第2章 現実 6-10
6
それから間もなく、ニグィとワナは、正式に夫婦の契りを結び……トゥジの縁者になった。
里の有力者の家の婚儀なのだから、通常は山ほどのご馳走と酒を用意し、里の衆にも振る舞って、盛大な祝いをとりおこなうのだが、ニグィは、残念ながらそれだけのものを用意することができず、ワナが手ずから織り上げ、縫い上げたという鮮やかな薄衣を身にまとい、祖先が坐す神域である「神籬」の前で契りの言葉を交わすのみにとどまった。
自分の力が至らぬせいで、名家の娘であるワナに、肩身の狭い思いをさせたのではないかと、ニグィは、申し訳ない思いで一杯だった。が、当の彼女は、そのような簡素な儀のみであったにもかかわらず、喜びと幸福ではち切れそうな顔をしてくれていたし、彼女の母親であるトゥジも、娘のこれほどまでに幸福そうな様子は見たことがない、と涙を流し、手放しで喜んでくれて……ニグィは、救われる思いだった。
そして、これからは、里のために尽くすのは当然として、まずは家族を大事にせねばならぬ、ワナに恥をかかせることなどないようにしなければならぬ、と心に決めたのである。
その年の冬、「再開の日々」の折、妻をめとったことを報告すると、ヤズは、にやりと笑った。
「ようやくだな、遅すぎたぐらいだ」
ニグィの額に新たに彫られた、青々とした入れ墨――夫婦の契りを交わした証だ――を、ゆっくり親指でこすり、次いで、掌でニグィの肩をぽんぽんと叩く。
親しみのこもったその仕草に、友の心からの祝福を感じて、ニグィは、胸が熱くなった。
(……そうだ。ヤズならば、きっと……)
ふと思いついて、ニグィは、
「それで……といってはなんだが、君に、一つ頼みたいことがあるのだ」
「なんだ」
「……その。南方の貝で作った腕輪で、いいのがあれば譲ってもらいたいのだ。妻への土産にしたくてな」
意識していないつもりなのだが、どうも妙にこわばった、困惑しているような表情になってしまう。そんなニグィの肩を、ヤズは再び、ぽんぽんと叩いた。
「任せろ。ちょうど、今回運んできた荷の中に、いい腕輪がある。名人が作ったという、素晴らしい品でな。シビ三尾と交換で、ようやく手に入れた。それを、お前にやろう」
「いや、そこまでいい品でなくともいいんだ。ちょっとしたもので……」
「なにを言う。女への贈り物は、手に入れられるうちで一番いいものにしなければ」
「いや、そんなによい品を手に入れられるだけの持ち合わせが、私にはないし」
と、これを聞いたヤズが、真顔になった。
「ニグィよ。俺とお前は、友ではないのか?」
「もちろん、友だ。しかし、それとこれとは……」
「お前とは、俺がマダカほどの年の頃から、ほとんど毎年、ずっとここで過ごしてきた。お前は、なにも知らない俺にいろいろなことを教え、なにかと面倒を見てくれた」
「君こそ、私の知らぬ、様々なことを……」
「俺が教えたことなど、お前が教えてくれたことに比べれば、ごくわずかだ。それにお前は、俺が子をなしたと知ったときには、心づくしの祝いの品をくれた上、マダカにはおもちゃまで与えてくれた。俺がモノヒクとなると知ったときにも、心からの祝いの述べ、素晴らしい品をくれた」
「それは、まあ……」
「俺は、ずっと待っていたのだ。いつか時がきたら、お前に世話になった分、お前が祝ってくれた分、全部まとめて祝ってやろうとな。そして、今ようやくその時が来たのだ。おれは、大いなる喜びを持って、俺のできること全てでもって、お前を――俺の一番の友を、祝ってやりたい。それが、俺の心からの願いだ。お前は、俺にその願いをかなえさせてはくれぬのか?俺は……お前の本当の友ではなかったのか?」
「…………」
無口な友が、真剣な様子で訥々と語る言葉に、ニグィは心打たれていた。
彼がヤズに渡した祝いの品など、どれもたいしたものではない。それを知っているだろうに、この誠実な友は、それら全てに感謝してくれており……立場が逆転した今、全身全霊で祝福の念を伝えようとしてくれているのである。
ニグィは、涙をこらえるためにぐっと目をつぶると、友の両手を、ぎゅっと握りしめた。
「ヤズ、すまない。君の気持ちも考えず、愚かなことを言ってしまった。どうか許してくれ。私は君を、一番の友だと思っている。その君が、心から祝ってくれるのならば、これほど嬉しいことはない。祝いの品、喜んで受け取らせてもらう。ヤズ、本当にありがとう!」
ヤズはにっこりと笑い――昔から変わらぬ、あの開けっぴろげな笑顔だ――ニグィの両手を強く握り返すと、大きく上下に振った。
「お前が喜んでくれて、俺も嬉しい。」
そして、柔らかく手を離すと、ニグィの肩を抱き、ぎゅっと抱きしめる。
「次は、子供だな。早く子供を作るといい」
ヤズのその、妙に先輩じみた物言いに苦笑しながらも、ニグィはうなずいた。
「そうだな。私も、早く子供がほしいと思っている。男の子ができたら、ここに連れてきて、ヤズにも会わせたいしな」
「うむ。きっと、マダカとよい友達になる」
ヤズはそう言うと、自分のすぐ脇にしゃがみ、手にした木の枝で無心に地面をひっかいている息子を、愛おしげに眺めたのだった。
その年、首尾よく交易を終え、交易品を満載した舟を操り、里の船着き場へと帰り着いたニグィを真っ先に迎えたのは、ワナだった。
普通、ニグィの帰還をはじめに見つけるのは、親から雑用を言いつかった子供たちだ。里の船着き場へ水をくみにきたり、野菜を洗いにきたりした時、たまたま下流に浮かぶ白帆を見つけるのである。
見つけたその子は、飛んで帰って里人の誰彼に報告し、そこからぞろぞろと里人たちが船着き場に詰めかけ、ニグィが舟を桟橋に舫う頃には、多くの人々が、珍しい品々と、楽しい土産話とを目当てに、彼を出迎えるのである。
ところが、この年ニグィの帰還を出迎えたのは、ワナただ一人だった。それも、里の桟橋が見えるか見えないかという頃から、そこに一人立ち、小柄な体で精一杯背伸びをし、大きく手を振って、ゆっくりと近づいていく舟を、出迎えてくれたのである。
舟を舫うのもそこそこに桟橋へ下りたつと、普段の衣の上に薄衣をまとうという改まった格好で待っていたワナが、
「お帰りなさいませ、ご無事でなによりです」
