沼畔①
「浦沼? ……あぁ、『臍』んとこか」
「お前ら、気をつけて行って来るんじゃぞ。彼処はちと危ういからのう……」
浅緋の里を出立する際、見送りのじいとばあの言葉に皆が一瞬眉を顰めた。
誰がそう呼び始めたのか、此度の目的の地である浦沼についている異名……『武蔵の臍』
武蔵国の中央部の窪地に位置するからなのか、それとも何かしらの理由があってその名で呼ばれているのか……事の謂れは口伝が廃れれば、誰の口からも語られることはなくなる。
いまや老齢となった者達の間で当たり前に知られていたことが、若き世代は何も知らず。
「……臍ならば、その裏側は何処へと通ずるのか……深読みし過ぎの杞憂であれば、歯牙に掛ける必要はないのだが……」
若はぽつりと呟き、まだ星の出ている空を仰いだ。
◇◇◇◇
陽光を遮るには乏しい痩せ細った木々がぐるりと周囲を囲う沼畔。
空は開けているにも関わらず、どんよりとした不気味な薄暗さを漂わせるのは、平野の中を突如、抉り取られたようなこの独特な谷型の地形ゆえであろうか。
そして『澱む』という言葉がこの沼を表すに丁度良い……それ程に、多少の風では波立たない水面がこの浦沼の異質さを物語っていた。
ばしゃ……ばしゃ……ばしゃ……
絡みつくような粘度のある水音を上げ、幾人もが列を成して沼に入りて進む。
時折り、『ぼちゃり』という音と共に今しがた立っていた者が水中へと沈み込み、暫しの間を開けてから荒い息と共に、また水面上に顔を出した。
透明さの欠片もないその水が、まるで水底に人間を引き摺りこまんとするかのように……。
「はぁ……はぁ……」
「ひっ……」
「……」
肩で息をする者、小さな悲鳴を上げる者、声を発するのも諦めた者……冷たい水の中を無理矢理に働かされる者達を監視しながら、忍び装束の男が声を張る。
「そこ! 足を止めるな! さっさと運べ!」
「……まったく、お頭は何をお考えか」
沼畔から指示する者の隣で、別な忍びが溜息を吐いた。
「お前、余計な事は言わん方が身の為ぞ?」
「分かっておる……だが、流石に言いたくもなろう? あんな童達を扱き使って……我等は賊では無く、風魔の忍びぞ? こんなことをしておったら、名が廃るわい。武蔵国を……いずれは天下を取る為に相模から出て来たのではなかったのか? それなのに……こんな……お頭は我等には何も教えて下さらん!」
そう捲し立てては険しい表情で、また沼の方に視線を向けた。
「元々は彼方此方の村で捕まえた者達だ。最低限の飯は食わしておる。殺されなかっただけ、感謝して欲しいもんだ」
「……」
戦乱の世、男共は戦に出向き、村を守るのは残された女子供と老人ばかり。
村を襲撃されれば、太刀打ちなぞ出来よう筈もない。
役立ずな老いぼれ共は瞬時に斬り殺され、妙齢の女共は全員売り飛ばされるか、抵抗すればその場で命を失う。
そして、残された童共は死ぬ迄、ただ黙々と朝から晩まで働かされるのだ。
「恨むなら、無力な己とこの世を恨むこった」
「……上からの命令とあらば、大岩を落として道を塞いだり、積荷を奪い攪乱するような山賊同然の泥仕事もこなして来たが……此度の目的も見えぬような有り様では……俺はどうしたらいいのか」
「志だけでは腹は膨れん。生きるか死ぬか、奪うか奪われるか……ただ、それだけだ。おい、無駄話は終わりだ」
「……」
まだ何か言いたげな者との会話を一方的に打ち切り、男は歩き出した。
男の先には力尽き動けなくなった童が一人、沼畔に倒れ込んでいる。
ざっ……
「役立たずはいらん!」
言葉と共に、男は高く上げた足を童の背目掛けて勢いよく振り下ろした。
ぱしんっ、ぱしんっ!
