やったね、ミリア!』
「うん!」
ライトも嬉しそうに笑っている。
その少し離れた場所では――。
ロナルドも静かに掌を見つめていた。
そこには、淡い闇の魔力が揺らめいている。
(俺も……)
ロナルドはゆっくりと目を閉じた。
闇を維持する。
そして、その内側へ風の魔力を流す。
ほんの少し。
ほんの少しだけ――。
黒い魔力の中に、細い風が入り込む。
ふわり。
闇が揺れた。
だが、今度は消えない。
「……!」
ロナルドの瞳がわずかに見開かれる。
黒い風が、ほんの一瞬だけ彼の掌の中に留まった。
しかし――。
シュッ!
次の瞬間、風が外へ逃げる。
闇も同時に霧散した。
「……まだだな」
ロナルドは小さく呟いた。
だが、その表情には悔しさよりも、確かな手応えがあった。
少し離れた場所から、ミリアがその様子を見ていた。
「ロナルド様!」
ロナルドが振り向く。
「今の、成功したよね?」
「ああ」
ロナルドは頷いた。
「一瞬だけだがな」
「私も一緒!」
ミリアが嬉しそうに自分の掌を見せる。
「私も数秒だけだったけど、光と水が消えなかったの」
「そうか」
ロナルドの表情が柔らかくなる。
「なら、俺たちは同じところまで来たな」
「うん!」
ミリアは嬉しそうに頷いた。
すると、隣にいたエレノアも微笑む。
「お二人とも、おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
「まだまだ先は長そうですけれど……」
エレノアは自分の掌へ視線を落とした。
「私も負けていられませんわね」
その言葉に、フェイルも苦笑する。
「僕も頑張らないとな」
「みんなで頑張ろう!」
ミリアが笑顔で言う。
四人は顔を見合わせた。
まだ、誰も完成には程遠い。
けれど――。
初めて、それぞれの魔力に小さな変化が生まれ始めていた。
その日。
ミリアとロナルドは、初めて同時に二つの属性を維持することに成功した。
それは、これから始まる長い魔法修練の――。
ほんの小さな一歩だった。
◇◇◇
学院は週末を迎え、いつもの賑やかさも少しだけ落ち着いていた。
ミリアも自室で教本を広げながら、先日の実技を思い返していた。
「光と水……」
掌を見つめる。
あの日、ほんの数秒だけだった。
それでも、確かに二つの魔力は同時に存在していた。
『またできるかな?』
「うん。できるようになりたい」
ライトがミリアの周りをくるくると飛ぶ。
『じゃあ、練習!』
「そうだね」
ミリアは椅子から立ち上がった。
庭へ出ると、春の暖かな風が頬を撫でる。
人目のない場所を選び、ミリアはゆっくりと右手を前へ伸ばした。
「光……」
淡い光が掌に灯る。
続いて――。
「水……」
小さな水滴が光の周囲へ集まっていく。
ふわり。
光と水が重なった。
「……!」
だが、今回はすぐに水の魔力が弾かれてしまう。
光も消えた。
「うーん……」
『さっきより早く消えちゃったね』
「うん……」
ミリアは少し考え込む。
「やっぱり、ただ重ねるだけじゃ駄目なんだ」
『むずかしいねー』
「でも……」
ミリアはもう一度、掌を見る。
「前はできなかったことを考えると進歩したと思うんだけどなぁ……」
その言葉に、ライトは嬉しそうに笑った。
『じゃあ、ちょっとずつだね!』
「うん。ちょっとずつ頑張るよ!」
その頃――。
王城の一室では、タルトミア王国の王太子レオナードが執務机に向かっていた。
机の上には、学院から届いた報告書がいくつも積まれている。
「二年生の授業も、順調に始まったようですね」
向かいに座る側近が頷く。
「はい。特に今年から始まった複合属性魔法については、生徒たちの関心も高いようです」
「そうか」
レオナードは報告書へ目を通す。
「ミリアたちはどうだ?」
「テルファメート嬢、そしてダーガトークのロナルド殿下ともに、基礎訓練へ真面目に取り組んでいるようです」
「二人とも熱心だな」
レオナードは微笑んだ。
その時だった。
「殿下」
扉の外から声が響く。
「ダーガトーク王国から書状が届いております」
「ダーガトークから?」
「はい。王太子ジーク殿下からです」
レオナードは顔を上げた。
「通してくれ」
ほどなくして、封蝋の押された一通の書状が届けられる。
そこには、ダーガトーク王家の紋章が刻まれていた。
レオナードは封を切り、静かに内容へ目を通していく。
読み進めるにつれ、その表情が少しずつ変わった。
「……これは」
「何かございましたか?」
側近が尋ねる。
レオナードは書状を机へ置いた。
「ロナルドの婚約についてだ」
「婚約……ですか?」
「ああ」
側近が驚いたように目を見開く。
レオナードは再び書状へ視線を落とした。
