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あの場所へ  作者: ナオ
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25/25

25話 ひとり分の席

 シートベルトが差し込まれる音は、短かった。


 カチッ。


 たったそれだけだった。


 けれど、午前1時を過ぎたホテルの部屋で聞くには、十分すぎる音だった。


 ナオのスマホには、立体駐車場に停めた車から送られた通知が表示されている。


 車内で音を検知しました。


 その下に、自動保存された1秒間の音声。


 誰も再生ボタンを押していないのに、一度だけ流れた。


 後部座席中央のシートベルトが、バックルへ差し込まれる音。


 車の中央席には、大きなペットボトルを数本まとめて置いてある。


 誰も座れる状態ではない。


 シートベルトは、その荷物を固定するためにナオが締めたはずだった。


 ミカはベッドの上で毛布を胸元まで引き上げていた。


「今の、車だよね」


「ああ」


 ナオが答える。


「でも、シートベルトはもう締めてたよね?」


「締めた」


「じゃあ、もう1本あるの?」


「中央席には1本だけだ」


 リュウはスマホの画面を見た。


「外れたあと、もう一回締まったってことか」


 ミカがすぐに言う。


「見に行かないよね?」


「今夜は行かない」


 ナオは迷わず答えた。


 昨日までなら、自分の目で確認しようとしたかもしれない。


 だが今は、何かに反応すること自体が、相手へ意思を返すように思えた。


 サチは窓の方を見た。


 カーテンは閉じている。


 その向こうに海はない。


 車が停まっている立体駐車場も見えない。


「朝まで待とう」


「うん」


 ミカは小さく頷いた。


「今日はもう、何が鳴っても待とう」


 そのあと、通知は来なかった。


 誰も熟睡はできなかったが、夜は静かに過ぎた。


 朝6時を過ぎる頃、カーテンの隙間から白い光が入ってきた。


 ミカは目を開けると、しばらく天井を見ていた。


 それから最初に言った。


「まだ千葉に来て2日くらいだよね」


「そうだな」


 リュウが答える。


「もう1週間くらいいる気がする」


「濃いからな」


「濃すぎ」


 サチはベッドから起き上がり、スマホで時間を確認した。


「朝ご飯を食べてから行く?」


 ミカは迷った。


「先に車を見たい。でも見たくない」


「どっちだよ」


 リュウが少し笑う。


「見ないままご飯食べるのも落ち着かないし、見たら食べられなくなるかもしれない」


「それは困るな」


 ナオが言った。


「食べる方なの?」


「朝は食べた方がいい」


 ミカは少しだけ笑った。


「ナオさんらしい」


 結局、先に車を確認することにした。


 4人で部屋を出る。


 朝の廊下は明るく、清掃スタッフが動き始めていた。


 エレベーターを降り、立体駐車場へ続く通路へ向かう。


 ホテルのロビーから離れるにつれ、音が減っていった。


 コンクリートの壁。


 蛍光灯。


 靴音の反響。


 駐車場へ出るドアの前で、ミカが止まった。


「ナオさんが最初」


「分かった」


 ナオが扉を開ける。


 立体駐車場の空気は冷えていた。


 外の風は入らない。


 それでも、どこか湿っているように感じる。


 車は昨夜と同じ場所に停まっていた。


 見た目には異常がない。


 タイヤも正常。


 窓も閉まっている。


 周囲の床に水はない。


 サチが少し安心したように息を吐く。


「普通に見えるね」


「見えるだけかもしれないけど」


 ミカが言った。


「朝から怖いこと言うな」


 リュウが返す。


「リュウさんだって思ってるでしょ」


「思ってるけど言わなかった」


 ナオは車の側面を見ながら近づいた。


 中央席のシートベルトは、外からでは確認できない。


 後部座席の窓は少し暗く、車内が見えにくい。


 ナオがロックを解除する。


 電子音が駐車場へ響いた。


 誰も驚かなかった。


 昨日の朝で少し慣れたらしい。


 まず運転席。


 次に助手席。


 異常はない。


 リュウが左後ろのドアを開ける。


 ミカはサチの隣から覗いていた。


 中央席には、ペットボトルを入れた袋が置かれている。


 だが、その位置が変わっていた。


 昨夜は座席の中央へ置き、シートベルトで固定した。


 今は袋が右側へ傾き、半分ほど床へ落ちかけている。