どさっ……
連続した皮膚の鳴るような音に続いて、人間が地面に倒れる音。
背を向けていた忍びは小さく溜息を吐き出した。
「はぁ……弱った童に折檻なぞするなや……死んだらまた代わりを拾って来ねばならぬではないか。一からまた作業を教えるのは手間が……」
すぱっ!
「?」
ぐらっ……
………………
愚痴愚痴と小言を溢しながら振り返った男の首は、己の身に何が起きたか分からぬ間に大地へと転がり、頭部を失った胴体は地面へとそのまま崩れ落ちた。
とすん……ころころっ……どさっ……
すると、倒れ込んだ骸のすぐ横隣に、今しがた童を踏みつけようとしていた忍びの右の下腿と首が順に空から降り落ちてきた。
ひゅぅぅん……どさ、どさっ!
天高く斬り飛ばされたそれらの落下音が響き、沼畔に散らばる他の風魔衆が一斉に振り返り、身構える!
ざっ!
「て、敵しゅ……」
「ぐはっ!」
「うっ!」
「あがっ……」
ざしゅっ! ざしゅっ! ざしゅっ!
………………
どさ、どさ、どさっ……
気付いた瞬間……それはもう時、既に遅し。
敵の襲撃を仲間へと伝える暇も与えられず、音も無く現れた者達の手により、風魔の忍びの首は次々と刈り取られ、悉くその命を散らしていった。
そして、また忍び刀が風を切る!
ひゅん! かきんっ! ざしゅっ!
「……っ‼︎」
ぼたぼたぼたぼた……
間一髪、己の刀を抜き即死を逃れた忍びが、深く斬られた喉元を押さえながら、ぎろりと目を剥き、目の前に立つ敵を憎々しく睨みつける。
「ひゅぅ……ひゅぅ……」
声を発する部位を損傷し、荒い息をする度に喉元から風音が鳴る。
その様を眺めながら、襲撃者は声を漏らした。
「……ふむ」
緊迫した状況には不似合いの落ち着いた美しい声。
忍刀を握ったまま軽く腕組みをし、目の前でぼたぼたと赤い血を流す瀕死の男をじろじろと見つめる。
そこから己の手元の刀をちらりと見遣ると、また仕留め損ねた対象に視線を戻した。
目の動きに合わせて、忍びの黒装束から延びる胡桃色の長い髪が微かに揺れる。
「『こんな明るい時間に狙いに来るなぞ、忍びとして狂っている』……とでも、言いたげな瞳だな」
「⁉︎」
布で覆われた口から出たその言葉に驚き、血塗れの男は目を大きく見開いた。
とすとすっ!
「っ‼︎」
その瞬間、男の額から刀が二本生える。
刀の切先は腕組みをしていた忍びの眼球の寸前でびたりと止まった。
「はぁ……悪癖ですね。そういうのはおやめ下さい」
溜息を吐き出しながら、目の前の屍の体ごと片手で刀を横に払い除けた。
「いやぁ、お前にしちゃ動きが悪ぃな、胡桃」
「……争いの場にて仲間の名を呼ぶのは禁事であることお忘れですか? 全く、里長のくせに……」
「あっ! お前、俺のこと馬鹿にしただろ⁉︎」
「何のことやら……」
ぶんっ!
