第70話
ヴェルはこの街を去った
自分の店を持てなくて世を捨てたのか、はたまた道半ばで挫折した想いを老いさらばえるまで引きずったのか、とにかく未練を抱えてここに来たのだ
教えられて料理ができるなら、別にルネでなくてもよかったはずだ
やっぱりルネとウマが合ったのだろう
そしてこの街でできることに気が済んだ
なんとも身勝手な話じゃないか
ヴェルはいい
もう思い残すことがないんだから
だがこの街に残された人間はそうではない
あれだけ毎日のように作っては持ち帰ってきた地中海料理は、みんなルネのレシピだった
思えばこの街の名前を訪ねたときも、流暢なスペイン語を返した
もしやルネはスペイン人だったのだろうか
おかしな話だが見た目では何人か全く想像がつかない
私だって自分の目が元々何色だったのかも思い出せない
ルネがこの時の淀みにはまってどのくらい経ったのか、皆目見当がつかない
ルネの過去には興味が尽きないが、根掘り葉掘りは趣味じゃない
それで色々想像していたら下衆の勘繰りだが、まあ別に本人に問い質しているわけではないし
確かに数カ月一緒に暮らしたくらいでは、人の全容は見えない
でも料理ができるなんておくびにも出さなかったし、人付き合いを厭わないのも知らなかった
まあよく考えたら路頭に迷っていた私に声をかけてきたのはルネの方だし、特別人を嫌って世を拗ねているというわけでもないのだが
だとすると、本来の性質を人に晒せないでいるというのは、より根深い問題だ
ルネは今日もいつも通りに見える
煮詰まったときにはモフモフを撫でて無心になりたい
それで何が解決するわけでもないが、モフモフは撫でられると喜ぶ
私も癒される
Win-Win
温室は相変わらずだが、もう外の気温と比べたらここの方が暖かく感じる
コートを脱いでもいいくらいだ
毛もつかないし
しっぺいを探して見回すが、何かいつもと違う
ピンとこない
かすかに若い柑橘の香りがする
と思って見上げると、天井を突く橘が花を付けていた
五枚花弁の白い花、みかんと同じだ
この温室で花が咲いているのを初めて見た
「へぇ…」
私はなんの二心もなく感心した
まだつぼみもあるが、立派な木がたくさん花を付けている
あれからも剪定を進めたのか、枝ぶりはいくらか風通しが良くなったように見える
と、そこへどこからともなくモフモフが現れた
撫でて欲しそうにこっちを見ている(見てない)
「…ああっ、こら」
しっぺいは私を素通りし、橘の木を前足でガリガリし始めた
「駄目だよ。木が傷んじゃうでしょ」
人間のような図体を抱えて橘から引き剥がすと、不服そうに唸り声をあげる
よく見ると、ねじれた象の足のような幹には引っかき傷がたくさんついている
「今度爪切ってやるか」
遺伝子に爪切りの記憶が焼き付けられているのか、「爪切」という言葉にがう!と吠えついてきた
地面に下ろしてやってもまた幹に取り付いて、ガリ、ガリと大きな手で幹を掻く仕事に戻ってしまった
「まったく…」
「いいんだよ。丈夫な木だから」
これまたどこからともなく女の子が現れ、幹を掻くしっぺいに歩み寄る
女の子が二、三度背を撫でてやると、しっぺいは気が済んだように掻くのをやめて幹を離れた
「現金」
しっぺいは何が?という顔で私を見、私の足元でぐるぐる回って気が済むと地面に丸くなった
「匂いに反応してるんじゃない?」
「かもね」
女の子は相変わらず私には興味がない
まあ人んちの庭で狼を撫でていくだけの闖入者に、出て行って欲しい以外の興味はないかもしれないが
女の子は竹のはしごをかけて、ナタ片手に橘によじ登った
「ここでもちゃんと花が咲くんだね」
「…そうだね」
密になっているところでナタをふるい、花のついている枝もばさばさ落としてしまう
本来柑橘の剪定は花が付く前にするものだが、十分に実を収穫したい場合は適度に花も落とす
私の実家の畑には、私の名前が付いたみかんの木が一本あったはずだが、今もちゃんと育ててもらっているだろうか
「もらったポインセチア、よく茂ってるよ。新しく生えてきた葉は白いから、染料混ぜた水をやってる」
「素人には難しいよ」
「大丈夫。ルネが詳しいから」
女の子の手が止まった
落とす枝を見極めているのかと思ったが、そうではないらしい
「…そうなんだ」
女の子は再び枝を落とし始めた
以前から薄々気付いてはいたが、多分この子はルネのことを知っている
ルネには私に明かしていない過去の人間関係があるが、私もこの女の子のことは伏せている
ただルネは温室のことは知らなかった
この子もルネと同じように、この温室に引きこもって鉢植えだけが友達みたいな生活をしているが、以前はそうではなかったのかもしれない
「また一人卒業していったよ」
「知ってる」
知らないかなと思って教えてあげたが、甲斐のない話だ
「私もいつか気が済んだら卒業するのかな」
「………」
卒業の話はお気に召さないらしい
まあ、聞きようによっては、ぶぶ漬けでも薦められてるように聞こえるかもしれない
この子が晴らしたい未練が何なのか、想像のしようもないが
「お前もいつかいなくなっちゃうのかね」
しっぺいはスンッと鼻でため息をついて丸まり直してしまう
どいつもこいつも甲斐性なしでつまらん
「そこ、枝が落ちるよ」