と、深々と頭を下げる。その神妙な様子に、ニグィも慌てて、
「今帰りました。わざわざ出迎えてくれて、ありがとう」
中途半端に頭を下げる。と、その下げた頭を戻す間もなく、ワナが、両腕を広げ、思い切り抱きついてきた。
いきなりの行動に驚いたが、目をつぶり、片頬をニグィの胸にぴったりと着けたまま、この上なく嬉しそうな笑みを浮かべるワナの様子に、愛おしさがこみ上げてくる。
ニグィは、抱きしめられた上からそっと腕を回し、ワナの首を抱えるようにして、そっとその頭をなでた。
「慣れた旅路ゆえ、心配するには及ばぬ、と言ったのに」
優しく、諭すように、そう声をかけたが、ワナは、黙って首を左右に振る。聞けば、ニグィがそろそろ里に帰ってくる頃合いだろうというので、ここ数日、暇さえあれば船着き場へと出向き、目をこらして、懐かしい姿が下流にぽつんと現れないか、じっと見つめていた、という。
「心配しなくてもよいとは言われましたが、里の外に出ればなにが起こるか分かりませんし、もしも何かあったらどうしようと思うといてもたってもいられず……ここに来ないではいられなかったのです」
抱きしめていた腕をほどき、胸から顔を離したものの、いまだ両の袖口をつかんだまま、恥ずかしそうに話すワナの頭を、ニグィは、再びそっとなでた。
「そうであったか。気をもませてしまったようで、済まなかった。でも、ほれ、この通り、無事で帰ってきた。申し訳ないが、そろそろ離してくれないか。積みっぱなしの荷を下ろさなければならぬからね」
ニグィは、優しく腕を引き、妻の手から袖を離そうとした。が、ワナはにっこり笑うと、かえってぎゅっと袖口を握りしめ、そのまま、後じさりするようにして、夫を村の方へと誘っていく。
「荷のことは、気にせずとも大丈夫です。里の者たちに、後から持ってきてもらうよう、頼んでおりますので」
「いや、しかし、それでは」
「いいのですよ。皆、あなたから様々な品を分けてもらう気でいるのです。ならば、それくらいのことはしていただかないと」
「しかし、今までは私が……」
「今までの方がおかしかったのです。いつまでも里人たちに、何もかもあなたにお膳立てしてもらうのが当たり前だと思われては、先が思いやられます。後のことは私に任せて、今はとにかく、疲れた体を休めることを考えてくださいな」
片袖を離し、両手でニグィの左腕に取りすがるようにして、ぴったり横に並び、歩調を合わせて村へと向かうという、あどけないといっていいほどにかわいらしい仕草とは裏腹に、ワナの言葉は、なかなかに手厳しい。
どうやらワナは、これまでニグィの献身と気前の良さにつけ込むような形で利を貪っていた里人たちが、かなり気に障っていたようだった。
誰かに対し頼み事をしたり、なにかを譲り受けたりしたいのであれば、それなりの見返りを準備しなければならない。誰もそのことを口にはしないが、それは里の決まり事として、皆が心得ている。ニグィが苦労して里の外で手に入れてきた品々を、何の見返りもなく分け与えることは、里人たちに、この「掟」を軽視させ、ひいては、里の結束を揺るがすことにもつながりかねないと、ワナは、そう感じていたのである。
「母も、あなたは里の宝だと言っていたではありませんか。そのことを、里人たちにも分かってもらわねばなりません。あなたがいなければ、里が潤うことはなく、あなたなしでは、里の存続も危ういことを皆が理解し、宝を宝として尊重するようになって初めて、里人たちはあなたの話に真剣に耳を傾けるようになるのです」
さすが里の有力者の娘というべきか、ワナは、里人たちに夫が軽視されているのが気にくわないというより――もちろん、それもあるのだろうが――なにが里のためになるのか、大きな目、長い目で見て、どのように振る舞うのが里のためになるのか、ということを考えているようだった。
有力者の娘である自分が、下にも置かぬかしずきようで、夫であるニグィを家に連れ帰り、せっせと足を洗い、体をぬぐいなどする。さらに、ニグィをさっぱりした格好に着替させ、厚くシシ皮を敷いた席でくつろいがせておいて、そこに、舟からの荷を里人たちに届けさせる。荷を確認するときも、決して席から立ち上がらせたりせず、里人たちに目の前まで持ってこさせた上、「ありがとう、助かったよ」といった声かけだけをさせ、家の片隅にその荷を積み上げさせた上、ちょっとしたお礼の品のみを渡し、帰らせる。
ただこれだけのことをするだけで、自然と里人たちはニグィに対し低姿勢になり、以前同じようなものを分け与えたときよりも格段に、お礼の品をありがたがるようになった。以前の気安い、高飛車な「もらってやるよ」と言わんばかりの姿勢はどこへやら、腰をかがめ、へこへこと頭を下げて、ワナの渡す品を押し頂くようにして帰って行く里人たちの姿をあきれたように眺めつつ、なるほど、里を背負うには、このようなことも考えねばならぬのかと、ニグィは、ひたすら感心し……改めて、ワナを妻にできた幸運をかみしめたのだった。
荷をあらかた整理し終わり、夕餉も軽く済ませたところで、ニグィは、ヤズから手に入れた例の腕輪を、そっと取り出した。
「ワナ。腕を出してみよ」
「はい」
不思議そうに差し出した妻の右腕を取ると、ニグィは、幾重にも重なった腕輪を、一つ一つ通していった。
「これはな。私の、遠い地に住む友に頼んで手に入れた腕輪だ。友が言うには、南方の小島に住む、名人という人の手になる、特別な品だということだ……さ、これでよい」
最後の輪を通し終わり、そっと腕を離すと、ワナは、腕を戸口から差し込む残照にかざし、
「わあ……!」
うっとりとつぶやいた。
確かにそれは、名人の作と呼ぶにふさわしい、思わずじっと見入ってしまうほど美しい腕輪だった。
分厚い貝殻から腕輪を一つ一つ、石のナイフで削り出したうえ、表面が光り輝くまで、ゆっくり、時間をかけて石でこする。その上で、鹿の角やシシの骨で作った細い針のような道具で、それぞれに異なった精緻な模様を、腕輪の一つ一つに刻んでいく。
全ての腕輪を通した上で、日の光にかざせば、それぞれの腕輪の微妙な磨き具合の違いや、それぞれ異なった文様が、その時その時の光の当たり具合によって、さなざまに色を変え、不可思議に輝く。長年修行した人間が、気の遠くなるような時間、細かい作業を続け、ようやく完成する、「美術品」に近い装飾品である。
