第3章 脅威 1-3
1
その日、ニグィはいつも通り野良に出て、畑の手入れをしていた。
若い頃からの過酷な労働のせいか、昔はすっきり伸びていた腰も、昨今ではずっと曲がりっぱなしになってしまっている。その腰に手を当てて、やや「がにまた」で畝の間を歩き、わくらば――病に冒された葉を見つけては、しゃがみ込んで丁寧にむしっていく、という単純作業をひたすら繰り返すのである。
泥で重くなった足を引きずり、一日中腰をかがめていなければならぬ田の草取りなどに比べれば、格段に楽な作業である。引き取って育てていたアタカの弟たちが独立した今、ニグィは、一家で唯一の男手なのだから、本来ならば田に入り、過酷な労働に従事しなければならないところだ。が、アタカに「つらい仕事はいい加減若い者に任せてくれ。その手の仕事を手伝うものなら、いくらでもいるのだから」と、半ば無理矢理、こちらへ追いやられてしまったのである。
実際、野良での仕事に喜んで手を貸そうとする屈強な若者は、里の中に数多くいた。
目当ては、クシナである。
マダカとアタカの間に生まれたクシナは、双方からのよいところを受け継いだのか、まだ幼いながら、里の、他の子らとは一線を画す雰囲気を持った女児へと成長していた。
他の女子に混じって人形遊びやままごと遊びに興じることもあったが、それよりは、男児たちとともに木登りをしたり、野原でうさぎを追いかけたりすることを好んだ。そして、マダカから受け継いだ、きゃしゃながら筋肉の発達した体のせいか、男児の誰よりも速く走り、高く木に登るのである。
目鼻立ちがくっきりとした印象的な顔は、常に生き生きと輝き、時に笑顔を爆発させる。その上、結構気性が激しく、普段は無口なのだが、気に入らぬことがあれば、それがたとえ大人であろうとくってかかり、相手をたじたじとさせる。が、その一方で、潔く間違いを認める相手には寛容で、困っている人、弱っている人を見ると、手助けせずにはいられない、気立ての良さも併せ持っている。
いくつもの矛盾する性質が一つの体に同居しているような、複雑で、一筋縄ではいかない、どこか謎めいて感じられる女児なのである。
里の伝統的な美意識では、目は一重の切れ長で、おっとりおとなしく、控えめな感じの女性が「いい女」だとされている。クシナは、その基準から全くかけ離れていたにも関わらず、不思議な魅力で里人たち――特に、若い男たちを引きつけていた。
そして、彼女自身のこういった魅力に加え、一族の事情が、さらにクシナの人気を引き上げていた。
トゥジに、女子が生まれないのである。
次代のトゥジになる女子は、まだ見習いであるうちに夫婦の契りを結び、子をなすべきである、と里では考えられていた。
なるべく早めに跡継ぎ候補を用意しておけば、トゥジを受け継いでからも、焦ることなく職務に集中できるから、ということから、遙か昔から、成人の儀が終わると早々に夫婦の契りを結び、数年のうちに少なくとも一人――できることならば数人、女児を出産することが、トゥジとなるべき娘の、初めに果たす義務であると考えられていたのである。
当代のトゥジも、この慣習に従い、一族の選んだ男と早々に夫婦の契りを結び、出産へと臨んだ。幸いなことに、無事に子供は生まれてきたのだが、これが男児だったのである。もちろん、子供の誕生はめでたいことであり、生まれた赤子は初子として、一族の手で大切に育てられる。が……トゥジを受け継ぐのは女と定められている以上、この子を跡継ぎとするわけにはいかない。
その後、数年の間に続けて二人、子をなしたが、あいにく、そのどちらもが、やはり男児であり……そうこうするうちに、トゥジを受け継ぐべき時が来てしまい……娘は、当代のトゥジとなったのだ。
無論、彼女とワナの母親である先代がそうであったように、トゥジとなってからも、忙しさの合間を縫って懐妊し、女児を産み落とすことも、あり得ないことではない。皆がそれを期待していたのだが、どうしたことか、今度は懐妊の兆しすら、長いことなくなってしまっている。
このように、トゥジに女児が生まれない場合、最も近い血筋に生まれた女児が、その地位を襲うことになるのが通例である。が、トゥジの上の姉たちは、既に嫁いで久しく、その娘たちもとうに成人し、それぞれ夫婦の契りを結んで、他の一族へと入っている。そして、一番年の近かった姉のワナは既に亡く、その子もいない。
ならば、次代のトゥジはだれにするべきか……ということで急浮上したのが、クシナなのである。
先代トゥジの姉の孫娘だから、アタカと当代トゥジとの血のつながりは、ごく薄い。が、彼女はニグィの後添えに入るとき、先代トゥジの養女になっている。クシナはそのアタカの娘だから、トゥジを継ぐ資格が十分に備えている、と里人皆から見なされていた。しかも、アタカとニグィが交易係として里を留守にしている間――下流の里で実の父親であるマダカに会うときには連れて行くのだが、それ以外の里に出かけるときは――当代トゥジが「母親の姉として」幼いクシナを預かり、養育してくれていたのである。
自分の子が男児ばかりだったためか、トゥジはクシナをことのほかかわいがり、里の有力者階級の女子が身につけるべき挙措動作や、ありとあらゆる礼儀作法を仕込んでくれた。加えて、薄衣の着こなしや手入れ、祭りの前の身の清め方や、祈りを捧げる際に唱える呪文や、身振り手振りに至るまで、神職に就く女性が身につけるべきあらゆることを、根気よく、丁寧に教え込んでくれたのである。
などというと、トゥジ本人も「この子を跡継ぎに」という目論見があったかのように思われるだろうが、実のところ、そうではない。先代トゥジや、なくなったワナなどとは違い、当代は、なんというか、本当におっとりと気の優しい女性で、気立てこそいいものの、深謀遠慮を巡らしたり、里を導く強い意思を示したりという気概のある女性ではなかったのである。
彼女はただ、嬉しかっただけなのだ。
