鉢ノ助② ー疫病ー
母ちゃん……。
俺は今朝のやり取りを思い返した。
◇◇◇◇
「鉢ノ助、今日はどこの畑の手伝いかい?」
「今日は織部の爺さん家の種蒔きに行ってくるよ」
武士とは違って姓がないので、各家にはそれぞれ屋号がついている。
ちなみに俺の家の屋号は煤竹だ。
「そう、昼餉には一度戻っておいで」
こんこんっと軽い咳払いをし、母ちゃんは牡丹と菊の方を見遣る。
妹の牡丹は五つ、菊はまだ三つだ。
幼い二人は昨夜から熱を出して布団で寝ている。
咳病かな? 幼い子供はよく熱を出すもんだ。
その割に、俺は頑丈な子だったらしい……なんとかは咳病を引かないとか、なんとか。
「もしお前に感染ったら大変だから、二人にはなるべく近づくんじゃないよ? 容態が酷いようなら、お前だけでも夜は青鈍か木賊の家にでも頼ろう」
「うん、わかった」
青鈍は鋼太郎の家で、木賊は幹兵衛の家だ。
母ちゃん同士がくのいち仲間でもあり、昔からずっと仲が良いんだと聞いている。
牡丹も菊も可愛い俺の妹達だ。
小さい体で苦しんでいるのに……俺は何もしてやれん。
……まぁ、いつも通りなら、明日くらいには熱も引くだろう。
帰りがけに二人の好きな花でも摘んでこよう。
◇◇◇◇
里の緊急事態。
月はまもなく南中する、亥ノ刻。
いつもは寝静まっている時間に、煌々と松明が灯され、動ける者は皆、忍び装束を纏っている。
俺の家の前にも数名が緊迫した面持ちで、何やらやり取りを交わす。
「いったい何が……」
「刈安の婆様が今日、未ノ刻に亡くなったのだ。ここ数日、咳病を拗らせていたらしいが……どうも他の家でも伏せっている者が多数出てきてな……」
「牡丹、菊……母ちゃん⁉︎」
ただの咳病じゃ……ない?
「木賊に調べてもらっている。……もしかしたら、もがさか赤もがさ……かもしれん。……だとしたら、悔しいが……手立てがない」
「‼︎」
どちらも過去に爆発的に流行した病の名だ。
元号が変わる程、甚大な被害が出たこともあるとか……。
あっという間に広がってしまう、死に至る病……。
足元がぐらつくような感覚に陥り、俺は座り込んでしまった。
……えっと……あぁ……頭が追いつかない。
「鉢ノ助!」
心配して、近寄ろうとする蘇芳丸を手で制し、何とか声を絞り出す。
「俺に……近寄っちゃ駄目だ……」
穴の中で急に眠気が来たり、喉の痛みが出たり……あれは前触れだったのだ。
「ごめん。俺もたぶん……もらっている」
「鉢……」
それ以上、誰も口を開かなかった……。
◇◇◇◇
里の皆は止めたが、すでに己が罹患していると悟った俺は、家で三人の看病をすることを選んだ。
長い長い夜が明け、雄鶏が高らかな鳴き声を上げる。
日が昇り周囲が明るくなると、少しだけ気持ちが上を向く。
負けるな……!
父ちゃんが里にいない今、俺がやるしかないんだ‼︎
土間の大水瓶から、水を手桶に移し、三人の寝てる側に静かに置く。
桶の水面を眺めていると、ふと若達の顔が頭に浮かぶ。
皆に俺から感染していないといいんだが……。
自分のせいで誰かが苦しむのは嫌だ……。
ぐっと拳を握りしめる。
爪は掌の肉に食い込み、じわりと血が滲んだ。
……力を込めていないと、全身の震えが出てきて、止めきれない。
あぁ……見えない恐ろしい魑魅魍魎に、俺ん家は狙われてしまったのだ。
……何で、何で、何で⁉︎ 何で、俺ん家がっ‼︎
この疫病がどこから来て、どうやって広まるかもわからないし、打つ手が何も無い。
命を守るために必要なのは……体力と……運だ。
手拭いを洗い替え、牡丹と菊の額にそっと乗せる。
二人の小さい身体がさらに小さくなった気がする……呼吸が浅いな……熱も全然下がらない。
「頑張れ……頑張れ……頑張れ……頑張れ……頑張れ……」
祈りを込めて、声をかける。神様、仏様‼︎
「はぁ、鉢ノ助……すまないねぇ……」
「母ちゃん⁉︎ いいから! 寝てていいから!」
ごめんな、起こしちまったか?
