3話『硝子の境界』
そこは──鏡の裏側のような世界だった。
どこまでも、果てなく白い。
空も、大地も、空気さえも、狂気めいた白に塗り潰され、影ひとつ存在しない。
音はなく、風もなく、時間の流れさえ、そこにはなかった。
ただ一つ──白と静寂に支配されたその世界の中心に、硝子で造られた檻があった。
その中にひとりの女が座っていた。
顔を上げ、どこか遠く──いや、何もない空を見つめて。
──綺麗だ。
無意識に、セツの唇から恍惚の吐息が漏れた。
真っ白な、処女雪の降り積もる雪原のように白い印象の女性だった。
背中まで届くほどの長い髪は、まるで凍てつく空気に溶け込むかのような儚い純白。
宝石の如く澄んだその瞳には、月光を閉じ込めたような金色の光が宿っていた。
まるで、神話の一頁から抜け出したかのような──息をのむほど神秘的で、完璧な美。ゾッとするほどの美しさとは、まさにこのことだ。
芸術品を前にしたときのように、セツはただただその姿に酔い痴れる──いわば、一つの感性の純然たる感動に近い。
それなのに……なぜだろう。
そんな彼女を見ているうちに、なぜだか、胸が苦しくなる。
彼女の美しさは見る者を惹きつけると同時に、心の奥底に言葉にならない寂しさを残すのだ。
よく見ると──彼女は、泣いていた。
表情は微動だにせず、ただ静かに、涙が頬を伝う。
こぼれた雫が、水面に落ちるように弾ける。
白銀の髪に混ざって揺れた透明の雫は、ふわりと宙に浮かび、蝶の形をとったかと思うと──そのまま、静かに、舞って消えていった。
また、ひとつ。
また、ひとつ。
涙の蝶が、生まれては、消える。
そのたびに、セツの胸の奥がひどく締めつけられた。
「……」
セツは──ただ、その女を見ていた。
硝子越しの距離。けれど、それ以上に遠い隔たりがあった。
近づけなかった。
いや──違う。怖かったんだ。
近づいて、彼女が壊れてしまうのが。
けれど、彼女をひとりぼっちにさせることもできず、セツは中途半端な距離で、ただ立ち尽くしていた。
彼女は、ずっと白い空を見上げている。
そこには、何もない。
空も、光も、風もない。
あるのは、ただの“白”だけなのに。
それでも、彼女は目を逸らさず、誰かを待っているように、静かに、静かに、泣き続けていた。
「………………」
自分は、彼女のことを知らないはずなのに。
初めて見るはずなのに、魂の奥底が疼く。
胸が苦しい。
どうしてか無性に泣き出したくなるような気持ちになる。ただ見ているだけで、涙がこぼれそうになるのだ。
何か、大切なものを思い出せそうで、けれど、それはまだ、名前を持たない。
この白の世界で。
彼女は、泣き続けている。
誰にも届かない、静止した空間の中で。
硝子の檻に閉ざされ、凍えていくだけの存在。
──それが、どうしようもなく、悲しかった。
( ああ、どうか。泣かないでくれ )
そう願いながらも、セツはこの場から動けずいる。
──やがて、世界が揺らいだ。
白一色の景色が、音もなく崩れていく。
蝶のような涙が宙に散り、その残像さえも、淡い光の粒になって溶けた。
視界が暗転し──次の瞬間、
“行かないで“
──訪れた終焉の静寂を溶かすかのように、か細い女の声が聞こえた気がした。
それがあの美しい女のものだったのか、セツにはわからなかった。




