#036「鶏口牛後」【松子】
#036「鶏口牛後」【松子】
鶏口となるも牛後となるなかれ、とは言うけれど
「お母さん。ひょっとして、坂口さんに私のメールアドレスを教えたの」
リビングで紅茶を飲みながら寛いでいる万里に対して、松子は詰問口調で質している。
「そうよ。知られて困ることでもあるの」
あっけらかんと言い放つ万里に、松子は片手で目頭を覆い、軽く頭を左右に振る。
この女の辞書に、個人情報保護法という文字は掲載されていないのか。とんだ落丁本だ。
「せめて、教えて良いか聞いてよ」
「あら。だって松子、そのときは修善寺に居たじゃない。癒しの入浴タイムを邪魔するのは忍びないわ」
どこに遠慮してるのよ。他人の気も知らないで。まぁ、いいわ。現在の窮状を訴える方向に持って行きましょう。
「おはようからおやすみまで、毎日飽きもせず大量のメールが届いて、正直うんざりしてるんだけど」
腰に手を当てて堂々と言い切る松子に、万里はテーブルに置いたティーカップに向かって溜息をついた。一瞬、液面が細波立ち、二人の影が消える。
「あのね、松子。本来なら、松子のほうがモーション掛けなきゃいけない立場なのよ。分かってる」
先に惚れたのは向こうなのに、何で私のほうから働きかけなきゃいけないのよ。
松子は万里の説教を聞き流し、さらに続ける。
「ちゃんと仕事してるのかしら、坂口さん」
「そこそこ。ママのありがたいお言葉を聞き流さない」
「五時台のジョギングから始まって二十一時台の筋トレで終わるんだけど、寿くんより早寝早起きだと思わない」
松子は同意を求めたが、万里は呆れた様子で論点をずらす。
「坂口さんは、ニワトリさんなのね。そういえば、髪型も鶏冠っぽいところがあるわ」
「いやいや。あれは単純にソフトなスポーツ刈りでしょう。立たせてるわけじゃないわ」
「何だ。細かいところまで観察するようになってるんじゃない。興味が湧いている証拠だわ。無関心な素振りをしちゃって、もぅ、照れ屋さんね」
いったい脳内で、どれだけ酷い連想ゲームが繰り広げられたんだか。バナナといったら俳句、くらいの飛躍度だわ。どうして、いつも議論が平行線になってしまうんだろう。
「もう、いい。お母さんに聞いたのが間違いだった」
踵を返して二階へ行こうとする松子。万里は椅子から立ち上がり、あとを追いかける。
「待ちなさい。何を怒ってるのよ、松子。本当、昔から自分の意見が通らないと拗ねて逃げるんだから。自己完結するんじゃないの」
「ついて来ないで」
階段を上りながら、刺々しい物言いをする松子。万里は段に乗せかけた足をそっと戻し、しばらく松子の後ろ姿を見たあと、再びリビングに戻っていく。
「好きにしなさいよ、まったく」