 シートベルトはバックルへ差し込まれていた。


「締まってる」


 サチが言った。


「外れて、締め直されたんじゃないの?」


 ミカの声が小さくなる。


 リュウはシートベルトの状態を確認した。


 ベルトは荷物の上を通っていない。


 荷物だけが横へ押しのけられ、ベルトは空の中央席を斜めに横切っている。


 誰かがそこへ座り、自分の体へかけたような形だった。


「これは、荷物を固定してないな」


 リュウが低い声で言う。


「ああ」


 ナオが答えた。


 ミカは車へ近づかなかった。


「降りてないんだ」


「まだ中央席にいるつもりなのかもな」


 リュウの言葉に、ミカが顔をしかめる。


「そういうの、もう少し柔らかく言えない?」


「これ以上どう言えばいいんだよ」


 サチが中央席を見ながら言った。


「ここに座る理由があるのかな」


「乗りたいんじゃなくて、座っていたい?」


 ミカが聞く。


「同じじゃない?」


「少し違う気がする」


 サチは続けた。


「どこかへ連れていってほしいなら、もっと別のことをするかもしれない。でもこの人は、ずっとシートベルトを締めてる」


「この人って言った」


 ミカが反応する。


「人だったのかもしれないから」


 ナオは中央席の床を確認した。


 砂はない。


 海藻もない。


 座席も濡れていない。


 だがシートの表面に、丸いへこみが残っている。


 中央の座面。


 誰かが長い間座っていたように、クッションが少し沈んでいた。


 ナオは触れずに写真を撮った。


 その時、車のスピーカーから小さな音がした。


 ザーッ。


 ラジオは切れている。


 エンジンもかかっていない。


 スマホも接続されていない。


 それでも、スピーカーから微かな雑音が続いた。


 ミカがサチの腕をつかんだ。


「何?」


「車から離れよう」


 ナオが言った。


 4人が数歩下がる。


 雑音はまだ続いている。


 やがて、その中に別の音が混じった。


 人の声ではない。


 水の音。


 小さな波が、硬い壁へ当たるような音。


 ちゃぷ。


 ちゃぷ。


 一定ではない。


 遠くで聞く港の音に近かった。


 立体駐車場には、水場はない。


 スピーカーの音が少し大きくなる。


 そして、短い声が混じった。


「……席」


 女とも男とも分からない。


 掠れていて、息が抜けるような声だった。


 ミカが後ろへ下がった。


「今、しゃべった」


「ああ」


 リュウも聞いている。


 再び雑音。


「……席が」


 そこで音は途切れた。


 車内は静かになった。


 ミカは口元を押さえていた。


「席が、何?」


 誰も答えられない。


 席がない。


 席が違う。


 席が空いている。


 あるいは、別の言葉だったのかもしれない。


 ナオはスマホを確認した。


 録音はしていなかった。


 駐車監視にも、今の音声は保存されていない。


 リュウが言った。


「もう一度鳴るの待つか?」


「待たない」


 ナオはすぐに答えた。


「一度、車を外へ出す」


「乗るの?」


 ミカが聞く。


「俺とリュウだけで動かす。サチとミカはロビーで待ってて」


「2人で大丈夫?」


 サチが心配そうに見る。


「人が多い場所へ出すだけだ」


 ミカは少し迷ったが、今回は反対しなかった。


「中央席、見ないでね」


「運転しながら見ない」


「そうじゃなくて、振り返らないで」


「分かった」


 サチとミカはホテルのロビーへ戻った。


 ナオとリュウは車へ乗る。


 リュウは助手席。


 後部座席には誰も座らない。


 中央のシートベルトは締まったままだ。


 ナオがエンジンをかける。


 問題なく始動した。


 カーナビも正常。


 スピーカーから音は出ない。


 ゆっくりと駐車区画を出る。


 立体駐車場のスロープを下っていく。


 リュウは前を見たまま言った。


「後ろ、気になるな」


「見るな」


「分かってる」


 車が曲がるたび、後部座席からシートが軋む音がした。


 荷物はない。


 いつもなら気にならない程度の音。


 だが今は、誰かの体が左右へ揺れているように聞こえる。


 リュウは膝の上で拳を握っていた。


「ナオ」


「何だ」


「バックミラー、見えてるか?」


「見えてる」


「何かいる?」


 ナオは答えるまでに少し間を置いた。


「中央のヘッドレストの下が暗い」


「影か?」


「そう思いたい」


 リュウは振り返らなかった。