自らにはなかなか授からぬ女児が身近におり、自分を慕ってくれている上、その子がびっくりするほど素直で飲み込みがよく、ほんの少し「さわり」を教えただけで、その内容をどんどん吸収してくれる。そのことが、ただただ嬉しく、楽しくて、ついつい必要以上のことを伝授してしまった、というだけなのである。
が……周囲の人間の目には、その行動は明らかに「トゥジが、その後継者としてクシナを選んだ」ように見えた。加えて、クシナ本人が、幼いころからどこか神秘的な雰囲気を持った女児であったこともあって、いつの間にやら「次代のトゥジは、クシナだ」という共通認識が、里人たちの間にできあがってしまっったのである。
トゥジの候補でありながら、いまだ誰とも、どの家とも約を交わしていない今ならば、あの謎めいた魅力をたたえる少女と、「トゥジの夫」という、里でも力のある立場と、二つながら手に入れられるかもしれない……多くの里人がそんな夢を見て、少しでも力のある一族は、われもわれもとニグィにクシナとの婚約を申し込んでくる。そこまで力のない家の若者たちは、せめて自らの魅力を見せつけることで、クシナ本人に取り入ろうと、進んで田畑の手伝いを申し出るようになり――おかげで、今や老境にさしかかりつつあるニグィ一人しか男手がないにもかかわらず、彼の家の田畑は、どの一族のそれよりもよく耕され、手入れされているような有様なのである。
(「里の女」らしくなっていく一方、舟の操り方や交易について学びたがらぬようになりつつあるクシナを、アタカは気に入らぬようだ。トゥジになど、そうそうなれるものではない、つまらぬ夢を見ていないで、家の仕事をしっかり覚えよと、イライラを募らせておるのが、手に取るように分かる。だが……クシナが「里の女」になりたいというのであれば、それもよいではないか。これからアタカに男児が生まれれば、その子に交易の仕事を覚えさせればよい。さもなくば、アタカの弟の誰かに、交易の仕事を教え、譲ってもよい。クシナを交易係としてしっかり育てたい、と思うアタカの気持ちも分かる。が、当人にその気がなければ、いくら教え込んだとしても、身につくものではない。それより、そのようなことで、アタカとクシナの間がぎくしゃくする方が、私としてはより心配だ……)
畝を歩きながら、周囲に注意深い目を向け、わくらばを見つけては丁寧にむしり、葉を食う虫を見つけてはつまんでつぶししながら、ニグィはぼんやり、妻と娘の行く末について、ぼんやりと思いを巡らせていた。
ニグィも、若い頃は確かに、里の皆が就きたがらぬ「交易」という仕事を次代へと受け継ぐため、自分が仕事をきっちりこなすのはもちろんのこと、早いうちから後を継ぐ者の目星を付け、一から十まで仕込まなければならぬと、意気込み、躍起になっていた。が、年月を重ねるうち、ニグィの――交易に携わる者の里での地位は大きく変化した。それにつれて、里人たちの意識もゆるやかに変わってきつつある。
今現在のニグィは、押しも押されもせぬ「大人(里の有力者)」の一人であり、里の誰もが、彼の述べる意見に真剣に耳を貸すようになっている。そのこともあって、ニグィのものの見方も自ずから変わり、自分一人の力で何かをどうこうしようというより、里全体を見渡した上で、よりよい道を模索していく、という方向に傾くようになてきているのである。
(里人たち――ことに若い衆は、以前ほど、里の外に出るのを嫌がらぬようになってきている。中には、私やアタカが舟を操る姿を興味深そうに眺め、おそるおそる様々なことを尋ねてくる者もいる。そういった者たちに交易の手ほどきをしてやってもよい。私の家だけが交易係を務める、などといった決まり事など、どこにもないだからな……)
年寄りは、どうしても遅くできた子や、孫に甘くなる。そのように「娘」を甘やかしてもらっては困る、などとアタカは言いそうだが、そのアタカとて、わがままを貫き通して、十歳にもならぬうちから、ニグィの家へとやってきたのである。亡くなったワナといい、アタカといい、我が強く、自らの信念を曲げず生きていこうとするのは、トゥジの一族の女の、持って生まれた特性だ(なぜか当代トゥジだけは、その気質を受け継がなかったが)。であるなら、むげに頭を押さえつけるのではなく、クシナにも、生きていく道を自ら選ばせてやる方がよい――。
そんなことを考えていると、自然、脳裏には、まだ年若いというのに、里の誰にも負けぬしとやかな物腰で、朝晩律儀に丁寧なあいさつをするクシナの姿がありありと思い浮かび……ニグィはいつの間にか、にんまりと微笑んでいた(やはり、ニグィもかなりの部分、「親馬鹿」「爺馬鹿」に成り下がっているのかもしれない)。
と、そこへ。
里の集落――ムラの方から、ひどく青ざめた、しかしどこか期待に満ちた表情を浮かべた子供が、畑へと続く一本道を、一散に駆け上がってきた。
「ニグィ様!ニグィ様はいらっしゃいますか?」
何十回、何百回となく繰り返されても、いまだ「様」付けで名を呼ばれるのには慣れぬな、つい、誰か他の者を呼ばわっているのではないかと思ってしまう、などと一人苦笑しながらも
「ほい、どうした?私はここだが?」
明るく、ややひょうきんな感じで、呼びかけに答える。
が、相手の少年は、あくまで真剣な、思い詰めた声音だった。
「ニグィ様。トゥジ様や里の大人の方たちが、今すぐムラの広場まで来ていただきたいとおっしゃっております!」
「ほう?何かあったのかな?」
「それが……広場に見慣れぬ方々が見えていらっしゃるのです!」
「なに!?見慣れぬ者だと……そうか、わかった」
普段の穏やかな微笑に代わって、この上なく真剣な表情が、いつの間にか、面に浮かび上がっている。
ニグィは、手にしていた病葉を畦に投げ捨てると、ムラへの道を急ぎ下り始めた。
2
歩き着くよりはるか以前より、ニグィは、目的地である広場のど真ん中に、なんとも妙なものが鎮座していることに気がついていた。