と女の子は間髪入れずに景気よく枝払いをする
「はいはい。ほら、向こう行くよ」
動こうとしないしっぺいの背中を押して体を起こすと、ものぐさそうに二、三歩離れてまた丸くなった
その間にも女の子はせっせと枝を落とす
なんだかお母さんが家事をしてる横で私だけ犬で遊んでるみたいで気が引けるので、渋々お手伝いをする
木の下に散らかった、払った枝を一箇所にまとめる
どこに捨てるのか知らないが、ここがゴミ溜めになっていないんだからどうにかして雲散霧消するのだろう
「あっ、素手で触ると危ないよ」
女の子の忠告も虚しく、枝に生えていた棘で指を刺してしまった
「いった!なんで…」
棘と言ってもバラに生えているような青々とした小さい突起ではなく、木の枝の先が千枚通しのように鋭くなった立派な棘だ
「柑橘には棘があるんだよ」
「うちのみかんにはこんなの生えてなかった」
「退化したんだよ。収穫しづらい木は淘汰されるでしょ」
確かにその通りだ
収穫の邪魔になる木より、容易に実がもげるヒューマンフレンドリーな木が選択され、それを人間がどんどん増やす
繁殖能力の個体差なんか問題にならない
「あとで片付けるから、そのままにしといて」
お母さんの料理を手伝おうとしたら包丁で指を切ってしまったような感覚
したたかに棘を刺してしまった指先を舐めていると、久しく感じていなかった鉄の味がする
「…!」
指先を見ると、刺したあとから丸々とドームが膨れ上がり、表面張力が破れて赤い雫が滴った
「血が出た!」
「だから言ったのに」
「血だよ!?ケガしたんだよ!?」
「そのぐらい、唾でも付けときゃすぐ治るよ」
ヴェーダ様とは逆の意味で危機感が薄い
三階建ての屋根から落ちてもかすり傷一つ負わないこの世界で、なんであれ血が出るというのは一大事だ
それが転んで擦りむいたのでも、りんごの丸かじりででも同じことだ
やっぱり私は不死身ではなくなってしまったのか
足元のしっぺいは、後ろ足に垂れた血痕を訝しげに見ている
白い毛に真っ赤な鮮血が映える
「あー、ごめんね。垂らしちゃった」
とりあえずハンカチで拭いてみる
完全には取れないが、まあ獣の毛の汚れなんてすぐ落ちるだろう
しっぺいは血が滲む私の指を不思議そうに眺めている
そうか、今までこいつとじゃれて怪我してなかったのは、加減してくれていたからだったんだ
「ありがとうね」
無事な方の手で頭をごしごし撫でる
気前がいいと思ったのか、手を舐め返してくる
「こっちはだめだよ」
棘を刺した方の手に取り付こうとするので、頭の上に上げて避ける
まかり間違って私の血なんか舐めたりしたら、どうなってしまうかわからない
野生を思い出して飛びかかってくるかも
初めて見た血に興味が尽きない様子で、私の足元をぐるぐる回っている
この温室はやっぱり異界なんだ
いや、外の世界の方が丸ごと異界なんだけども
相対的に言ったらここの方がおかしい
なによりこの女の子がおかしい
「…ねぇ、もしかして生理用品いる?」
血が出ると知って、どう見ても第二次性徴前の女の子にする質問がこれなのは無粋ではあるが、もし困っているのならそのぐらい助けてあげてもバチは当たらない
「この街で生理用品見たことある?…ともかく、必要ない」
それもそうだが、ないよりマシなものならいくらでもある
「この中…この温室にずっといたら歳取って死んじゃう?」
「…それはない」
確証があるような言いぶりだ
でもまあ確かに歳を取っていってるようには見えない
さっきから指先を舐め続けているがまだ血が止まらない
歯医者がヘタクソで抜歯の血がなかなか止まらなかった時、出る血を全部飲み込んでいたら翌日のうんちが真っ黒でびっくりした記憶が蘇った
それに比べたら大した出血ではないが、こんなに血が出続けるほどの傷でもない
「この中は時間が進まない。ずっとここにいたら血も止まらないよ」
「さっき唾つけときゃすぐ治るって」
「すぐ帰ってくれればすぐ治る」
と女の子は、噛んで含めるように言う
本当に時間が進まないなら、ここに踏み込んだ途端出ることもできなくなって、私は行方不明扱いになってるはずだ
それに花だって咲かない
例によって都合のいい塩梅で時間が進まないのだろう
「わかったよ、お邪魔様」
温室を出ようとするとしっぺいもついてきた
「散歩行く?」
舌を出して尻尾を振っている
完全にただの飼い犬だ
「それじゃあ…」
振り返ると、女の子はまだ私の方を見ていた
いつもはさっさと自分の領域に戻ってしまうのに、珍しい
「どうかした?」
「もっと取り乱すかと思ったよ」
「だって…騒いでもなんとかしてくれなそうだし」
「そりゃ何も出来ないし」
ここで傷を縫ってくれなんて言うのも詮無い話だ
「外に出れば止まるんでしょ。じゃあね」
この世界で血を見たというのは重大なことではあるが、正直この女の子の不可思議さに比べたら些末なことだ
温室の外に出ると確かにすぐ血は止まった
これでまだ血が流れていたら今度こそ大騒ぎするところだ
しっぺいもスンスンと棘の刺さった指を嗅ぐと、すぐ興味を失ってしまった
外は季節相応に寒い
しっぺいの吐く息も白い
血を見て大騒ぎしなかったのは、何か自分がまだ生きている存在のように思えたからだ
この世界の悲喜こもごもを、ただ吐いて吸うだけの存在ではないのだと