 スロープを下り、出口が見える。


 朝の光が差し込んでいる。


 車が外へ出る直前。


 後部座席から声がした。


「そこじゃない」


 今度ははっきり聞こえた。


 女性の声だった。


 若くも年老いてもいない。


 濡れた喉で無理に声を出したような響き。


 リュウが息を止める。


 ナオはブレーキを踏まなかった。


 そのまま外へ出る。


 明るい道路。


 走る車。


 歩道の人。


 後ろの声は、それきり聞こえなかった。


 ナオはホテル近くのコンビニ駐車場へ車を入れた。


 人目のある場所に停める。


 2人は同時に車を降りた。


 ドアを閉めてから、ようやくリュウが大きく息を吐いた。


「そこじゃない、って言ったよな」


「ああ」


「じゃあ、どこなんだ」


 ナオは答えず、後部座席の窓を見た。


 中央席は暗い。


 外からでは、誰かがいるようにも、ただ影が落ちているだけにも見える。


「ホテルへ戻るぞ」


 2人は歩いてロビーへ戻った。


 サチとミカは入口近くの椅子で待っていた。


 ミカは2人の顔を見るなり立ち上がった。


「何かあった?」


 リュウが答える。


「声がした」


「何て?」


 リュウは一度ナオを見た。


 ナオが静かに言う。


「そこじゃない」


 ミカの表情が固まった。


「どこじゃないの?」


「車を出す場所か、向かう方向か、座っている場所か」


「何も分からないじゃん」


「でも、意思はある」


 サチが言った。


「どこかへ行きたいのかな」


「その可能性がある」


 ナオはスマホで地図を開いた。


 最初に窓を叩かれた海沿いの道。


 市川の湾岸。


 その周辺には、昔の海岸線や水路、埋め立て前の土地に関する資料がいくつか残っている。


 だが、今から同じ夜道へ戻るつもりはない。


「昼のうちに、最初の場所の近くまで行く」


 ミカがすぐに首を振る。


「戻るの?」


「夜の道には入らない。海沿いの公園か、人のいる場所から確認する」


「何を?」


「古い地図と今の道を比べる」


 リュウが理解したように言う。


「そこじゃない、っていうのが、昔の場所を言ってるかもしれないのか」


「ああ」


 サチも地図を見る。


「今は道路だけど、昔は別の場所だったとか?」


「埋め立て地ならあり得る」


 ミカは不安そうだった。


 それでも、車に何かを乗せたまま旅を続ける方が嫌だった。


「明るいうちだけ」


「ああ」


「人がいるところだけ」


「ああ」


「海側の窓、開けない」


「開けない」


「何かいたら、すぐ帰る」


「それは状況次第」


「そこは、うんって言って」


 ナオは少し笑った。


「危なければすぐ離れる」


「それでいい」


 4人はホテルを出る準備をした。


 荷物をまとめ、チェックアウトする。


 車はコンビニの駐車場から動かす前に、後部座席をもう一度確認した。


 シートベルトは締まったまま。


 中央席のへこみも残っている。


 ただ、外の明るさの中では、人影のようなものは見えなかった。


 ミカとリュウは後部座席ではなく、サチと席を替えることも考えた。


 しかし助手席にはサチ。


 後ろにリュウとミカ。


 いつもの位置を崩す方が、かえって落ち着かない。


 結局、2人は左右の席へ座った。


 中央席だけは空ける。


「荷物置かないの?」


 ミカが聞く。


「今度は空けておく」


 ナオが答えた。


「座りたいなら、座らせるってこと?」


「何を求めてるか確かめる」


「私は確認しなくてもいいんだけど」


 リュウが言った。


「昨日からもう座ってる。それを認めるかどうかだけだ」


 ミカは嫌そうに中央席を見た。


「じゃあ、せめてシートベルトはそのままにして」


「外さない」


 車は市川方面へ戻った。


 昨日通った海沿いの道そのものではなく、昼間の幹線道路を使う。


 中央席から音はしない。


 シートも軋まない。


 ナビも正常に動いている。


 しばらくすると、ミカの緊張も少しだけ弱まった。


「何も言わないね」


「昼だからかもしれない」


 リュウが答える。


「夜だけ動くの?」


「分からない」


「みんな、その言葉増えてきた」


 サチが少し笑った。


「本当に分からないからね」


 途中、市川市内の図書館へ立ち寄った。


 海沿いの昔の地図や地域資料を確認するためだった。


 館内は明るく静かで、ミカもようやく少し安心した。


 ナオとリュウが地図を調べ、サチとミカも地域史の資料を見る。