基本の形は、荷を運ぶのに使う荷車によく似ている。が、その大きさが尋常ではない。広場を周囲を囲う家々と比べても引けを取らぬほどの巨大さなのである。しかもその上には、弓と、何やら長い棒状のものを持った人間が数人立っているのだから、重さもおそらく相当なもの。里では、車を引くのは男の役目だが、その男たちが数人よってたかって、ようやくわずかに動かせるであろうか、という重量感である。
大きくて頑丈だが、動かせないほど重いのであれば、なんの役にも立たないではないか、とも思うが、「招かれざる客」は現に、その車をムラの広場に持ってきている。それを可能にしているのが、車の前に数頭横並びにつながれた、熊よりも一回りほど小さな動物たちであろう。
しきりに長い首を上下に振り立て、長い頭を振り動かしている、その見慣れぬ動物は、4本の長い足の上に、人とは比べものにならぬほどに盛り上がった肩や尻を備えており、いかにも力強く見える。これならば、数頭の力で易々と、あの大きな車を疾駆させられるに違いない。
(あれは……間違いない、戦車だ。車台の上に三人、矛と弓で武装した戦士が乗っているのが、何よりの証拠だ。とすると、あの前にいるのが、うわさに聞く「馬」という動物だろうか……)
江沿いの里では通常、他の土地と行き来するときに、舟を使う。近隣の里とつながる道はあるものの、雨が多くじめじめした気候のせいで、道はところどころ水がたまっていたり、どろどろのぬかるみがあったりで、歩くのさえ苦労する。荷車でもって荷を運ぶこともないわけではないのだが、道を進んでいる最中ずっと、数人が荷車の周りにとりつき、ぬかるみや水たまりに車輪が沈むたび、泥だらけになって車体にとりつき、渾身の力を込めて、くぼみから車輪を脱出させなくてはならない。
「舟ならば、どれほど重い荷であろうと、流れや風に任せ、すい、と水の上を走らせれば、楽々と運んでいくことができるのに、なにを好き好んで道を行き、いらぬ苦労をしなければならないのか」ということで、このあたりの里人は、隣の里へ荷を運ぶのにも、通常は舟を利用する。自然、道を歩くのは、手土産を提げ、隣の里へと嫁いだ娘を訪ねる両親か、そうでなければ猿か狐ぐらいのものだけとなる。
だから、北方では皆が用いるという「馬」も、その馬を用いた乗り物であるという「馬車」も、ここでは無用の長物。周辺の里の誰一人として、そんなもの、目にしたことすらない。ましてや「戦車」などというものについては、耳にしたことすらもない、という者が大半で……かろうじて、遠く上流や下流の里に出かけることの多いニグィとアタカが、人のうわさに聞き知っている程度だ。
その馬と戦車が、あろうことか、里の広場に忽然と現れたのである。
里人にとっては、伝説上の生き物が降臨したどころの話ではなく、薄気味悪い陰が凝り固まってできた、触れることすらためらわれるような不気味な存在がいきなり出現した、としか思えぬに違いない。
(戦車だけではなく、歩兵も大勢連れてきているようだ。頼むから、どうか迂闊な真似をしないでおいてくれよ……)
ニグィは、祈るような思いを抱えつつ、さらに足を速めた。
息を切らせながら、ようやくムラへとたどり着き、広場の入り口へさしかかったところで、
「おお!ニグィどの!待ちかねましたよ!」
先代のトゥジ――引退した後も、女衆のまとめ役として、ますます里での発言力を強めている――が、すがりつきそうな勢いで走り寄ってきた。
「野良へ出ていると、隣の里からこの方たちがやってくると報告があったのです。初めてのこと故、どのようにすべきか分からず、とにかく皆を呼び集めているうち、うかうかとこのようなことになってしまって……」
申し訳なさそうに身をすくめる先代の手を、ニグィは力強く握った。
「いえいえ。むしろ、これがもっともよかったかと思います」
父祖の代より、争いごとといえば、里人同士のけんかか、せいぜい近隣の里に住む者たちとのちょっとした土地争い、水争い程度しか知らぬ、平和な里である。「いくさ」に備えてムラの周囲に空堀をもうけ、逆茂木を植えてあるとはいえ、里人たちのほとんどは、矛の持ち方さえ知らない。そこへやってきたのが、いくさに長けた兵。しかも、戦車一乗と、百名を下らぬ随伴の歩兵という、里を襲い、全滅させるに十分な人数だ。もしもムラの門を閉じ、抵抗の意思を示していようものなら、どのような目に遭わされたことか、分かったものではない。
(下手に逆らえば、我が父の故地のように、里を壊滅させられるかもしれぬ。それだけは、なんとしても避けねば……)
先代トゥジを背中に隠すようにして、招かれざる来客に――特に、その左端に立つ、立派な鎧兜を身にまとった男に真正面から向き合うと、ニグィはそのまま、戦車のすぐ前までずいっと歩を進め、深々と一礼した。
「貴顕なる方がお見えであるというのに、長らくお待たせしてしまい、誠に申し訳ございませぬ。里の外れの畑へ出ておりましたもので、老骨の弱った脚では、なにぶん時がかかりまして」
ややうつむいて、恭しく言上を述べると、鎧兜の男が、ピクリと眉を上げた。
このような草深い土地のこと、下卑た言葉しか知らぬ田舎者しかおらぬはず、と高をくくっていたのに、ニグィが北方風の礼にかなった振る舞いを見せたため、少し驚いているのである。
鎧兜の男は、面白くもなさそうな顔になると、顔を右側へと向け、かたわらに立つもう一人の男――おそらくは、この「戦車隊」の副官だろう――に、何事かささやいた。
右の男は何度もうなずきながら話を聞き、やおらニグィへ尊大な視線をむける。
「そなたが、この里の長か」
「いえ、私は長ではありませぬ。と申しますのも、我が里では、大事が起きたとき、主だったもの数人が話し合って舵を切る方向を決めるならい。長と呼ぶべき者は、この里にはいないのでございます」