出迎えの時は少女のように初々しく、そして、荷物の受け渡しの時には、やがて有力者となる男の妻として、この上なく有能な才能を見せていたワナだが、腕輪を眺めるこの時だけは、美しいものに心奪われる年相応の女性として、無邪気ともいえる横顔を見せていた。
「どうだ。このような腕輪、里人の誰一人――いや、近在の里に住まう者たちの誰一人、持ってはおらぬぞ。夫婦の契りで、ろくな祝いも用意してやれなんだ代わりと言ってはなんだが、私からのせめてもの心づくしの品だ。どうか、受け取ってほしい」
新妻の、腕輪に魅入られる様子を心ゆくまで楽しんだ後、ニグィが静かにそう告げると、ワナははっとしたように向き直り、再び満面の笑みを浮かべて、抱きついてきた。
「このように素晴らしい宝、今まで見たこともございませぬ。あなたがくださるものなら、どのようなものでも嬉しいというのに、これほどまでに素晴らしいものをくださるなんて!私は、私は本当に、幸せ者です!」
あらん限りの力でぎゅっと体を抱きしめられたかと思うと、そのまま覆い被さるようにして、ワナはニグィの体の上に自らの小柄な体を横たえ、先ほど腕輪を眺めていたときに倍するほどうっとりとした表情で、襟元に顔をすり寄せてくる。その頭をそっと左手でなでながら、
(女への贈り物は、手に入る中で一番いいものを用意しろ、か。確かに、ヤズの言うとおりだ……)
と、ひそかに彼に感謝したのだった。
翌朝。
何事もなかったかのような顔で、ワナはいつも通り、里の水くみ場まで、水くみに出かけた。が、もちろん、その腕には、昨日ニグィからもらったばかりの腕輪が、誇らしげに輝いており……里人たち――特に女性たちは、しばらくの間、よるとさわるとその腕輪の話で盛り上がり、同時に、見たこともないような宝を里にもたらすニグィの実力を、改めて認めるようになっていったのだった。
7
「子供ができたようだ」とニグィが妻から小声で、恥ずかしげに告げられたのは、それから間もなくのことだった。
待ち望んでいた知らせに、ニグィは、体が吹き飛んでしまうほどの喜びを覚え、
「そうか!……そうか!」
と、そればかり言っては、思わずワナをきつく抱きしめそうになり、腹の子のことを思い出しては慌ててその力を緩める、というのを何度も何度も繰り返し、とうとうワナに
「もう……あなたったら」
と大笑いされてしまった。
それからというもの、朝起きてから寝るまでの間、野良仕事をしていようが、飯を食っていようが、ニグィはずっと、
(子供は、息子がよい。息子ならば、一から私が仕事を教えよう。田の耕し方はもちろん、舟の操り方から、交易のやり方まで。ヤズの息子、マダカともきっといい友達になる。私の息子の方が年下だから、私がヤズに教えたのとは逆に、マダカに息子がいろいろ教わることになりそうだ。はじめに教わるのは、やはり、彼らのあの優雅で静かな歩き方なのだろうか……)
などいうことを考えては、にやにやとあらぬ方を眺めてばかりいるようになった。
こんなことではいかん、生まれてくる子供のためにも、しっかりせねば、と自分に言い聞かせるのだが、それから数分もしないうちに、おなごであれば、ワナによく似た器量よしになるに違いない、ヤズに頼んで、かわいらしい首飾りを手に入れなければ、などと考えて、またもやにやにや。全く仕事にならないのである。
とはいえ、里人たちも、初子を授かった時の喜びは、大なり小なり覚えがあった。なので、腑抜けてばかりいるニグィの姿を、苦笑とともに受け入れ、彼がうっかり見逃した田の隅をそっと耕してやったり、抜き残したままの田の草を引き抜いてやったりと、陰日向に支えたのであった。
月日がたち、ワナの腹が傍目にもはっきり分かるほどに大きくなってくると、それに併せて、ニグィの喜びはますます大きくなり、心配性まで発症し始めた。ワナへの気の使いようといったら、それはもうひどいもので、体がつらい野良仕事をさせないのはもちろん、毎朝の水くみも、体に障ったらいけないというので引き受け、家の、一段下がった出入り口で躓こうものなら、大丈夫かどこか痛くないか腹が張ったりしていないかと、ワナがあきれるほどの大騒ぎを演じる。何でもない、元気だといくらワナが言っても、いいから休んでおけ私がやっておくからと、無理矢理ワナを横にならせるのである。
ニグィ自身ははっきり気づいていなかったが、それもこれも、ひとえに家族を希求する気持ちからでたものであった。
幼い頃に母を亡くし、父親と二人きりで――それも、里人たちからどこか距離を置かれたまま、子供時代を過ごした。ヤズという友はいたものの、年に一度、数日しか会うことができず、里の子供にも、里人たちにも笑顔を貼り付け、自分を主張することなく、あくまで控えめに対応し……そういう生活を送ることに対し、「仕方がない」と無理に自分を納得させてはいたものの、やはり、孤独感はつのり、寂しさは増していくばかりだったのだ。
さらに、頼みの綱の父親も亡くなってしまい、いよいよ孤立無援でいたところに、ようやくワナという家族が――里で初めての、心許し、一緒に笑い合える存在ができた。
そして……我が子。
ニグィにとって、ワナと腹の中の子供は、生まれてこの方、ずっと求めてやまなかった存在であった。だからこそ、ようやくのことで手にしたかけがえのない存在を、万が一にも失いたくないという思いが、彼を過剰なまでの気遣いへと走らせていたのである。
それほどまでに家族を求め、守ろうと躍起になってたというのに、運命は、時にこの上なく非情なことをする。
月満ちて、いよいよ出産となり、ワナは、介添えをする数人の女たちとともに、産屋にこもった。
やがて、ワナの苦しげなうめき声や激しい息づかい、女たちが叱咤し励ます声が、間断なく聞こえるようになり……一昼夜にわたって続いた。
だが、いつまでたっても赤子の産声や、女たちの歓声は聞こえず……やがて、産屋は静まりかえってしまう。
男子禁制のため、産屋の中に入ることはもちろん、そばに寄ることさえ許されていなかったニグィは、ワナの実家に赴き、彼女の実母――トゥジが取り仕切る安産祈願の祈祷の末席に身を連ね、ひたすら彼女と我が子の無事を祈りながら、よい知らせが届くのをじっと待っていた。
