#081「シー調」【松子】
#081「シー調」【松子】
打算、妥協、堕落。三つのダが揃うと、不幸に繋がる。怠け者は二度働くというが、手を抜いていい加減なことをすれば、あとあとで手痛い竹箆返しに遭う。
「誰がこんな不細工な文書を作ったんだろうと思って文責者の欄を見たとき、そこに自分の名前があったら、過去の自分に対して思わず首を捻りたくならないか、鶴岡」
「口じゃなくて手を動かしましょうね、渋木くん」
それぞれ自分の机に向かい、猛烈な勢いでキーを叩き続ける松子と、休み休みキーを打つ渋木。
「ホントに、何でこんなに仕事が溜まってるんだろうな。年末に急いで片付けたはずなのに。オートチャージされるのは定期券だけで充分だっつーの」
「渋木くん。さっきの私の話、聞こえてましたか」
「話くらい良いだろう。鹿爪らしい顔して黙っていられるかよ。あー、腱鞘炎になりそうだ。キーボードは、右手を重労働から解放するツールだったんじゃないのか」
返事をするから駄目なのかしら。しばらく無視しておこう。
書類の束を捲って残りの仕事量を目算し、その多さに溜息を漏らす松子。
「溜息を吐くと、幸運が逃げるぞ。せっかく遅まきながらに春が来てるんだから、逃すなよ」
余計なお世話よ。あぁ、肩が重くなってきた。
松子はキーボードを叩く手を一旦止めると、手を添えながら軽く肩を回した。
「何だ、鶴岡も疲れてるんじゃないか。ちょっと早めに切り上げて、昼飯にしようぜ。もう、午前分の労働力は消費し尽くしたって」
画面の右下にある時計を見る松子。
十二時二十七分か。休憩まで、あと二十分弱ね。
「帰りのサービス残業を考えたら、これくらい見逃してもらえるさ。店が混む前に行こうぜ、鶴岡。口止め料に、奢ってやるからさ」
やけにしつこいわね。仕方ない。早めに戻ってくることにして、休憩にしてしまおう。
最後にパシッとエンターキーを押すと、松子は透明なビニールの手提げを持って立ち上がった。
「おっ、乗り気になったか。そうこなくっちゃな」
*
時刻は、午後五時半ちょっと前。渋木くんは外回りに出ていて、そのまままだ帰ってきていないので、オフィスに居るのは私と課長と秋子ちゃんの三人だけ。
「それで、渋木くんの心変わりの原因は何だったのかね」
「おそらく、年末に知り合ったあの女性教員と交際を始めたことが、それだと思います」
心変わりとは大袈裟な。下ネタに反応しなくなった理由を究明してくれって話じゃないの。噂が本当か検証するために、イタリアの高級靴メーカーとか高級車メーカーとかを会話に織り交ぜるのは、地味に結構な苦心をしたんだからね。おまけに渋木くんったら、休憩時間ギリギリまで惚気話をしてたんだから。嫌になっちゃう。
「えっ。渋木課長代理、伊東さんとお付き合いしてるんですか」
松子の隣で表計算ソフトに数字を入力していた秋子が顔を上げ、松子のほうを振り向く。
驚きよね。いつの間にか居なくなってたと思ったら、そのまま親睦を深めちゃってさ。軽率の誹りを受けて、サンマリノへ飛ばされても知らないんだから。
「そうか。まっ、小学校の先生なら良識ある大人だろうから、安心だな。それじゃあ僕は、定時だから上がるよ。今年も、せっせと林檎を磨かないとな」
そう言い残し、徳田は足取りも軽く立ち去った。
その根拠のない自信と楽天さは、どこから来るのやら。
「お疲れさまです」
徳田の後ろ姿に向け、丁寧に頭を下げる秋子と、軽く会釈だけで済ませる松子。
ついでに、本店の専務ともどもメンタルテストを受けて来い。クリニックは、同じ建物にある。