正確に言えば、「長」はいないが、代々マツリを執り行うことで、里の精神的支柱となっている実質的指導者――「トゥジ」ならば存在する。が、この場でそのことを相手に教えてしまうのは悪手だ、とニグィは判断した。里の実質的な長がおり、しかもそれが女性だと知れれば、相手は途端にこちらを見下し、武力を背景にトゥジ一人を恫喝することで、極めて不利な条件を飲み込ませぬとも限らぬ、と踏んだのである。
命令一つで、その程度の荒事ならば眉一つ動かさずに行うであろう不穏さが、車上の上官からも、その後ろに従う兵士たちからも、じっとりと漂い出ているのだ。
中でも、もっとも危険そうな匂いを立ち上らせているのが、先ほど質問を発した副官であり、案の定この男、ニグィの返答を聞くなり、露骨に不機嫌そうな顔になった。
「里をまとめる者すらおらぬだと!このような地の果てまでわざわざ足を運んだというのに、話を聞かせるべき者すらおらぬと言うのか!」
声を荒げて咆吼する副官に、ニグィは、落ち着き払って返答する(彼の「怒り」は偽物にすぎず、単にこちらを威圧し、縮こまらせたいがために、大音声を発しているにすぎないことを、見抜いていたのである)。
「これは異な事をおっしゃる。このようにこの私が話を聞いているではございませんか」
「里の主導権を持たぬ者に話をしたとて、意味がないではないか!」
「なるほど。では、こちらとしても、あなた様とお話しするのは無駄、ということになりますな。皆様方の主導権を握っておられるのは、あなた様の隣にいらっしゃる方のようですし」
あくまで穏やかに、だがきっぱりとニグィが言い切ると、副官は「な……」と言ったきり、言葉が続けられず、絶句する。みるみるうちにその顔が朱に染まっていき、
「貴様!生意気な口を!」
矛を振りかぶったところで、
「よさぬか」
思いのほか甲高い、張りのある声で、鎧兜の男が副官を制した。
「今の一幕は、完全にこちらの負けだ。にもかかわらず、それを認めず、矛を振り立てて相手を傷つけたとなれば、ますます恥をさらすことになるではないか。なぜそれが分からぬ」
「しかしですな隊長殿、あのような物言いを許せば……」
「黙れ!私を笑いものにしたいのか!」
いらだちもあらわにぴしゃりとそう言い放つと、隊長は、しょんぼり肩を落としている副官には目もくれずに正面へと向き直り、ゆっくりかぶとを取った。
現れたのは、つるりとしわのない、まだ幾分幼さの名残さえ見受けられる、青年になりたて、という風情の顔だった。
(ふむ。若い。あの若さで隊長ということは、おそらく、力ある家の若君といったところか……)
あいかわらず穏やかな微笑みを浮かべながらも、その後ろに隠された冷徹な「商人の目」で、ニグィはさりげなく相手を値踏みする。その彼に向かって、隊長は、にこり、と笑みを投げてよこした。
「部下の者が、大変失礼をした。どうかこの私に免じて、非礼を許してやってほしい」
「いえいえ、こちらの方こそ、大変失礼いたしました」
お互いに頭を下げたところで――ただし、ニグィが左拳を右手で包み、そのまま高く持ち上げ、同時に頭を深々と下げたのに対し、相手は軽くうなずく程度に頭を傾けただけだったが――隊長は、再び強い光を発する目で、しっかりとニグィを見据えた。
「私は、張という者だ。我が主である安王のもとで、百人隊長を務めている」
「これはご丁寧に。私は、この里の「大人」の一人で、ニグィと申します。以後、お見知りおきをお願いいたします。して、張隊長殿は、一体どのような要件で、この静かな里へとおいでになったのでございましょう?」
「うむ。他でもない、そのことだ。私は、我が主の命により、この里へ合力を求めに参ったのだ」
やはり、そうであったかと、ニグィは心の中で、ひどく渋い顔になった。
が、顔色はあくまで穏やかな笑みを浮かべたまま、相手の言うことに純粋な好奇心を抱いているかのように、小首をかしげてみせる。それに気をよくしたのか、隊長は、熱心な口調で先を続ける。
「知っているかどうか分からぬが、この地の北方に、「楚」という大きな国がある。残忍極まりない王に率いられた、暴虐この上ない国でな。近隣の地に攻め入っては、貪欲な狼のごとく民を殺し、女を犯し、家々を燃やし、あらゆるものを奪いとっていく。我が祖国「昭」も、楚の恐ろしい大軍の前に、武運つたなく敗れ、滅ぼされた。中原の諸国にも名が聞こえた、古き伝統と文化を持つ、素晴らしい国であったというのに……」
祖国の最後の刻を思い出しているのだろう、隊長は、悲痛な顔つきで、しばし目をつぶる。
やがて、その目をかっと見開くと、
「しかし、天は我らを見捨ててはいなかった。亡き王の第三子であった安王が、我ら側近とともに、からくも都を脱出することに成功したのだ。その後、長き日々にわたり、様々な土地を流浪し、苦難の日々を過ごしたが、昨今とうとう、この江南に安住の地を手にした。長き苦労の末、王子は即位なさって安王となり、再び「昭」を建国なさったのだ!」
ぎらぎらと興奮に目を輝かせ、つばを飛ばして、隊長は熱弁する。
その言葉を、いかにも感心した、という顔で聞きながら、腹の中では「ふむ、ここより北の地にある里のどれかを襲い、土地を奪い取ったか。やっていることは、ソと変わらないではないか」と、あくまでも突き放した、冷ややかな目で、相手を見つめている。が、隊長は、その目つきにも気がつかず、自分の言葉に酔っているかのように、熱弁を振るい続ける。
「建国の目的はただ一つ。楚への復讐だ。一度は敗れたとはいえ、それは奴らの圧倒的戦力の前に膝を屈さざるを得なかった、というだけのこと。将の技倆や兵の意気の高さでは、我らはむしろ、奴らに勝っていた!ならば、奴らに引けを取らぬだけの戦力を揃え、戦を挑めば、赤子の手をひねるように奴らを蹴散らせるはずだ。いや、必ずそうなる!父祖の土地を奪い、家族を殺した奴らを、同じ目に遭わせ、もう一度、昭の名を、安王の名を中原へと知らしめ、未来永劫安泰な、強大な国家を築き上げる!そのために、是が非でも我らに合力願いたいのだ!」
