1話『始まりの初め』
変えて欲しい運命があるの
貴方に救われた彼と
貴方が出会う多くの人と
──この星の運命を……
「──────」
意識が戻った瞬間を知覚できない。
自分が目を覚ましていることにも気づけなかった。
ただ、浅く呼吸をして、虚ろな視線で見覚えのある天井を彷徨わせていただけだった。
やがて、ようやく思い至る。
──ああ、生きている。
その事実を理解した瞬間、セツは勢いよく上体を起こした。
「──ッ! ……ッ!!」
恐怖と激情の余韻が胸を締めつけ、同時に喉まで競り上げてきた悲鳴と吐き気を必死に噛み殺す。
全身は冷や汗に濡れ、呼吸は荒く、胸が詰まる。
ゆっくりと自分の姿を目を落とせば、血と煤にまみれていたはずの服は、白く簡素なものに替わっていた。手足にあったすり傷も──すべて跡形もなく消えている。
(……オレは、一体……?)
頭が、混乱している。
なにがなんだかわからない。
痛みはどこへ消えた。どうして意識は判然としない。あれほど全身を侵していた傷口はどこだ。
──今、自分が置かれた状況が飲み込めない。
「ここは……?」
湿ったシーツの感触。
窓から射し込む朝の光。
遠くで響く教会の鐘の音。
それらの現実感だけが、かろうじてセツを「今」へと引き戻していた。
──コンコン。
しばらくぼんやりと、抜け殻のようにベッドに座り込んでいると、控えめなノックの音が静寂を破った。
「セツ。起きているかしら?」
聞き慣れた声が耳朶を打った瞬間、ギィ──と扉が音を立てて開かれる。
「そろそろ朝のお祈りの時間よ」
静々と戸を押し開き、入室してくるのは黒の修道服を纏った背の高い女性だった。
「あら……どうしたのですか?顔色がとても悪いわ」
「…………あ、マザー」
見慣れたその人物に、セツはようやく悪夢の呪縛から解放された。
──あぁ、まただ。
彼は肩を落とし、重いため息をついた。
またもや自分は危うく「夢と現実の境が分からなくなるところ」だったのだ。
(ここ最近、こんなのばっかだ)
今日もまた、セツは同じ悪夢に苛まれていた。
──身に覚えのない記憶の光景を。
◆◆◆
ここは、貧民街の郊外にひっそりと建つ古びた教会に併設された孤児院──〈祈りの家〉。
木製の長机が並ぶ食堂には、祈るように手を組んだ聖母像が静かに佇み、窓から差し込む朝の光を背に、神々しく輪郭を浮かび上がらせていた。
その片隅にある椅子で、セツは項垂れたまま座っていた。
「さあ、ジャスミンティーよ。目覚めの一杯にはぴったりでしょう?」
「……サンキュー、マザー」
木のテーブルの上には、小さな湯気をたてる小さなカップ。それを差し出してくれたのは、この孤児院の院長──マザー・シプトン。
腰まで届く灰銀の髪を一束に結い上げ、裾に深いスリットが入った黒の修道服を纏うその姿は、凛とした気品と温かな包容力を併せ持っていた。
とくに印象的なのは、その藤色の「瞳」だった。
常に穏やかさを宿すその眼差しは、いつも何かを見透かしているようで、静謐な泉のように美しかった。
たった一人で孤児たちの面倒を見てくれる彼女のことを、子どもたちは親愛を込めて“ママ”と呼んでいる。
この〈祈りの家〉の子どもたちにとって、彼女は唯一無二の“母”であり、それはセツにとっても同じだった。
セツもまた、物心ついたとき、母も父もいなかった。
数年前、全身血に染まり傷だらけで教会の前に倒れていた幼子──それがセツだ。
幼児の状態で発見されたセツが纏う衣服は、明らかに前時代的で、サイズオーバーだった。
記憶はすべて失われており、覚えていたのは自分の名前だけ。
なぜ、自分は記憶を失い、教会の前で倒れていたのか──その理由に関して当時は何一つわかっていなかった。
ここ〈祈りの家〉──通称「ヘイルシャム」は、貴族や裕福な商人の寄付だけで成り立っている小さな孤児院だったが、そんな素性の知れないセツを、それでもシプトンは快く引き取り、他の孤児と分け隔てなく育ててくれた。
毎日きちんと三食を食べさせてくれて、社会に出て困らないようにと読み書き計算まで教えてくれた。
セツはそんな献身的なシプトンには多大な恩を感じている。本当に、感謝してもしきれない。
そうして、セツはヘイルシャムで育ち、気づけば「青年」という域に片足を踏み込んだ年齢になっていた。
「それで、その様子を見るに、今日もまた悪い夢を見たのかしら?」
椅子を引き、シプトンがセツの正面に腰を下ろす。灰銀色の長い髪を揺らし、楚々とした振舞いがよく体に馴染んでいる。
「そうだよ。この頃ずっとだ。胸くそわりーぜ」
吐き捨てるように答え、カップを口に運ぶ。シプトンは静かに頷き、自分のカップの縁を指でなぞった。
「……どんな夢なのか、聞いてもいいかしら?」
「……燃えた家。あと、血まみれの死体……それと最後にオレ、ずっとバカみてぇに誰かの名前を呼んでた気がする」
「名前? 誰の?」
「……わかんねぇ。ただ……その名前だけが、思い出せない。呼びたくても、口にできない感じなんだ」
そんな頼りないセツの答えを聞き、シプトンは口元に手を添え、思案に沈む。