そこへ、ワナの介添えをしてくれていた女の一人が、疲れ切った、そして哀しみにまみれた顔でふらりと現れ、ただ一言、
「残念じゃ」
そう、告げたのである。
現代でも出産がひどく困難な、逆子であった。
小柄な体の中に蓄えられていたあらゆる力を全て振り絞るほど、ワナは力を尽くした。が、それでも力及ばず、あまりにも多くの血を失ったせいで、ワナも、そしてようやく生まれ落ちた子供も、出産後間もなく、息を引き取ってしまったのである。
出産での死亡率が2割近い――つまり、5人に1人は出産で亡くなる――時代のことである。このようなことは、決して珍しいことではなかった。
とはいえ、残された家族の悲しみが和らぐものではない。
ニグィの悲しみようといったら、正視できぬほどに痛々しいものであった。
祈りを捧げるときの格好そのままにひざまずき、地につけた額を両手で抱え込むようにして、人目もはばからず、大声で泣き叫ぶ。
トゥジやその夫、ワナの姉たちが――本人たちも悲しみの涙にくれながら――力を落とさぬようにと必死で声をかけるのだが、その声すらも届かないのか、ニグィは、声がかすれ、涙が血に変わっても、それでもまだ慟哭を続けた。
ようやくのことで手に入れた家族を再び失ってしまった悲しみは、それほどまでに深く、大きかったのである。
それからの数ヶ月、ニグィは、ただ寝て起きて泣いてまた寝るだけの存在と化していた。
ろくにものも食べぬため、幽鬼のように痩せ細り、身なりも整えずに日がな一日床に座り込んで、うつろな目で、何もない一点を見つめている。時折思い出したように顔を床に伏せ、おいおいと泣いては、力なく身を起こし、そしてまたうつろに一点を見つめる――そんな生活を送っていたのである。
野良仕事はもちろん、交易にも出かけず、ひたすら人に会うことを避け、たった一人で、現実から逃れ、ひたすら幸福な思い出のみに浸って生きる――そんな抜け殻のような状態にあるニグィを救い出してくれたのは、またもやトゥジだった。
かわいがっていた娘を亡くし、本人もさぞ力を落としているのに違いないというのに、ワナの仮葬儀、本葬儀が終わり――もちろん、棺に収められるその時も、彼女の右腕には、ニグィの贈ったあの腕輪が、誇らしげに輝いていた――里の中央にある一族の墓地へと埋葬された頃、トゥジは、ひっそりとニグィの家を訪れたのである。
「ニグィどの!ニグィどの……。なんといたわしい姿に……」
壁の一点を見つめて座り込む彼の姿を一目見るなり、彼女は涙ぐみ、貴重な薄衣が汚れるのも構わずひざまずくと、その胸にニグィの頭をそっとかき抱いた。
「そなたは、これほどに、これほど取り乱してしまわれるほどに、ワナを思ってくださっていたのですね……あの子は幸せ者です」
ワナという名前を耳にし、ほぼ自動的に泣き始めたニグィを、トゥジはさらに強く抱きしめる。
「そなたのワナを思う気持ち、本当に、本当にありがたく、嬉しく思います。ですが、どうか、どうか、悲しみの中にうち沈むのをやめてはくれまいか。でないと、あの子が……ワナが、いつまでもこの世に引きとどめられたままになってしまう」
最愛の妻が黄泉路に踏み出せなくなる、というのを聞いて、ニグィは、はっと身を固くした。そこへ、追い打ちをかけるように、トゥジがかき口説く。
「ワナは、夫婦の契りを結ぶ前から、そなたを心配しておりました。そなたが自分をおとしめ、本来の力を発揮せずにいるのを、歯がゆく思っておりました。それゆえ、契ってからというもの、出過ぎるほどに様々手管を弄し、里人たちのそなたを見る目を変えさせようとしてきたのです。好いて好いて、ほれぬいたそなたを、名実ともに里の得がたい宝として、里の皆に知らしめること。それが、あの子が生涯かけて取り組んだことです。そのワナが、今のそなたを見たら、なんと思うでしょう」
ニグィの頭に、交易品を持ち帰ったあの日のワナが、鮮やかによみがえった。
夫に荷を運ぶことを許さず、手ぶらで家まで帰らせたワナ。
里人たちが運んできた荷を確認し、お礼の品を渡すときも、自ら率先して仕切り、ニグィに決して必要以上に腰の低い態度を取らせなかったワナ。
そして、その必要もないのに、一日一度は必ずあの土産の腕輪を、誇らしげに着け、里を歩くのを日課としていたワナ。
あの頃はてっきり、美しい装飾品を手に入れたことに対する子供っぽい喜びで、ああして見せびらかすように腕輪を着けていたのだと思っていた。
が、違う。
ワナは――妻は、夫の――ニグィの素晴らしい能力を誇り、知らしめたいがゆえに、あえて腕輪をひけらかすようにしていたのだ。全ては、夫の――自分の「すごさ」を、里人たちに認知させたいが故の、この上なくけなげな行動だったのだ……。
改めて亡き妻の献身に気がついたニグィの目に、先ほどまでの哀しい涙とは違う、熱い涙があふれた。
「どうか、どうか、ワナのためだと思って、悲しみの淵から這い上がってはくれぬか。あの子がとことん好いておったそなたに戻り、あの世でもあの子が誇らしく思えるよう、してやってはくれぬかの……」
ぽとり、ぽとりとニグィの頭の上に温かな水滴が落ちた。
彼の頭を抱いたまま、トゥジも、泣いているのである。
ニグィは、それまでずっとだらりと垂らしたままであった両腕を動かし、トゥジをぎゅっと抱き返した。そして……彼女の腹に顔を埋めると、遙か遠く、ワナのいる地にまで届くような大声で、慟哭し始めたのだった。
8
ニグィは、どうにか立ち直った。
以前よりは寡黙で無口になり、必要以上に頭を下げることはなくなったものの、野良では相変わらず誰よりも精を出して働くし、交易に出かけては、以前のごとく、物珍しい品を満載して帰ってくる。以前はどこか、物腰に卑屈さが漂っていのが、今はそれも影をひそめ、常に笑顔で、里人がなにかで困っていれば気安く相談に乗り、知恵を貸す。まさに「この上なく頼りがいのある男」へと変貌したのである。
仲睦まじかった妻を亡くしたニグィに対し、里人たちははじめ腫れ物に触るように接していた。が、じきに以前のように打ち解け、そして、以前にも増して穏やかで考え深くなった彼に、畏敬に近い尊敬の念を持って接するようになっていった。