最後は、ほぼ絶叫する勢いで、一気に言葉を吐き出すと、隊長は何度も何度も、荒い息をついた。
血走った目でこちらを真っ向から見据える隊長に対し、あくまで穏やかに、さも相手を気遣っているかのような口調で、ニグィは、ゆっくり口を開いた。
「さぞかしお辛い経験をされてこられたのでしょうな。このニグィ、まずは昭の先王様及び、民の皆様に、心より哀悼の意を申し上げます」
先ほどと同じ、北方風の最敬礼でもって、まずは深々と相手に頭を下げた後で、ニグィは、やおら顔を上げた。
「自らの身を捨ててまでソを討ち、故地の皆様の敵を討つのだという、隊長殿の強い心持ち、なんと素晴らしいことか。昭の皆様がそのように崇高で、気高い理想を掲げ、一心になってことに及べば、必ずや悲願達成なるに相違ございません」
「うむ。我ら一応、そのように固く信じている。では、そなたたちも我らに……」
「合力、の件でございますな?ええ、ええ、私としては、合力させていただきたいと考えております。しかしながら、先ほど申し上げたとおり、我が里で、大事は必ず、主だった者が集まり、話し合って決めるのがならい。まことに残念ながら、今この場で、私の一存では、合力を決められぬのでございます」
「では、どうせよというのだ!」
「どうか、明日まで返答の猶予をお与えくださいまし。我らはこれよりすぐ、里の大人を集め、話し合いに入りまする。その結果が出ますのが、おそらく……」
「なぜそれほどまでに時間がかかるのだ!そなた、我らの志に感銘を受けたというたではないか!ならば、そなたが熱弁を振るい、里のものを説得してくれれば……」
「もちろん、そのようにいたす所存でございます。ですが、残念ながら、ことはそう簡単ではございませぬ。と申しますのも、我が里人の多くは、里からほとんど出たことのない、世事に疎いものばかりなのでございます。ですから、いかなわたくしが、是が非でも合力すべき、と述べたところで、なかなか首を縦に振りはいたしません。合力することによってこそ、我らにも多くの恩恵がもたらされるということを、時間をかけて、じっくり納得させなければならぬのです」
「ふむ……では、私もその話し合いの席に参加しようではないか。そこで、我が安王がどれほど情け深く、民草を大事になさる方か、戦に勝った暁には、どれほど多くの恩賞を授けてくださる方か、じっくり話して聞かせよう」
「おお、それはかたじけないことでございます!」
「なに、その程度のこと、わけはない」
「まことに張隊長殿は、できたお方でいらっしゃる。その隊長殿が忠義を尽くす安王様も、きっと素晴らしいお方なのでしょうね」
感激で胸があふれそうだ、といわんばかりの口調で水を向けると、ねらい通り、隊長はぐっと胸を反らし、とくとくとした様子になった。
「あの方は、まさに君子そのものだ。慈悲深く、聡明で、昭国再建の悲願のためならば、どのようなことでも受け入れる覚悟でいらっしゃる。よいか、あの方はな、そなたらの里を支配するだけではなく、そなたら化外の民を兵として取り立て、働きいかんによっては、隊長や、あるいは将官にまでなし上げなさるとおっしゃっておるのだ。ありがたいことだと思わぬか?このように粗末な家に住み、土を耕し、コメなどという下賤な食い物を作るしか能のないそなたらが、あるいは数万の軍を率いる将となり、あるいは王の側近くに仕える大官になれるやも知れぬのだぞ」
「なんと!それはまことでございますか!」
「うむ。それほどまでに懐の深いお方なのだ、安王様はな……」
張隊長がうっとりと遠くを見る目になったところで、ニグィは再び、静かに口を開いた。
「それほどまでに素晴らしい方にお仕えできると分かれば、いかに世間を知らぬ我が里人とて、合力に異を唱える者はおりますまい。ぜひとも、寄り合いの席で、もう一度今の話をお聞かせください」
「うむ、心得た」
「ただ、寄り合いのはじめから同席なさいますと、里人の中には、それほどまでに合力を希求しておるのかと、隊長殿を、ひいては安王様を低く考える輩が出ぬとも限りませぬ。ですから、まずはこのわたくしが弁を奮い、合力の理を説いた後、頃合いを見計らって参加していただくのがよろしいかと存じます」
「うむ。なるほど」
「それまでの間は、別に宴の席をもうけさせていただきます。このような地の果ての、ろくに礼儀もわきまえぬ里のことゆえ、至らぬこととは存じますが、精一杯のおもてなしをさせていただきますので、隊長殿はもちろん、副長殿も、兵の皆様にも、まずはゆるりとおくつろぎいただき、遠路はるばる、このような化外の里までいらっしゃっていただいた疲れを癒やしていただければと。その後、満を持して……」
「寄り合いに赴けばいいのだな。あい分かった」
すっかり気分をくつろがせたのか、張隊長は、いかにも良家の子弟らしく、鷹揚にうなずいた。
相手の体から、生まれながらに人の上に立ってきたもの特有の、無意識の傲慢さがにじみ出てきたのを確認したところで、ニグィは深々と相手に一礼すると、やおらきびすを返し、
「皆のもの!昭国からの客人を寄り合いに使う大家へと案内せよ!残りのものは、宴の準備じゃ!倉を開き、コメと、酒と、菜を運び出し、煮炊きの準備をせよ!」
固唾を呑んで二人のやりとりを見つめていた里人たちに、大音声で呼びかけたのだった。
「合力せざるを得ないでしょうな」
不安に満ちた目でじっとニグィを見つめていた若きトゥジは、その言葉を耳にするやいなや、信じられない、といわんばかりに大きく目を見開き、みるみる涙をあふれさせはじめた。
「ニグィどの。なんとかならぬのですか?我らは、遙か昔、この場所に住み着き、里を開いた父祖の頃よりずっと、自らのことは自らで決めてきました。それを、いきなりやってきた、どこのものとも知れぬよそ者に従い、里の運命を託すなど……」
先代のトゥジが、途方に暮れてうなだれている当代になり代わり、里人の意向を代弁する形で、ニグィに訴えかける。が……先代もやはり狼狽しているのか、言わなくてもいいことを口走っていることに気がつかない。