 古い海岸線。


 埋め立て前の干潟。


 漁場。


 水路。


 堤防。


 今の道路と重ねると、昨夜通った直線区間は、かつて陸と海の境に近い場所だった。


 その周辺には、漁に使う小舟を寄せる場所もあったらしい。


 リュウが地図を指さす。


「ここ、今の道の近くだな」


「ああ」


 ナオが答える。


「古い水路があった」


 サチが別の資料を持ってきた。


「これ、昔の事故の記録じゃない?」


 地域の出来事をまとめた冊子。


 古い新聞記事を要約した欄に、水難事故について短く書かれていた。


 詳細な名前はない。


 小舟が風で流され、乗っていた数人が海へ投げ出された。


 救助された人もいたが、ひとりだけ見つからなかった。


 事故が起きたのは、埋め立てが進む前。


 今から何十年も前だった。


 ミカが声を落とす。


「ひとりだけ?」


「そう書いてある」


 サチが答える。


「何人乗ってたの?」


「4人」


 リュウが記事を読む。


「3人救助。1人行方不明」


 車の座席。


 4人で旅をしている自分たち。


 空いている中央席。


 ひとり分の席。


 ミカが小さく言った。


「でも私たち、もう4人いるよ」


「車には5人乗れる」


 リュウが答えた。


「中央が空いてる」


「だから座ったの?」


「可能性はある」


 ナオは事故の場所を地図で確認した。


 昨夜の道より、少し陸側。


 現在は小さな公園と水路沿いの遊歩道がある辺りだった。


「そこじゃない」


 車を外へ出した時に聞こえた言葉。


 昨夜通った道ではない。


 本当に行きたい場所は、別にある。


「ここへ行く」


 ナオが言った。


 ミカは地図を見た。


「人いる?」


「昼の公園だ」


「海沿い?」


「水路には近い。でも昨夜の道とは違う」


 ミカは長く息を吐いた。


「行って、終わるなら行く」


「終わるかは分からない」


「そこは終わるって言ってよ」


「嘘になる」


 ミカは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。


 昼過ぎ、4人は地図で見つけた公園へ向かった。


 住宅と倉庫の間にある、小さな場所だった。


 遊具が少し。


 ベンチ。


 水路沿いの柵。


 犬を散歩させる人。


 自転車で通り過ぎる学生。


 怖い場所には見えない。


 車を公園近くの駐車スペースへ停める。


 エンジンを切った。


 中央席のシートベルトは締まったまま。


 しばらく誰も動かなかった。


「着いた?」


 ミカが聞く。


「ああ」


 ナオが答える。


「ここが昔の水路に近い」


 車内は静かだった。


 スピーカーも鳴らない。


 シートベルトも動かない。


 リュウが中央席を見る。


「違ったのか?」


 その時、シートベルトの赤い解除ボタンが沈んだ。


 誰も触っていない。


 カチッ。


 ベルトが外れ、ゆっくりと巻き取られていく。


 ミカが声を呑む。


 中央席のへこみが、少しずつ戻っていった。


 誰かが立ち上がったように。


 直後、左後ろのドアのロックが解除された。


 1か所だけ。


 ミカの隣。


 ドアは開かない。


 ただ、開けられる状態になった。


「降りたいの?」


 サチが静かに言った。


 ナオは全ドアをロックしたままにしなかった。


 左後ろのドアだけ、手動で開ける。


 風が車内へ入った。


 海の匂いではない。


 泥と水草が混ざった、浅い水路の匂い。


 ミカとリュウは反対側のドアから降りた。


 サチも助手席を降りる。


 ナオは最後に運転席から外へ出た。


 左後ろのドアは開いたまま。


 車内には誰もいない。


 だが座席の中央から左ドアへ向かって、濡れた跡がついていた。


 座面。


 足元。


 ドアの縁。


 そして外の地面へ。


 裸足の足跡が、ひとつ。


 次にもうひとつ。


 水路の方へ続いている。


 大人のものより小さい。


 子どもよりは大きい。


 4人は追いかけず、その場から見た。


 足跡は乾いた舗装の上に残り、柵の前まで続いていた。


 そこで止まっている。


 水路へ落ちた形ではない。


 ただ、水の方を向いて立っていたように、左右の足跡が並んでいる。


 風が吹いた。


 水面が小さく揺れる。


 その音に混じって、かすかな声がした。


「ここ」


 昨夜と同じ声。


 だが今度は濡れた響きが薄く、少しだけ近い。