なんとも皮肉なことに、彼をもっとも認め、尊敬していた妻を亡くすことによって、ニグィは、その妻――ワナが「かくあれ」と希求した姿へと成長し、里人たちから一目置かれる人間となったのである。
そんな彼の元へ、ある日、一人の女の子がやってきた。
やってきた、といっても、もちろん遊びに来たわけではない。
トゥジに連れられ、ワナの後添えとして、ニグィの家に輿入れしてきたのである。
前にも述べたが、この時代、出産時の事故で女性が命を落とすことは、珍しくなかった。ことに初産では、死亡する危険性が非常に高く、母親が命を落とすことも、子供が生まれてすぐになくなることも、そしてまた、ワナのように母子共々はかなくなってしまうことも、ある意味で「日常茶飯事」だったのである。
だが、よくあることだから、で済ますわけにもいかない。
というのも、この時代、「夫婦の契りをなす」意味としてもっとも大きな比重を占めていたのが「子供を作ること」であったからだ。
田畑での野良仕事は、水路を整備し、土を盛り、石を取りのけ、田畑を耕すといった過酷な肉体労働ばかりが続く、つらい仕事だ。
里人たちは、一家総出でそれらの仕事に従事する。が、その主戦力としてもっとも過重な労働をになうのは、成人した男性の役目だ。彼らがいなければ、ろくに水も引けず、田畑を耕すことも叶わず、農地はどんどん荒れていく。里で生きていこうと思えば、一家に必ず、働き手となる成人男性がいなければならないのである。
その働き手を確保するには、二つの方法しかない。
一つは、よそから迎え入れること。
例えば、ニグィの父、ウォシムを里人たちが受け入れ、家を与えて住まわせたりとか、あるいはもっと手っ取り早く、よその里から娘の婿として若者を家に迎え入れるとかして、男手を増やすという方法である。
しかし、どこの誰とも知らぬ漂泊民を里に受け入れるのは、里人たちにとって大きな賭けになる。受け入れた者の気性がよければいいが、暴れ者だったり、怠け者だったりすれば、里の和が乱れ、かえってひどいことになるからだ。
また、婿を取るといっても、どこの里でも男手は貴重だから、めったなことでは若い男を里の外に出したがらない。若い娘が夫の里へと嫁入りするのは、それほど問題なく話が進むが、婿を取るとなると、決まって里同士で大もめにもめ、夫婦の契り自体が立ち消えになってしまうことも、ままある話なのである。
しかも、首尾よく男手を迎え入れたからといって、それで万事うまくいくとも限らない。育ってきた里の風習と、これから先生きていく里の風習が違うことで、戸惑うことも多く、ウォシムがそうであったように、言葉や仕草の細かな違いで、里人たちとの間に見えない壁ができ、なかなかうまく里に溶け込めず、孤立してしまうことだってある。
これら諸々のことを考えると、やはり、成人した男を村に迎えるのは敷居が高く……里人たちはどうしても、男手を確保するもう一つの方法に大きく頼ることになる。
それが、「子供をなすこと」なのである。
男子をなるべくたくさんもうけ、養育する。はじめの数年こそ、手がかかり、食い扶持も増えるが、十年もたたないうちに水くみや下の子の子守といった雑事を任せられるようになり、15歳にもなれば、一人前の労働力として野良で働かせることができる。そうなったら、今度は親が年老いて野良に出られなくなる前に、どこかの家の娘と夫婦の契りを結ばせ、また男子をもうけ……という具合にして、遙か昔から、里は働き手を絶やすことなく続いてきたのである。
子をなすことなく母が亡くなってしまえば、この流れが途絶え、家が、田畑が、ひいては里がさびれていくことへとつながる。それはまずい……ということで、運悪く若くして妻が亡くなった場合、その実家から他の娘が――姉が亡くなったのならば、その妹が――後添えとなるのが通例であった。
ニグィの父、ウォシムも、若くして妻を亡くしているが、彼自身が後添えをもらうことを固辞した上、跡継ぎとして、もう既にニグィが生まれていたこともあって、独り身を通すというのであれば、まあそれも構わないだろう、ということになった。
が、ニグィの場合は、そうはいかない。
子をもうけぬままであれば、彼の畑を耕すものも、そして――この方がより重大なのだが――彼亡き後、舟を操り交易に出かけ、里に大きな利益をもたらすはずのものも、存在しなくなってしまう。
里のためにも、それは断じて防がなければならない。
ぜひとも後添えとして一族の娘を彼に嫁がせ、後を継ぐ息子をもうけさせたい、もうけさせなければならぬところだったが……トゥジの一族は一族で、ちょっとした問題を抱えていた。
ワナは、長らくトゥジの「末娘」として育ってきた。
次代のトゥジは、よほどの問題がない限り、末の娘が受け継ぐ、というのが里のしきたりであったから、自然、ワナは、次代のトゥジと目され、トゥジ本人はもちろん、父も姉も、周囲の人間は皆、そのつもりで彼女を教え導いた。その結果、ワナは、若い娘には似つかわしくないほどの「政治的見識」を備えた、聡明な娘に成長したのだが……ここで、予期せぬことが起きた。
既に四人の子を産み、これ以上子をなすことはあるまいと思われていたトゥジが、久々に懐妊し、月満ちて女子を新たに産み落としたのである。
それはつまり、トゥジの後を継ぐべき末子が、新たに誕生し……ワナは、トゥジの後継者から外れなければならぬことを意味する。
これまでずっと、トゥジとなるべく育てられてきたというのに、突然目標をなくし、さぞ力を落としているに違いないと、妹が生まれた当初、皆はワナを、気の毒なものを見る目で見つめ、腫れものに触るように接していた。が、当のワナ本人は、かえってほっとしていたのだった。
その頃から、彼女はニグィに惹かれ、できることなら契りを結び、彼を助け、一生をともに過ごしたいと、ひそかに望んでいたのだ。
次代のトゥジにならねばならぬ、という枷が外れたことで、ワナは初めてその気持ちをおおっぴらに表すことができるようになり……やがて、その望みを叶え、短い間ながらも、この上ない幸福な年月を過ごしたのである。
そのワナが亡くなり、後添えとして誰を送るか、ということになったところで、トゥジの一族は、はたと困ることになった。