ニグィは、疲れたような笑顔を浮かべ、穏やかに先代を見返した。
「よそ者ということでしたら、私とて同じ。よそ者の息子なのですから」
「まああ!な、なにを言われるのです!確かに、お父上はよそから参られた方かもしれませぬ!しかし、ニグィどのは……」
大慌てで言葉を取り繕おうとする先代を微笑で制し、ニグィは、ゆっくりと口を開いた。
「もちろん、元はよそ者とはいえ、今ではこの里こそ、我がふるさとだと思っております。そして、おそらくあの者たちも、私と同じく、この里を――この辺り一帯を新しき故郷にするつもりで、この地にやってきたように、私には思われます」
「つまり、かの者たちも、ニグィ殿と同じく、やがて里人になる心づもりでおるのだから、合力すべきだと?」
「いいえ、そうではございませぬ。合力しなければ、里人皆の命が危ういからでございます」
トゥジの屋敷に寄り合い、ニグィを囲んで車座になっていた「大人」――里の有力者たちが、一斉に息をのんだ。
「皆の衆、かの者たちのかんばせを、近くでご覧になりましたか?張隊長はもちろん、副長も、部下の兵たちも皆、とっくに成人を迎えておるというのに、入れ墨のない、白々としたかんばせをしております」
「それがどうかしたのか?入れ墨さえ入れられぬ臆病者だといいたいのか?」
「この地では、まことにその通り。ですが、かの者たちは、臆病だから入れ墨を入れぬのではございませぬ。私が聞いた話によれば、はるか北には、入れ墨は罪人の印であり、好き好んで顔に文様を刻むのは蛮族の証拠だと考える者たちがいるとか」
「なんと!信じられぬ!」
「かの者たちはおそらく、そのような地からはるばるやってきた、正真正銘のよそ者。我らを蛮族と考えている者たちでございましょう」
「蛮族だと!いきなりやってきて合力せよと迫る奴らの方が、よほど野蛮ではないか!」
有力者の一人が顔を真っ赤にして大声をあげると、
「その通りじゃ!我らをさげすみ、おとしめておるような輩に、なぜ合力せねばならぬ!」
「きっぱり、合力など断るべきだ!」
数人が声を合わせ、同調する。
ニグィは、すかさず
「合力を断れば、我らは皆殺しになりますぞ!」
叱りつけるような調子で、皆を強くたしなめた。
場がひっそりと静まったところで、再び穏やかに口調を戻し、
「奴らにとって、我らは蛮族。土地に元から住み着いている虫けらと変わらぬ存在でございます。下手に逆らえば、害虫と同じく、躊躇なくひねり潰されます。生きながらえようと思うならば、合力するより他、方法はありませぬ」
「しかし……しかしだな、それならば、たとえ生きながらえたとしても、奴ら、我らを虫けら同様に扱うのではないか?次々と無理難題を押しつけて、逆らえば皆殺しにすると脅して……」
「ええ。まさしく、その通りになるでしょうな」
ニグィは、里人たちを待ち受ける過酷な運命を、淡々と、まっすぐに告げた。
「かの者たちは、里の収穫の大半を取り上げ、持ち去っていくはず。そればかりか、労役と称し、なにか計画が持ち上がるたび、多くの里人を連れ去り、働かせるはずです。やがて時至れば戦場にもかり出され、多くの者が生きて再びこの里に帰ることなく命を落とすことになります。さらに、運悪くこの里が戦場ともなれば、田畑は踏み荒らされ、家々は焼かれ、敵はおろか、味方の兵にまで追い回され、殺されることにもなりましょう」
「なんと……」
方々の里で聞き集めたうわさをとりまとめて告げると、居合わせた里人たちの顔は驚愕と絶望とにこわばる。
トゥジが再び、さめざめと泣き始めた。
「そのようなひどい運命を里人に――我らの子や孫に押しつけるくらいなら、いっそ今この場で皆、里とともに滅んでしまった方が……」
「なりませぬ」
「しかし」
「里とは――この地のことではございませぬ。里とは、人。田畑が踏みにじられ、家々が焼かれ、なにもかも奪われようとも、里人さえ生きて、命をつなぎ続ければ、里は続いていきまする。我が父ウォシムが元いた里より逃げ出し、この地で命をつないだように、たとえ里を追われたとしても、流れ着いた先で契りを結び、子をなし、根づけば、里は続いていきまする。それが、我ら弱いものの精一杯の生き方なのです」
里人の多くは、里――父祖伝来のこの土地と、自分たち里人とを、切っても切れない運命共同体だと、頭から思い込んでいる。だが、違うのだ。たとえ土地を失くし、無一物となっても、命さえあれば、再生するのだ――「よそ者の息子」として、ニグィは皆にそう伝えたかったのである。その気持ちがいかほど伝わったのか、定かではないが……先代も、他の大人たちも、不承不承ながら、とりあえずの意図は、理解してくれたようだった。
トゥジも泣くのをやめ、疲れたような諦めたような表情で、じっと床を見つめている。
その様子を見て取ったところで、ニグィ自身も、疲れたため息をもらした。
「間もなくここに、敵の隊長殿がやってこられ、合力の利について、様々語りきかせるはずです。皆様は、それを聞き、いかにも心動かされたように振る舞っていただきたい。そして、明日には隊長の前で、里人全てが恭順し、喜んで合力する、と誓い……時を稼ぐのです。しばらくの間――少なくとも数年の間は、下りてくる命に素直に従い、全力でクニに仕え、信頼を勝ち取り……その間に、どうすれば里に――里人にとってもっとも良い明日がひらけるのか、ひそかに考え、計画を進めていく。今は、それより他、取るべき道はございません。これよりしばらく、今までに経験したことのない受難の時を、皆に耐え忍んでもらわねばなりません。まことに、まことに申し訳ございませぬ……」
深々と頭を下げるニグィの背中に、ふっと温かいものが触れた。
見ると、先代がゆっくりと手で背中をさすりつつ、強い意志のこもった目で、じっとニグィを見つめている。