そこには、ダーガトーク王太子ジークからの意向が記されていた。
――ロナルド殿下の婚約者候補として、ミリア・テルファメート嬢を推薦したい。
「テルファメート嬢を……」
側近も書状を見つめる。
「ダーガトーク王家から、正式に推薦が来たということですか?」
「そういうことになる」
レオナードは静かに息を吐いた。
「なるほど……」
これまでにも、ロナルドとミリアの交流については報告を受けていた。
学院での友人関係。
冬休みにダーガトークを訪れたこと。
そして、隣国の王族と侯爵家という立場。
どれも、決して無関係では済まされない。
「しかし、まだ二人とも二年生になったばかりです」
「そうだな」
レオナードも頷く。
「すぐに婚約を決めるという話ではないだろう」
側近が慎重に言葉を選ぶ。
「ですが、両国の関係を考えれば……」
「分かっている」
レオナードは窓の外へ視線を向けた。
春の王都が穏やかな光に包まれている。
「ロナルド本人の意思も、ミリア嬢本人の意思も大切だ」
「はい」
「それに――」
レオナードは少しだけ笑った。
「二人がどう考えているのか、まずは見守る必要があるだろう」
その頃。
別の場所では、ミリアの父リンフォルもまた、一通の書状を受け取っていた。
侯爵家の執務室。
リンフォルは封を開き、内容を確認すると、しばらく無言で紙面を見つめていた。
「……まさか、ここまで早く話が来るとはな」
向かいにいた夫人ミルティアが首を傾げる。
「何かありましたか?」
リンフォルは書状を妻へ差し出した。
「ダーガトーク王家からだ」
「ダーガトーク……?」
ミルティアは書状へ目を通す。
そして――。
「まあ……」
小さく目を見開いた。
「ミリアのこと?」
「ああ」
リンフォルは頷く。
「ロナルド殿下の婚約者候補として、ミリアを推薦したいそうだ」
「まあ……」
ミルティアは驚きながらも、やがて穏やかな笑みを浮かべた。
「ミリアも、もうそんな年頃になったのですね」
「まだ二年生になったばかりだぞ」
「分かっていますわ」
ミルティアは微笑む。
「ですが、いずれ向き合わなければならない話ですもの」
「……そうだな」
リンフォルは椅子へ深く腰を下ろし、ゆっくり息を吐いた。
「ロナルド殿下はダーガトークの第二王子。そしてミリアはテルファメート家の長女」
「両国の関係を考えれば、悪い話ではありませんね」
「むしろ、非常に大きな意味を持つ」
リンフォルは静かに書状を見つめる。
しかし――。
「だからこそ、ミリア本人の気持ちを無視するつもりはない」
「ええ」
ミルティアも頷いた。
「まだ急ぐ必要はありませんわ」
二人は顔を見合わせる。
「学院で二人がどのように過ごしているのか」
「そして、これからどう成長していくのか」
「それを見守りましょう」
窓の外では、春風に乗って花びらが静かに舞っていた。
一方、その頃。
何も知らないミリアは――。
「もう一回!」
『えー! またやるのー?』
「だって、さっきより上手くできそうだったんだもん!」
『お菓子休憩は?』
「それは練習のあと!」
『えぇー!』
庭に、楽しそうな声が響いていた。
王家同士の書状が交わされていることも。
自分の未来について、大人たちが静かに話し始めていることも。
今のミリアは、まだ何も知らない。
ただ――。
目の前にある新しい魔法を、少しずつ身につけようとしていた。
◇◇◇
週末が明けた月曜日。
王立学院では、いつもと変わらない朝の時間が流れていた。
廊下には生徒たちの話し声が響き、教室へ向かう足音が重なっている。
ミリアも教室へ向かいながら、昨日の練習を思い返していた。
「……やっぱり、まだ難しいなぁ」
『でも、できたこともあるよ!』
「うん」
ライトの言葉に、ミリアは小さく笑う。
ほんの数秒。
それでも、光と水を同時に維持できた。
今までできなかったことが、少しだけできるようになった。
その感覚が嬉しくて仕方がない。
「今日も頑張ろうっと」
『おー!』
そんな二人の前方から、見慣れた姿が近づいてきた。
「おはようございます、ミリア様」
「エレノア様、おはようございます!」
エレノアは柔らかな笑みを浮かべる。
「昨日も練習をされたのですか?」
「はい!」
ミリアは嬉しそうに頷いた。
「少しだけですけど、光と水を同時に維持できました!」
「まあ。それは素晴らしいですわ」
「でも、まだほんの数秒なんです」
「それでも立派な進歩ですわ」
エレノアは優しく微笑む。
「私も負けてはいられませんね」
「エレノア様も?」
「ええ」
エレノアは小さく頷いた。
「水属性は扱えても、別の属性と組み合わせるとなると、やはり簡単ではありませんもの」