適当な女子が、いないのである。
通常ならば、ワナの妹を後添えとして契らせるところだが、彼女は次代のトゥジとならねばならない。
ワナの姉たちは、とっくに里の他の有力者と契りを結び、家庭を営んでいる。その子供たちもいるが、年かさの子供はほとんどが男児で、女子はほんのわずか。しかも、契りを交わした相手の家は軒並み保守的なところばかりで、現在急速に名を高めつつあるとはいえ、「流れ者の息子」であるニグィと娘を契らせる――それも、後添いとして!――など言語道断と、首を振るものばかり。
一体、どうすればよいのか。
一族の間で何度も話し合いがもたれた結果、トゥジの姉の孫である一人の娘に、白羽の矢が立った。
彼女の両親――すなわちトゥジの甥と、その妻の女性――は、つい先頃、流行り病にかかり、子供を残して相次いで亡くなってしまった。後に残された子供たちを放っておくわけにもいかない、ということで、一人前になるまで、その子供たちを一族の誰かが引き取り育てることになっていたのだが、それならば、子供たちのうち一番年かさの娘を、トゥジの養女として迎え、しかる後ニグィの後添えとすれば、万事丸く収まるのではないか、ということになったのである。
ただ、この話が決まった当時、その養女となるべき子は、ようやっと八つになったばかりという年格好であった。いくらなんでも、後添えとして契らせるのは若すぎるので、数年の間はトゥジの屋敷で暮らし、一人前の年齢になったところで、改めてニグィと契らせるのがよかろう、ということで、話がまとまりかけたのだが……この妙案に、一人強硬に反対するものがいた。
他ならぬ、養女となる娘本人である。
曰く、自分は六つになるやならずの頃から、体の弱い父母に代わり、家事や野良仕事をこなしてきた。そのおかげか、年に似合わず体も大きいし、夜中目が覚めたとき、ただならぬ様子の両親をたまたま目にしたことがあるので、契りとはどういうことを意味するのか、大体理解しているつもりだ。家の中での仕事も、妻としての務めも理解しているというのに、自分まで幼い弟たちに混じり、トゥジの家の厄介になるのは、なんとも心苦しい。それよりも、早く夫婦の契りを交わし、妻として一人前になり、弟たちを引き取りたい……そう言って聞かなかったのである。
どれほど説得しても、言い聞かせても、頑として首を縦に振らない娘の意志の固さに、一族はほとほと手を焼き……とうとう最後にさじを投げた。そして、ワナの死から一年がたとうかというこの日、娘は、トゥジに連れられ、ニグィの元へとやってきたのである。
「アタカ」という名の、その少女を迎え入れた時、ニグィがまず思ったのは、なんとしっかりした目を持つ子であろうか、ということだった。
八つとしては大柄で、既に少女というより女としての体つきの予兆が現れ始めているとはいえ、まだまだ顔立ちは幼く、あどけなさが漂う。が、黒々と太い眉はキリッと引き締まり、その下に光る大きな目は、とらえた相手をにらみ据えるかのように見つめ、放さない。
その視線の強さは、ニグィにとってひどく懐かしいものだった。
普段穏やかな光をたたえてはいたものの、時折、何かことがあり、真顔になるたびに、ワナも、全く同じ目をしていたことを、思い出したのである。
(夫婦の契りを結ぶには、さすがに幼すぎるが……この娘とならば、うまく暮らしていけるかもしれぬ)
戸口をくぐってからというもの、けんかの相手でも見据えるかのような激しい視線をずっと投げかけ続けているアタカに、苦笑交じりの穏やかな笑みで応えながら、ニグィは、久々に心が安らいでいるのを、意識するともなく感じていたのだった。
9
はじめの印象に違わず、アタカはワナによく似た意志の強さを持つ娘だった。
ワナは、その意志の強さを穏やかさで包み込み、周囲の者たちとうまくやりながら、いつの間にか自らの意志を通していく、ある種の「老獪さ」を身につけていたが、彼女に比べ、アタカはずっと不器用で、まっすぐな少女だった。
どれだけ肉体的に過酷な仕事でも、やると決めたからには、決して弱音を吐かず、歯を食いしばってやり遂げる。一人前の大人と見なされたいと思うあまりなのか、女は普通手を出さないような仕事にも進んで首を突っ込み、男連中にからかわれ、手足を傷だらけにしながらも、決して手助けを求めず、黙々と仕事を続ける。頑固さと、負けん気と、意志の強さでもって、目の前の壁を打ち砕いて進まずにはいられない、そのためにどれほどの深手を負ったとしても構わない……そういった「強さ」と「危なっかしさ」が同居する娘だったのだ。
ニグィが一番驚いたのは、交易に出かけるとき、是非とも自分も一緒に行きたい、と申し出たことだった。
前にも言ったが、里人は普通、里の外には出たがらない。人の住む集落であるムラと、その周辺に広がる田畑、水をくむ川、丘、雑木林――里の擁するそれらのものさえあれば、生活に必要なものは全て揃う。である以上、里の外に出る必要性などみじんもありはしない。見知らぬ土地で、未知の危険に怯えなくとも、勝手の知れた里で、毎日変わりなく、穏やかに暮らすことこそ、里人の本分だ……里人のほとんどが、そう考えているのである。
ニグィの仕事の意味を誰よりも理解していたワナでさえ、自分は里にとどまり、留守を守ることを選んだ。というより、自分も里の外に出て交易に従事するなど、考えたことすらないようだった。が、この娘――アタカは、「家業として交易に赴くのなら、自分もその仕事を覚えなければならないから」と、当然ついてくるつもりでいたのである。
「ついてきたいというなら、連れて行くが……その代わり、舟の操り方や異国の言葉など、様々なことを覚えてもらわねばならぬぞ。それに、里の外では気の休まらぬことも多いし、男でさえつらい仕事も、こなしてもらわねばならぬ。そして、どれほど後悔しても、途中で帰ることは許されぬのだぞ」
本心では恐怖に震えているにもかかわらず、「家業だから」と自分の気持ちを無理に抑えつけ、交易に出かけようとしているのでないか――ニグィは、そう心配し、あえてきつい言葉をぶつけたのである。が、アタカは口を真一文字に結んだまま、首を振るばかり。
「家業なのだから、ついて行くのは当然です」