幼子のようにむくれた忍びは手を振り上げ、その拍子に二刀をすらりと抜き取った。
支えを失った肉塊は、だらりと地面に捨てられる。
どさっ……
「なぁなぁ、朝日の昇る時間に浅緋の忍びが動くなんて、洒落が効いてるだろ? ん?」
転がる骸に答えの返らぬ問い掛けをする最強の忍びの隣で、美麗の忍びはまた一つ大きく溜息を吐き出した。
「さ・て・と……」
「ひっ!」
里長が草の上に倒れ込んだ童にゆっくり手を伸ばすと、小さな悲鳴と共に童は己の頭を両手で覆った。
奴隷として日常的に虐げられていたのが、その動きだけで見て取れる。
「はぁ……」
小さく溜息を溢してから、胡桃が童の傍らに蹲み、柔らかな声を発した。
「落ち着け……もう、どこも身体は痛まない。お前の知ってること、話してもらえるか?」
「は……はいっ!」
「なんだよ、俺とはまるで違う反応だな」
胡桃に信仰的な眼差しを向ける童をちらりと見遣ると、面白くなさそうに里長は呟いた。
「そう腐らないで下さい。単に人望があるかないかの違いでしょう」
「おいこら、お前は一言多いぞ!」
喚く里長を無視して、胡桃は童へ向き直る。
「奴ら……風魔の忍びはお前達に一体何をさせておるのだ?」
「よ、よく分かりませんが……我等は、沼の中心に祠を建てております」
「「祠?」」
童が指差しながら答えた先を、二人は声を揃えて振り返る。
この沼畔からでは、まだそれと認識出来ぬような木材の枠組が水面の上にちらりと見えた。
「望空! ……なるほどな。和迦の言った通りやもしれん。彼奴らは……この浦沼に神でも降ろそうとしておるのか?」
指で輪を作り術を発動し、細部を眺めながら、里長はそう吐き捨てた。
「神呼び? そんな絵空事の為に……大樹や井蔵達は……」
同じく胡桃も苦々しく言葉を吐き出した。
握った拳が怒りで震えている。
「……阿呆は止めにゃならんな。いや……死んでも治らなそうなら、まとめて地獄送りか」
「えぇ……」
「あ……う……」
二人の様相を不安そうに見つめる童の頭を胡桃は優しくそっと撫でる。
「沼に入っているお前の仲間達もすぐに解放してやる。今は木の陰で身を潜めていろ」
「は、はいっ!」
ざざざざっ!
◇
遠ざかる童の背を見届けてから、二人はまた沼に視線を戻す。
「忍びがやれば数刻で終えるものを、あえて非力な童共にさせるとは……」
「まぁ、人柱だな。動くならば労働力、死ねば贄……元々死に損ないの拾われた命。無垢の魂を持った、使い捨てられる子らだ……なぁ?」
「……ここにいる風魔共を早々に殲滅し、次へ参りましょう」
己自身が拾われた身である胡桃は、思うところがあるのだろう。
己が振った話を切り替え、静かに歩き出した。
「他もそろそろ……おっ、千鳥、時人。そちらは片付いたか?」
誰もいない空間に向けて突如、里長が声を掛けた。
その言葉を受け、霞消の術を解いた浅緋の忍びが二人、すうっと姿を顕す。
「はっ! 沼南にいた風魔の忍びは皆、仕留めました!」
「……北は常吉と元、東に辰ノ組……間も無く、片付くかと……」
「うむ」
報告を当然と言わんばかりに頷く。
「襲撃だと悟られることなく、己が殺されたことにも気付かせずに殺すのが忍びというもの……」
「しかし……この編成で本当に宜しかったのでしょうか?」
「と、いうと?」
胡桃の溜息混じりに里長が問いを返す。
「我等と丑、辰ノ組……亥の鏑矢達と戌は里の護りとして残してきましたが……辰は研修もまだままならぬ半端者達……だが此度の相手は草兵衛、芹、それとあの毒女に筑貢、風魔連中……」
胡桃の言葉で千鳥と時人の顔がさっと曇った。
大樹を奪われた山中でのことを思い出したのであろう。
「今、里で動ける組が少ないから仕方ねぇよ。まぁ、よほどな失態を犯さぬ限りは奴等に気付かれることは……」
からん、ころん、からん、ころん……!
その時、遠くで乾いた木札の鳴る音が響く!
方角は……東!
「「「「……」」」」
四人は揃って、苦々しい表情を浮かべた。