セツは唇を噛み、テーブルの下で拳を握った。
──最近のセツは、毎晩のように夢を視る。
それは決まって、知らないはずの遠い昔の時代──その夢の中で自分は、今とは違う『セツ』として生きていた。
今の孤児としての生活とは正反対の、大家族がいた。
家族に囲まれた穏やかな日々。それが、道化師のような殺戮者の出現で一夜にして崩れ去る。
逃げ惑い、叫び、抗い、それでも何も守れず──結局はすべてを失う。
そして、最後は『セツ』自身も闇の渦に呑まれ、消えてゆく。
何もかもが夢のはずなのに、あまりに生々しい。
焼け爛れた肌の熱。焦げた匂い。流れた涙の温度。心を引き裂く喪失の感覚──あまりに鮮明で、夢だとは到底思えなかった。
まるでそれが「実際にあった過去」であるかのように、魂が激しく疼いた。
「……毎日あんな縁起の悪い夢を見せられて、ほんと訳わかんねー」
「確かに、内容だけ聞けば良い夢ではないわね。──でも、ただの夢ではないのかもしてない」
「どういう意味だよ…?」
思いがけない言葉に、セツは顔を上げる。それに応じてシプトンは彼に向き直る。
雰囲気が変わったことを察したのだろう。セツもまた、その憂い顔に緊張を浮かべると、椅子に座る己の居住まいを正し、彼女を真正面から見た。
「もしかすると、セツ。あなたを毎晩苦しませるその夢は……あなたが失くした記憶かもしれないわ」
「……失くした記憶?」
「ええ。記憶喪失になる前の、あなたの“人生”。それが、夢という形で表れているのかもしれないわね」
シプトンがそっと言葉を継ぐ。淡々とそう語る声音には、事実として確信に近い響きがあった。
湯気の立つカップを傾けながら、セツもシプトンの言葉にも耳を傾ける。
「かつて誰かを愛し、誰かを失った。その痛みも、慈しみも。一度忘れ去られるはずだった過去の記憶。それが、何かの導きによって再び蘇る……私はね、それにはきっと意味があると思うの。──神の思し召し、とも言えるかしら」
「……マザー。知ってると思うけど、オレ、神さまとか信じねぇし」
「神」という単語が聞こえた途端にセツは嫌悪感を隠さず顔を顰める。しかし、シプトンはくすりと笑った。
「いいのよ。信じるかどうかは、セツ自身が決めること。でもね──」
シプトンの瞳が、ふと真剣な色を帯びる。
「忘れてしまった“何か”が、今もどこかで、あなたを待っている。だからこそ、その夢はあなたを手放さないのかもしれないわ」
セツは息を詰めて、しばらく黙っていた。やがてぽつりと、言葉を落とす。
「じゃあ……オレが失った記憶を思い出し始めてるってのも、“意味”があるってことかよ」
「そうね……その答えも、夢の続きが教えてくれるのかもしれないわ」
シプトンの言葉は、いつものように静かで優しかった。
「へぇ──それも、マザーの“予言”ってやつ?」
椅子にもたれ尋ねるセツは、茶化すような口調ではあったが、その幼い目には微かに探るような色が灯っていた。
マザー・シプトンは──未来を視る“預言者”として、街の一部では密かに噂されている存在だ。
本人はいつもその噂を笑って否定しているが、セツは常日頃から彼女の言葉がどこか先を見据えているように感じた。
「ふふ。さあ?どうかしらね」
シプトンは微笑のまま、答えなかった。
赤とも紫ともつかない、ロゼワインに似た色の瞳を細めて、そっとセツの頬を撫でた。
白い繊手は柔らかく、その眼差しは慈愛に満ちていた。
「でも、セツ──“信じる者は救われる”のよ?」
五十代には到底思えないその類い稀な美貌に見つめられるのが照れくさくて、セツは素っ気なく目を逸らす。
(オレの、失くした記憶……か)
改めて目を閉じ、夢の内容を思い返す。
家族を殺され、誰も助けられなかったセツ自身もまた復讐を遂げることすら果たせないまま終焉を迎えた。
その結末は、あまりにも無様で、救いはなかった。
もし、あれが本当に自分の過去だったのだとしたら──セツは、“この時代の人間”ではないということになる。
あの渦を通じて、時空を超え、セツはこの世界の“未来”に飛ばされてきたのだ。
──この、数千年後という「現代」へ。
なぜ肉体まで幼児状態へ退化したのかは定かではないが、セツはおそらく異空間の力に巻き込まれた反作用なのではないかと推測する。
ともあれ──この奇妙な因果に、どういう理由があるのかは未だに理解できない。
それでも、このおそらく『真実』であろう事実を誰にも話すつもりはなかった。一番信頼しているマザーにさえも。
人類の始祖のアダムの息子が時を超えてこの現代にやってきたなど──そんな荒唐無稽な話、一体誰が信じるというのか。
セツ自身でさえ、いまだに信じられない思いを払拭できていないというのに。
(ま、いくら考えても仕方ねーけどな)
気を取り直し、ジャスミン茶を口に運ぶ。
ほのかな花の匂いが鼻腔を擽るのに、口では相変わらず葉っぱの独特な味しかしない。
だけど、こうして何度も何度も喉に通していれば、不思議とドン底に沈んでいたはずの気持ちも少しだけ晴れた気がした。