まっすぐな視線でニグィを見上げ、ひたすら同じ言葉を繰り返すだけのアタカを見ているうちに、ニグィの中に、ふと幼い頃の記憶がよみがえった。
(私も里から出て旅に出るのを、ひそかに楽しみにしていたものだった……)
流れ者の息子と後ろ指指され、見えない壁に遮られて、里の子供らとも心底打ち解けて遊ぶこともできずに過ごした少年時代。里を出てヤズと会い、ともに過ごす時だけは、しがらみから解き放たれ、ひどく大人びた――無理矢理「大人」にならざるを得なかった自分が、年相応の子供として振る舞うことができた。
(あの時間があったからこそ、私は、里の一年を耐えることができた。里での生活は、子供時代の私にとって、決して楽しいものではなかった……)
アタカも、幼くして両親を亡くし、さらに幼い弟たちを抱えて、否応なく大人になることを強いられた子供だ。
里にいる限り、気の毒な子供、かわいそうな子供という目で見られ、時には大人が無意識のうちに発する「厄介者を疎んじる気配」に脅かされ……それでもなんとかして自分たちの居場所を確保しようと、歯を食いしばり、つらい仕事に耐え続けてきたのだろう。
(里以外の居場所を与えてやることは、この子にとってもいいことなのかもしれぬ……)
悲壮な決心をたたえた目で、自分を見つめ続けるアタカ。
必死で「大人」になろうとしている幼子の視線を受け止めているうち、ニグィの頬には、自然と笑みがこぼれていたのだった。
「ニグィ、みて!魚が、こんなにたくさん!」
草を編んで作ったびくに一杯の魚を抱えて、アタカが興奮した様子で走ってくる。
「マダカに教えられたとおり、草で罠を作って仕掛けたら、ほら!マダカは、本当にいろんなことをよく知ってるの!」
子供らしいはしゃいだ口調で、嬉しそうにまくし立てるアタカ。ニグィは、その彼女に笑顔を向け、無言で頭をなでてやる。
「アタカは筋がいい。何事もきちんと向き合うから、罠もいいものができたのだ」
後ろからゆっくりやってきたマダカが、いかにも年上らしい、余裕ぶった態度で、鷹揚にアタカを褒める。
「あたしは、マダカに教えられたとおりやっただけ。マダカの教え方がうまいんだ」
「一度教えただけで覚えた、お前の手柄だ。たいしたもんだよ、お前」
年下の少女から尊敬の目で見つめられ、内心得意でたまらないのに、あえてその気持ちを押し隠し、落ち着いた、少々大げさなほど大人らしい態度で、マダカはアタカの頭を、ぽんぽんと叩いた。
「父様。ニグィどの。夕餉の菜が手に入ったので、私たちは火をおこしてきます」
丁寧にぺこりと頭を下げると、マダカは、荷物を積み上げた場から少し離れた、煮炊きと寝起きに使っている場へと歩いて行く。アタカも、その後をちょこちょこと、くっついて歩く。その様子が、仲のよい兄妹か、幼なじみのように見えて、ニグィは思わず、顔をほころばせた。
川下の里の外れ、船着き場近くの、交易場である。
いつも通り、三つ星が真夜中に地平線から姿を現す時期の満月の頃、ニグィは、交易品とアタカを乗せて、川下の里へとたどり着いた。ヤズたちも間もなく姿を現し、例年通り、隣り合わせの場所に荷物を下ろして、里人相手に、一通り交易を行ったのである。
マダカとアタカは、昔のニグィとヤズがそうであったように、会って間もなく打ち解けた。大人たちが仕事にいそしんでいる間、二人は里の周りを歩き回っていたのだが、しばらく会わぬうちにすっかり落ち着いた少年に成長したマダカが、進んで優しい兄貴分となってくれたこともあってか、アタカはすっかり彼になついたようだった。
二人揃って煮炊き場へとしゃがみ込み、なにやら楽しそうに喋り続けている二人の――アタカの様子を見るにつけ、ニグィは、あの子を連れてきてよかったと、しみじみ心を安らがせていたのである。
「まさか、おなごを連れてやってくるとはな。あの子は、娘か?」
いつの間にきていたのか、ヤズがニグィのすぐ隣にしゃがみ込むと、例の人なつこい笑顔を浮かべる。
「いや、あれは、私が預かっている親戚の子だ。面倒を見る代わりに、家のことをしてもらっている」
やがて夫婦の契りを結ぶ予定だ、とは言えなかった。
この里でのアタカの様子が、幼い娘そのものにしか見えないし、なにより、マダカと仲睦まじく過ごしている姿を見ると、二人の仲を引き裂くような真似はしたくないと、強く思うのである。
「そうか……うわさで聞いたが、去年この地へと来なかったのは、つらいことがあったからだとか。残念だったな。」
「こちらの方こそ、すまなかった。毎年の約束を果たせなくて。去年は、どうしても舟を出す気になれなくてな」
「そんなことは気にするな。それより、あの娘は、その……去年の出来事との関わりで、預かることになったのではないのか?もしそうなら、息子と遊ばせておいては……」
いつも率直なヤズには珍しく、少々いいにくそうに、おそるおそる口にした言葉を、ニグィは、力強く遮った。
「いや、あの子は、私の跡継ぎとして、娘として育てる。少なくとも、私はそうすると決めている。だから、むしろどうか、マダカと仲良く遊ばせてやってくれ」
それまではっきり決めていたわけではなかったのだが、声に出して宣言してしまうと、それしかない、そうするべきなのだという思いが、ニグィの心に焼き付いた。
ニグィ自身はいまだ、ワナを忘れられていない。それどころか、日に日に、自分の妻と呼べる女は、ワナたった一人だと、強く思うようになってきつつある。それでも、アタカを後添えとして受け入れた――受け入れざるを得なかったのは、里のため、交易係の後を継ぐ男子をもうけるためだ。が、アタカ本人が、これから先、交易係としての役割を受け継いでくれるのであれば、里への義務は果たすことになる。
(ワナも言っていたではないか。里の存続を考えるのならば、里の宝らしく振る舞えと。里人の顔色をうかがうのではなく、自らの思惑を第一にせよと。あれほど子供らしく、あれほど楽しげにマダカと過ごす姿を見てまで、私はアタカを妻に迎えようという気には、断じてなれない。むしろ、このままマダカと仲睦まじく過ごし、契りを結んでくれないとかとさえ、願っている。ならば、その「思い」を通そうではないか。里人の手前、夫婦という形を取らざるを得ないかもしれぬが、実のところでは、あくまでアタカの父親として振る舞うのだ。そして、彼女に交易の術を教えつつ、やがてマダカのような、相応の若者と契るまで見守り……彼女が子をなしたのならば、祖父として慈しむ。そうしようではないか……)
