#085「大あつあつ」【奈々】
※前半は、マラソン大会のあとに坂口と寿のあいだで交わされた会話です。
#085「大あつあつ」【奈々】
「お婆ちゃんがね。この前、ホノルルからの電話でね。十倍以上も歳の違うお婆ちゃんでも、フルマラソンを完走できたって言ってたからね。だから、僕も頑張るって言ったんだ」
「そう。それで、最後まで走れたんだね、寿くん」
二列縦隊の最後尾で、坂口と寿は手を繋いで歩いている。頬を高潮させながら、寿が坂口に息を切らしつつ話しかけ、坂口はそれに相槌を打っている。
「えっと、それとね。みんなが応援してる声が聞こえたからね。諦めちゃ駄目だって思ったんだ」
「そうか。偉いね、寿くん」
「えへっ。褒められると、恥ずかしいよ」
寿は坂口から視線を外した。
「できっこないをスタートにするかゴールにしてしまうかで、その後の伸びが大きく違うからね。出来ないからやらないと諦めるのではなく、出来ないけどやってみようと思う気持ちを大切にしようね」
「はい、先生」
寿は坂口のほうを向き直り、大きく頷いた。
*
「夜更かしは美容の大敵だよ、フェニックスなな先生。――はい、ココア」
ナイトガウン姿のまま机で鉛筆を走らせている奈々に、観音院はマグカップを手渡した。
「あら、安彦さんこそ、こんな時間まで起きてお台所に立ってたんでしょう。――ありがとう」
奈々はマグカップを受け取ると中の茶色い液体を一口含み、机の左端に置いた。
「お互いさまかな。でも、身体を冷やすと、明日のパーティーを欠席しなきゃいけなくなるから、程々にしてよ」
「ご心配なく。ネームだけは描いたら寝ますよ。今日の安奈の話を聞いて、次の話のアイデアが浮かんだものですから」
安奈の話というより、安奈のお友だちの話なんだけど。嬉々としてマラソンでの勇姿を臨場感たっぷりに語るものだから、エピソードを脚色して作品にしたくなっちゃったのよね。あぁ、そうだ。ゴールすることで頭いっぱいで歓声は耳に届いてなくて、何て応援してたのか聞き返すことにしよう。
「ご随意に。あっ、そうそう。年末のときとは別に、今度は雑誌社からインタビューの打診があったけど、顔写真を撮りたいって希望があったから断ったよ」
「いつも悪いわね、安彦さん。文字や音声までは良いんだけど、映像が不特定多数の目に触れるのは、なるべく避けたいのよ。別に、ミステリアスさを売りにしてる訳じゃないんですけどね」
「わかってるよ、奈々。――十秒だけ、手を止めてくれるかな」
「はい、どうぞ」
奈々が鉛筆を原稿用紙の上に置いて振り向くと同時に、観音院は頬に軽く口づけをした。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
観音院がベッドルームへ向かったのを見送ると、奈々は再び鉛筆を手に取ってネームの続きを書き始めた。
そろそろアシスタントを雇いたいけど、サロンでのことを考えると公然と募集する訳にはいかないし、かと言って赤城や青葉に頼むのも違う気がするし、何か良い方法は無いかしらね。




