プロローグ
夕暮れは、昔から嫌いだった。
昼でもなく、夜でもない。
光と闇の境界。
何かが変わってしまいそうな、不安な時間だからだ。
六月下旬。
蒸し暑い風が街を吹き抜けていた。
神崎悠真は、会社からの帰り道を一人で歩いていた。
不動産会社に勤めて三年。
二十五歳。
特別な才能もなければ、大きな夢もない。
それでも毎日働いて、休日には友人と遊び、たまに実家へ顔を出す。
どこにでもいる普通の青年だった。
少なくとも本人はそう思っていた。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
今日は事故物件の調査依頼で一日中振り回された。
住人から、
「夜中に足音が聞こえる」
だの、
「誰もいない部屋から声がする」
だの。
不動産業界にいればよくある話だ。
大抵は気のせい。
建物の老朽化。
あるいは近隣住民の生活音。
幽霊なんているわけがない。
そう思っていた。
駅前の交差点に差し掛かった時だった。
人だかりができていた。
パトカー。
救急車。
規制線。
ざわつく野次馬たち。
事故だ。
それもかなり大きな事故らしい。
悠真は足を止めた。
野次馬になるつもりはなかった。
だが、なぜか胸の奥がざわついた。
言葉にできない違和感。
嫌な予感。
その時だった。
「変ね。」
女性の声が聞こえた。
悠真は振り返る。
そこには一人の女性が立っていた。
黒髪。
整いすぎた顔立ち。
夕陽を浴びるその姿は、現実離れして見えた。
芸能人と言われても納得するだろう。
いや、それ以上かもしれない。
だが不思議だった。
美しいはずなのに。
なぜか近寄り難い。
女性は事故現場を見つめたまま言う。
「見えないの?」
「え?」
「あなた。」
悠真は周囲を見回した。
誰か別の人に話しかけているのかと思った。
しかし女性の視線は間違いなく自分へ向いている。
「何がですか?」
「そこにいる子。」
女性が指差した先。
事故現場。
だが見えるのは救急隊員と警察官だけ。
それ以外は何もない。
「誰もいませんけど。」
女性は眉をひそめた。
「本当に?」
「本当に。」
数秒の沈黙。
女性はじっと悠真を見つめた。
その瞳に映るのは驚き。
困惑。
そして警戒。
「ありえない。」
小さく呟く。
「何がです?」
「……いえ。」
女性は視線を逸らした。
「あなた、おかしいわ。」
「初対面で失礼じゃないですか?」
「そういう意味じゃない。」
女性は再び悠真を見た。
まるで何かを探るように。
「どうして何も見えていないの……?」
悠真には意味が分からなかった。
その時。
事故現場の方から風が吹いた。
妙に冷たい風だった。
夏なのに。
女性の長い黒髪が揺れる。
「まぁいいわ。」
そう言うと女性は踵を返した。
「あの!」
悠真は思わず呼び止める。
女性は立ち止まった。
「あなた、誰なんですか?」
少しの沈黙。
やがて女性は振り返る。
その瞬間。
夕陽を背負った姿が、不思議なくらい綺麗に見えた。
「東雲夜月。」
「え?」
「私の名前。」
それだけ言う。
「神崎悠真です。」
「そう。」
夜月は小さく頷いた。
そして。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ表情を和らげた。
「また会うわ。」
「え?」
「近いうちに。」
そう言い残して歩き出す。
悠真はその背中を見送ることしかできなかった。
なぜだろう。
初対面のはずなのに。
あの人とは、また会う気がした。
それが。
神崎悠真と東雲夜月の出会いだった。
この時の悠真はまだ知らない。
自分がこれから数え切れないほどの怪異に関わること。
夜月と共に、多くの魂を救うことになることも。
知らない。
本当に知らなかった。
自分自身こそが。
誰よりも深く、この物語の中心にいる存在だということを。
そして――
物語の最後に。
最も恐るべき真実へ辿り着くことになるということを。