 ミカはサチの腕をつかんだまま、水路を見ていた。


 柵の向こうに、人影はない。


 何も上がってこない。


 何も沈んでいかない。


 ただ、並んだ足跡だけが、少しずつ乾いていく。


 サチが小さく言った。


「帰ってきたのかな」


「ここへ?」


 ミカが聞く。


「うん」


 リュウは車の中を確認した。


「中央席、戻ってる」


 シートのへこみは消えていた。


 濡れた跡も、座面に少し残るだけ。


 海藻も砂もない。


 スピーカーから音はしない。


 ナオは水路の方へ一度だけ頭を下げた。


 名前は分からない。


 本当に事故で行方不明になった人なのかも分からない。


 だが、ここで降りたかった。


 それだけは伝わったように思えた。


 ミカも小さく頭を下げた。


「もう、車に戻ってこないでね」


 リュウが横を見る。


「言い方」


「大事だから」


 サチは少し笑った。


「ちゃんと着いたなら、もう乗らなくていいね」


 風がもう一度吹いた。


 返事はなかった。


 それでよかった。


 4人は車の左後ろのドアを閉めた。


 ロックする。


 エンジンをかける前に、中央席を確認する。


 シートベルトは外れている。


 座面も乾き始めていた。


 ナオがエンジンをかける。


 カーナビが起動する。


 ラジオは鳴らない。


 警告も出ない。


 いつもの車だった。


「次の宿、どこ?」


 ミカが聞いた。


「千葉市方面へ戻らず、少し南へ進む」


 ナオが答える。


「海沿い?」


「今日は内側の道を使う」


「よし」


 リュウが後部座席へ乗り込み、中央席を見た。


「荷物、置くか?」


 ミカは少し迷った。


 それから首を横に振った。


「今日は空けたままでいい」


「怖くないのか?」


「誰もいないなら、大丈夫」


 車は公園を離れた。


 バックミラーの中で、水路沿いの柵が遠ざかる。


 足跡はもう見えない。


 誰かが立っている姿もなかった。


 午後は、昨夜までとは別の日のように穏やかだった。


 4人は道沿いの店で遅い昼食を取った。


 ミカは食事が運ばれてくると、ようやく肩の力を抜いた。


「終わったよね」


「たぶんな」


 リュウが答える。


「たぶん禁止」


「でも、今は普通だろ」


「うん」


 サチも頷いた。


「車の空気が戻った感じする」


 ナオは水を飲みながら、窓の外を見た。


 走る車。


 住宅。


 遠くの空。


 海は見えない。


 今はそれでいい。


「次はどこへ行くの?」


 サチが聞いた。


「千葉市から少し南へ。市原方面を考えてる」


「怖いところ?」


 ミカがすぐに聞く。


「今日は普通の宿へ行く」


「今日は?」


「明日のことは明日決める」


「またそれ」


 だがミカは、少し笑っていた。


 夕方前、4人は市原市内のホテルへ入った。


 人通りのある場所。


 駐車場も明るい。


 車を停めたあと、後部座席を確認する。


 中央席にへこみはない。


 シートベルトも動いていない。


 水も砂も海藻もない。


 ミカはドアを閉める前に、中央席へ向かって小さく言った。


「空席に戻った」


 リュウが笑った。


「もう話しかけなくていいだろ」


「確認しただけ」


 ホテルの部屋へ入り、夕食を済ませたあと、ナオはタブレットを開いた。


 今日の記録を書く。


 駐車場。


 締め直されたシートベルト。


 そこじゃない。


 古い水路。


 行方不明者。


 ひとり分の席。


 公園。


 水路へ続く足跡。


 ここ。


 ナオは最後に、短く書いた。


 ――ひとり、降りた。


 サチが隣から見た。


「それだけ?」


「それだけでいい」


「うん」


 ミカも少し離れたところから画面を見た。


「今回は、ちゃんと怖かった」


「楽しかったか?」


 リュウが聞く。


「楽しくはない」


「じゃあ何なんだ」


「怖かったけど、旅の話としてはよかった」


「難しいな」


「怖い話ってそういうものでしょ」


 ナオはタブレットを閉じた。


 今夜、駐車監視の通知が来るかどうかは分からない。


 だが誰も、それを待とうとは思わなかった。


 中央席は空いている。


 本当に空いていると、今は信じていい。


 窓の外には、市原の普通の夜があった。


 海の音は聞こえない。


 シートベルトの音も、もう鳴らなかった。


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