ニグィは、打ちひしがれた表情で、それでも目をそらすことなく、彼女の視線をしっかりと受け止め、力なく笑ったのだった。
3
「どうすれば良い明日がひらけるのか考え、計画を進める」などと、いかにも腹案があるようなことを言ったニグィであったが、実をいえば、この先の方針など、まるっきり見えていなかった。
あの後、里の大人の寄り合いやってきた張隊長、里人たちの振る舞った神酒で舌がなめらかになったこともあってか、いかに自分のクニが素晴らしいところであったか、いかに自分の担ぐ「おう」が偉大な人物であるか、延々と語った上、このような素晴らしい「おう」の民となることが、どれほど幸運で幸福なことか、目を潤ませ、感極まった様子で力説したのだった。
「よいか。クニの民となれば、敵に攻められる心配をする必要がなくなる。敵に攻め込まれた時ばかりではないぞ。野盗や流民、盗賊が襲いかかってきても、我々軍隊がすぐに駆けつけ、撃退する。そなたらは安心して土を耕し、作物を作ることができるようになるのだ」
こんなによいことはあるまい、といわんばかりにご満悦な笑顔を見せる隊長に、大人たちは迎合の笑顔で応じたのだが、その内心では、明らかに頭をひねっていた。
ソのクニと境を接しているならまだしも、この里は江の下流域。紛争地帯からははるかに隔たった場所にある。敵に攻められると言われても、どうにもピンとこない。野盗や盗賊の害がないわけでもなかったが、それとて数年に一度、畑を襲われるぐらいで、獣や虫の害に比べたら、微々たるもの。その害を排するために、隊長のいうような「収穫の半分を、感謝の印として差し出す」必要など、まるで感られないのである。
さらに隊長は、
「クニが建ち、多くの里が一つになって、道を整備すれば、それらからどんどん物珍しいもの、進んだもの、生活に便利なものがもたらされるようになる。そなたらの生活もどんどん楽に、豊かになるぞ。それだけではない。働きがよく、見所があるものは、都にて王に仕えることも可能になるのだ!」
これ以上の名誉はあるまいといわんばかりに里人たちの顔を見回したのだが、これも、彼らの内心をより冷やすだけの結果に終わった。
前にも述べたが、道に手を加えないのは、それを行う力がないからではない。江と舟があれば、道がなくとも用が足りるので、あえて苦労してまで整備しようとは思わなかっただけのことだ。ウォシムやニグィら、交易を担当する者たちの尽力により、他の里からの文物も、かなり里へ流入している。北からの文物こそ少ないものの、それを手に入れたいがために、わざわざ苦労に苦労を重ね、じめじめした土地を干し乾かし、草を抜き土を固めて道を整える労苦を背負う気になるか、と問われれば、正直あまり気が進まない。むしろ、道を整えれば整えるほど、北からの敵の侵入をたやすくし、里の安全を脅かすことになるのではという懸念すら思い浮かぶ。「里の暮らしを守るためなのだから、当然手空きの時期には、男たち皆、手を貸してもらわねばならぬがな」という隊長の求めを快く受け入れるほどの価値を見いだせることではない。ましてや、生まれてこの方ずっと里で暮らすのが当然、それ以外の暮らしなど考えたこともない、という里人たちにとって、住み慣れた里を出て、どこの誰とも分からぬ男に仕えることに、不安を覚えこそすれ、魅力を感じるわけがない。
結局、隊長の申し出は、里人たちにとってひたすら労苦を強いるだけの――申し出をはねつける力さえあれば、決して受け入れることなどないものでしかなかったのである。
(合力という言葉で飾ってはいるものの、奴らは実質我らを「支配」するつもりだ。条件として出してきた租税と賦役だけをとっても、我らを容赦なく絞るつもりでいることは明白。これまでのような豊かな暮らしは、この先望めぬであろうな。しかも、おそらくはそれだけではない……)
里が交易によって潤っている、ということが分かれば、手にした財物までごっそり取り上げようとするかもしれない。それどころか、特産品そのものを取り上げ、そこから得られる利益を自分たちで独占する、ということすら、十分あり得る。
(いくさのない年ですら、準備といっては毎年のように里人を狩りだし、体を休める暇すらなくこき使い、収穫をごっそりさらってゆく。これが、いくさともなれば……)
若い男たちは根こそぎかり出され……そのうち多くのものが、二度と戻ってこられなくなるに違いない。
(それでも、我らはおとなしく従うより他、仕方がない。文句を言ったり逆らったりすれば、我が父の里同様、ムラを焼かれ、皆殺しにされるのは目に見えている。里の全てが人質に取られているようなものだ……)
八方塞がりである。
このままでは里の衰亡は必至だが、そうかといって、これといった打開策はなにひとつ思い浮かばない。里が徐々にやせ細り、しなびていくのを、手をこまねいて見ているより他ないのである……。
「もどかしくてならぬよ。里の大人として、なんとかせねばならぬというのに、なにひとつ妙案が思い浮かばない。自らの力のなさが、本当に情けなくてな……」
ニグィが力なく笑いかけた相手は、ヤズである。
過重な負担にあえぎながらも、自分を信じて里の運命を託してくれた里人たちには――特に先代トゥジには――こんな打ち明け話をするわけにはいかない。豊富な経験と豊かな知恵により里を導く「大人」である自分が、実はこの先の方策どころか、ほんのわずかな希望すら見いだせておらず、やがて来る陰鬱な未来にひたすら恐れおののいているだけだと分かれば、里人たちがどのような挙に出るか、分かったものではないからだ。
である以上、必然的に、心中の不安を吐露する相手は、里人たちとは直接関わることのない親友――ヤズということになる。
ということで、張隊長率いる一隊が里を訪れ、多大なる年貢を徴収して立ち去ったその年の冬、いつものように交易に出かけた下流の里で、ニグィは、不安に満ちた胸の内を、夕餉のたき火に顔をあぶられながら、ヤズに語り聞かせていたのである。