パチパチと音を立てて燃え上がる火に歓声をあげるアタカの後ろ姿をじっと見つめながら、ニグィは、気負いも何もない、穏やかな気持ちで、固く心を決めたのだった。
……それから、十数年が、瞬く間に過ぎ去った。
毎年毎年、春から秋にかけては野良仕事に精を出し、冬は交易に出かける、代わりばえのない年月を過ごすうちに、アタカはどんどん成長していった。
元から野良では、大人顔負けに仕事をこなしていたのだが、それに加え、舟の操り方を覚え、交易の相場を身につけ、言葉巧みな交渉術と、穏やかな態度、そして時には、相手が屈強な大男であっても、決して引かずに我を通すだけの胆力までをも身につけ……アタカは、立派な交易係に成長した。
マダカとは、幼い頃から変わらず仲がよく、いつの間にか下流の里で出会うたびごとに、契りを交わすようになり……数年前にはとうとう、子をなした。
とはいえ、マダカたちの一族は、契った男と女がともに暮らし、ともに子を育てるということはしない。旅先でなした子は、旅先の女に預け、養育させるならいである。なので、クシナと名付けられたその娘は、里では、ニグィとアタカの間に生まれた子であるということにし、年に一度、川下の里に交易に行くときにだけ、真の父であるマダカと会わせる形を取った。変則的ではあるが、皆で相談した結果、互いの一族と波風を立てずに育てるならば、その形がもっともよいだろう、となったのである。
普段、里ではニグィが「父」であるのに、川下の里でマダカに会っているときには、彼を「父」と呼ばねばならぬことに、幼いクシナははじめ、少々面食らったようだった。が、会うときのマダカは常に優しく、目の中に入れても痛くない、という勢いで、なめるように彼女をかわいがったので、次第に彼女も「そういうものか」と慣れていったようで……ニグィを「里の父」、マダカを「江の父」と区別して呼び、二人のどちらにも同じようになついて、慕ってくれるようになった。
女児ではあるとはいえ、子供が生まれたことで、里でのニグィの地位も安定した。ワナの母親からその末娘へと代替わりしても、トゥジは相変わらず、ニグィの後ろ盾となり、陰に日向に彼への支援を惜しまず、また率先して、彼を「里の重要人物」として丁重に扱ってくれた。そのこともあって、もはやニグィは、里人から軽んじられることもなくなり、それどころか、里の主だった人物――「大人」の一人として、重要事を決める話し合いには必ず列席を求められるようにまでなったのである。
四十を過ぎ、父ウォシムの亡くなった年齢へと近づくにつれて、ニグィ自身も、体の衰えを自覚することが多くなった。そろそろ交易係を引退し、アタカに全てを任すことも、考えなくてはならない。その後はおそらく、「長老」と呼ばれる立場となり、皆から敬われ、かしずかれつつ、子供らや若き里人たちを指導し、里の行く末を長い目で見守り、やがて寿命を迎えるまで、忙しくも穏やかに年月を重ねていくことになる。
「流れ者の息子」として前半生を送った者にとっては、望外の幸福な後半生、といってよかった――このまま、時が穏やかに過ぎ去るのであれば。
紀元前七世紀という「動乱の時代」は、ニグィに穏やかな人生の締めくくりを許さなかった。彼が、実質里の舵を取る立場に立とうとしていたこの頃、嵐を予感させる不穏な風が、里の周囲に吹くことになる。
里に、見知らぬ兵の一団が、姿を現したのだ。
10
辺境の弱小国として出発した楚が、強大な中原諸国に対抗するため、まずは西進し、同じ辺境の諸国家を次々併呑して、その力を増していったことは、既に書いた。
西進に次ぐ西進を重ね、平野部をどんどん征服していったあげく、楚はついに、それ以上の西進は無意味というところまでたどり着く。
現在の四川省、貴州省といった中国西南部には、険しい山岳地帯が広がっており、分け入るだけでも困難な上、耕地は少なく、征服するうまみがあまりないのである。
西への侵攻を断念した楚が次に目を付けたのは、南方――長江中下流域であった。
稲作を中心とした、北方とは全く違う文化を発達させたこの地は、華北では辺境の地であった楚の人々にとっても、あまりにも異質であり、また、気温が高く蒸し暑いという気候から、伝染病が蔓延する地でもあった。そんなことから、おそらくは征服・支配を躊躇していたと思われる。が……西方を蹂躙し尽くしてなお、中原諸国を圧倒するに足る力を手に入れられないのであれば、目線を南に向けるより他、致し方なかったのではないだろうか。
楚が南方へ食指を動かし始めている、とのうわさを聞きつけ、まず危機感を募らせたのは、楚と境を接する地域の里人たちであったに違いない。
いかに防備を固め、たゆまず訓練を行ったとしても、なにしろ、「クニ」と里とでは、動員できる戦力の差が、圧倒的なまでに違うのである。膨大な兵力を有する楚が、本気で侵攻を始めれば、ちっぽけな里など、ひとたまりもなく蹴散らされてしまうことは、火を見るよりも明らかである。
楚のような「クニ」に対抗するには、一つの里だけではなく、いくつもの、幾十もの里の力を結集し――新たな「クニ」を作って、対抗するよりほかない。
事ここに至って、ようやく南方の里人たちも、にわかに動きが慌ただしくなっていく。
以前から、楚によって滅ぼされた里や小国の民が、流民となって、どんどん南方に流れてきていた。祖国を蹂躙され、滅ぼされた怨念を抱えた流民たちは、捲土重来、今度こそ楚に負けぬ力を蓄え、楚を打倒するという悲願を果たすため、持てる知識を里人たちに伝え、戦に備えることを説く。里人たちは里人たちで、先祖伝来の地を守り、自らの生命を護るために、流民たちを受け入れ、その知識を元に、里の守りを厚くし、そして、他の里との連携を深めていく。
こうして、それまで里単位での自給自足的生活が基本だった長江中下流域でも、より大きな単位である「クニ」への再編成が――かなりの軋轢を伴いながら――進行していくことになるのである。