「一緒に頑張りましょう!」
「ええ」
二人が笑い合っていると――。
「何を頑張るんだ?」
後ろから声がした。
「ロナルド様!」
「おはようございます、ロナルド殿下」
「ああ。おはよう」
ロナルドは二人の前で足を止める。
「複合属性魔法の話か?」
「そうです!」
ミリアが答える。
「昨日、少し練習したんです」
「そうか」
ロナルドは穏やかに頷いた。
「俺も少し試した」
「どうでした?」
「一度だけ、闇と風を維持できた」
「本当ですか?」
「ああ。だが、すぐに崩れた」
「私も同じです!」
ミリアの表情が明るくなる。
「じゃあ、私たち、少しずつ上手くなってるんですね」
「そうだな」
ロナルドも小さく笑った。
「焦る必要はない。少しずつでいい」
「はい!」
その会話を聞いていたエレノアが、ふと二人を見つめる。
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「お二人とも、本当に良い影響を与え合っていますわね」
「そうかな?」
ミリアが首を傾げる。
「ええ」
エレノアは穏やかに頷いた。
「競い合うだけではなく、お互いの失敗から学べるのですもの」
ロナルドも頷く。
「確かに、その通りだな」
四人はそのまま教室へ向かって歩き始めた。
◇◇◇
その頃。
二人の知らないところで、少しずつ未来に関わる話が動き始めていた。
タルトミア王城──王太子レオナードの執務室。
先日届いたダーガトーク王家からの書状について、話し合いが続いていた。
「ロナルド殿下の婚約者候補として、テルファメート嬢を推薦したい……ですか」
エレノアの父であるレイシアネート公爵が、静かに書状へ目を落とす。
「ああ」
レオナードは頷いた。
「ジーク殿下からの正式な申し入れだ」
「なるほど……」
公爵はしばらく考え込む。
「ダーガトークとしても、王族同士の繋がりを強めたいのでしょうな」
「おそらくな」
レオナードは椅子へ背を預けた。
「だが、ミリア嬢はまだ二年生になったばかりだ」
「ええ」
「それに、ロナルド本人がどう考えているのかも分からない」
公爵は少しだけ笑う。
「ですが、殿下はご存じなのでは?」
「何を?」
「お二人の関係です」
レオナードは一瞬黙った。
「……学院からの報告では、二人は仲の良い友人だと聞いている」
「それだけでしょうか?」
「……」
レオナードは答えず、窓の外へ目を向けた。
昨年一年間。
ミリアとロナルド。
二人は学院で多くの時間を共に過ごしてきた。
冬にはダーガトーク王国を訪れ、ロナルドの誕生日を祝ったという話も聞いている。
そして――。
「本人たちが自然に築いている関係を、大人の都合で急かすべきではない」
レオナードは静かに言った。
「その点については、私も同意いたします」
公爵は頷いた。
「ですが、王族の婚約となれば、本人たちだけの問題ではありません」
「分かっている」
「ならば――」
公爵は少し考えてから続けた。
「ミリア嬢だけでなく、エレノアのことも考えておく必要があるでしょう」
レオナードが振り向く。
「エレノア?」
「はい」
公爵は穏やかに微笑んだ。
「殿下とエレノアは、幼い頃から交流がございます」
「……そうだな」
「周囲から見れば、エレノアを殿下の婚約者候補として考えるのも自然なことでしょう」
レオナードは少し困ったように眉を寄せた。
「だが、俺はまだ――」
言葉が止まる。
公爵は急かすことなく、静かに待った。
「……エレノアとは、良い友人だ」
「それ以上は?」
「今は、まだ分からない」
その答えに、公爵は小さく頷いた。
「それでよろしいと思います」
「……」
「無理に答えを出す必要はございません」
レオナードはほっとしたように息を吐いた。
「ありがとう」
「ただし」
公爵が穏やかに付け加える。
「いずれは、ご自身の気持ちと向き合う時が来るでしょう」
「分かっている」
レオナードは静かに頷いた。
王太子として。
一人の少年として。
自分の未来を決めるには、まだ時間が必要だった。
その日の夕刻。
王立学院の授業を終え、ミリアも屋敷へ戻る馬車に揺られていた。
「今日も、うまくいかなかったなぁ」
『でも、昨日より長くできたよ!』
「……そうだった!」
ミリアはぱっと顔を上げた。
「昨日は数秒だったけど、今日はもう少し長く維持できたんだ!」
『ね!』
ライトが嬉しそうに頷く。
「少しずつだけど、ちゃんと進んでるんだ」
ミリアは胸元のブローチへそっと触れた。
「焦らず、少しずつ……だね」
『うん!』
春の陽射しが、窓から差し込んでいた。
その頃――。
ミリアの知らないところでは、彼女の未来に関わる話が、静かに動き始めていた。