「今年の冬は、都の壁を作らねばならぬから、いうことで、ムラの男の三人に一人がかり出され、連れて行かれました。幸い、幾度か交易の手伝いに出て、里の外に出ることにも慣れている私の弟の一人、ホヒも行くことになりましたので、きっと里人たちの不安を鎮め、うまくまとめてくれてはいるものと思うのですが、それでも、慣れぬ土地で厳しい仕事に携わらねばならぬことに変わりはございませぬ。みな、体を壊すことなく、無事に帰ってきてくだされば良いのですが……」
同じように火を見つめながら、アタカも沈んだ顔で言葉を補う。賦役にかり出された里の同世代の男たち――ことに、自分の弟が、見知らぬ土地でどれほど苦労を強いられているのか、心配でたまらないのである。
が……深い心痛がはっきり顔に刻まれ、じっとり重苦しい雰囲気のニグィらとは対照的に、ヤズやマダカの顔には、あっけらかんと明るい、単純な困惑のみが浮かんでいた。
「うむ……ニグィよ。そなたのいうことはおそらく分かった、と思う。だが、分からぬ」
「分かったが分からぬとは、どういうことかな」
「そなたのムラ……里が、あらがうことのできぬほど強い敵に襲われ、これより先、意のままにされてしまうであろうということは分かった。分からぬのは、それほどまでにつらく厳しい暮らしを強いられるのであれば、なぜ逃げぬのか、ということだ」
当然なすべきことをなぜしないのか、まったくもって理解に苦しむ、といわんばかりの口調で、なんとも不思議そうなヤズ。息子のマダカも何度も深くうなずき、目を丸くしてじっとニグィらを見つめている。
どうやら彼らは、いやな支配者の統べる土地からなぜ逃げ出さないのか、本当にその理由が分からないらしい。
ニグィは、思わずアタカと顔を見合わせた。
(さて、どう答えれば分かってもらえるのか……)
二人のあまりに純な反応に内心ため息をつきながら、ゆっくりと口を開く。
「逃げられは、せぬよ」
「なぜだ?ムラに恐ろしい見張りの者でもいて、逃げ出さぬよう、目を光らせているのか?」
「いや、そういうことではない。我らは、里を見捨てて逃げられぬ、ということだ」
「なぜだ?住みにくい土地など、さっさと立ち去った方がよいではないか」
「そうはいかぬ。里には、父の父の、ずっと前の父祖から受け継ぎ、守ってきた田畑があるでな。我らは、田畑を耕し、そこに作物を植え育てて生きる者。それなしでは、生きていくことができぬのだ」
「しかし、せっかく田畑を耕し、作物を手にしても、その半分を差し出さねばならぬのならば、いくら働いたところで、無駄骨ではないか。ならば、そのような土地など見捨てて、新たな土地で田畑を開けば……」
「新たな土地など、どこにあるというのだ。江沿いの、田を作ることのできる場所には、必ず里がある。江から別れ、北へと走る支流もいくつかあるが、それとて同じこと。どれほど江を遡っても、よい土地には必ず人が住み着いておる。その土地を奪い取ることなど、我らにはできぬ。どこにも、逃げ場などない。どれほど絞られ、むしられ、痛めつけられようと、我らは我らの里に住み続けるより他、ないのだ……」
ここまで言えば、さすがに自分たちの置かれたつらい状況を理解してもらえただろう、と思い、ニグィはそっと、ヤズの顔色をうかがった。が……それでもなお、彼らの顔には深い同情も、心の底からの共感も、見受けられない。その面に現れているのは、むしろ、子供同士のちょっとした諍いを相談された年長者の顔に浮かぶのによく似た――なにをつまらぬことで悩んでいるのか、それならばこのようにすればよいではないか、といわんばかりの表情であった。
(我らの窮状を理解しながら、それでも、たいした問題ではないとヤズには思える、ということなのか?いや、しかし、土地を奪われる以上に恐ろしいことなど……)
彼らの考えがどうにも読めず、ややおろおろと考えを巡らせているところへ、ヤズがゆっくりと口を開いた。
「ニグィよ。確認したいのだが……そなたらが今の土地を逃げ出したくとも逃げ出せないのは、新たに住み着き、田畑を開く土地がないからなのだな?この里のような、水の流れのそばの、じめっとした低い土地で、誰も住み着いておらぬところ――収穫の半分を差し出せ、などという無体なことをいう者がいない地があれば、そちらで新たに田畑を開き、暮らしたいと思っているのだな?」
ニグィは、ヤズの顔をしばし、じっと見つめた。
からかわれているかと思ったのである。が、彼はいたって真面目な顔で、じっとニグィの返答を待っている。
ニグィは、この上なく困惑しながら、かすかに二度、三度とうなずいた。
「ああ……うむ……まあ、確かにそうだ。我らにとってそのような都合のよい場所など、まずないとは思うが……そうだな、そのような場所があれば、里を離れ、移り住みたいものだな」
この言葉に、ヤズもこくこくと数回、首を上下させる。
「あい分かった。ニグィよ、まことに申し訳ないが、一年、待ってはもらえぬか。今はなにも、そなたに言うことはできぬが……一年後、再びこの地で会うとき、もしかすると、そなたたちの未来に関わる話ができるかもしれぬ」
「……そうか」
「うむ。そうだ」
一応返答はしたものの、ニグィの困惑は、ますます深まるばかりだった。
(はて、我が友は一体、なにを言いたいのか。なにをどうしたところで、我らの状況を一挙に打開する策など、そうそうありはしないというのに。まあ……ヤズもおそらくは、弱っている私を力づけようと思って、たいした当てがあるわけでもなく、思わず「一年」と口にしただけであろう。その心遣いだけでも、ありがたく受け取っておこうではないか……)
そんなふうに思いを巡らすと、ニグィは、額に刻まれた深いしわをふうっと解き、力のない笑みを、その顔に浮かべた。
「一年後だな。分かった。よろしく頼む」
ヤズは、真面目くさった表情でうなずくと、任せておけ、といわんばかりに、自らの胸を拳で軽く叩いたのだった。