身体を起こそうとした母ちゃんをそっと寝かせ、布団を掛けた。
こんこんっ!
扉を叩く音がする。
少し間を空けてから戸を開けると、皿に薬草粥が乗っていた。
ありがたい……涙が出てくる。
「菊、お願いだ……一口でいいから……」
熱と咳でまともに食べ物も取れず、徐々に衰弱してきている妹達。
咳の反動で嘔吐しても、空っぽの腹からはわずかな液体しか出てこない。
「にいちゃ……?」
「‼︎ そうだ、兄ちゃんだ! 大丈夫だ! 食べたらすぐ元気になるから‼︎」
「ありがと……」
小さな口に粥を運ぶ。
わずかだが食べてくれた! よしっ!
頭を撫でる。偉いぞ菊! お前はいい子だ‼︎
「牡丹……お前も食べられるか?」
「あ……ありがと。にいちゃんは……ごはんたべた?」
「‼︎」
こんな時でも俺の心配して……全く……。
ぼろぼろと涙が溢れてしまった。
情け無いな、俺は。
「あぁ、兄ちゃんも食ってっから大丈夫だ!」
高熱の赤い顔でにこっと笑う牡丹、小さな身体が壊れてしまわないように、そうっと抱きしめた。
母ちゃんは……寝たな……目を覚ましたら、粥食わせてやらなきゃ。
ふーっと溜息を吐いた。
大丈夫。俺は頑丈だ。
二、三日寝なくても平気だ。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
そうして三日三晩、寝ずに三人の看病を続けた。
三日目の夜ーー
菊と牡丹は静かに呼吸を止め、母ちゃんもすぐに後を追うように息を引き取った……。
「鉢……ごめんね……」
それが母ちゃんの最期の言葉だ。
……あぁ……この世に神も仏もいないのだ。
◇◇◇◇
季節は弥生から夏を無視して、強引に長月になろうとしていた。
次縹家の嫁さんが葉月に亡くなったのを最後に、里の赤もがさはようやく収束した。
やっと……やっと、里の合同の弔儀が済んだ……浅緋の忍び、二百十四の骸を丁重に葬った。
この半年で村の半数以上が死に絶えた。
石碑裏には一人一人の名前がしっかりと彫られている。
里の仲間の……家族の……大切な名前。
ここにちゃんと生きていたという証明。
なのに、俺は……文字が読めない。
大好きな母ちゃん、大切な牡丹、可愛い菊……お前達の名前がわからないのだ……。
あぁ、なんという恥晒しだろう。
◇◇◇◇
ばんっ!
「鉢ノ助‼︎」
俺の名を呼ぶ者が、勢い良く扉を開けた!
あの日……三人の命の気配が消えた俺の家に、危険を承知で乗り込んできたのは幹兵衛の親父さんだった。
母ちゃん、牡丹、菊の三人の亡骸の隣でただ茫然と座っていた俺を、担ぎ連れ出してくれた。
幹兵衛の家は、里の中で薬や治療を担っている家だ。
放っておいてほしい俺を、この里の仲間はどうしても放っておいてくれはしなかった。
……里の皆も、家族だから。
父ちゃんは任務でまだ暫くは帰って来れない、と教えてもらった。
そして、俺が落ち着くまで、幹兵衛の家に居候することになった。
「鉢……食え」
「……」
幹兵衛は、生きる屍の口をぐいっとこじ開け、粥を流し込み、嚥下させる。
椀の中身を空にすると、無表情のまま俺を抱きかかえ、彼は俺の背中を摩った。
………………
これは褒めているつもりなのだろうか、慰めているつもりなのだろうか……なんとも不器用な友だ。
「鶯の姉、薄藤家、織部の爺……」
……そうか全員逝ったのか……あの日、種蒔きした畑……共に収穫はできんのか……残念だ。
日に日に見知った人間が……老人、子供、身体の弱い者は殊更呆気なく……命が散って逝く。
俺は……屍のように……それでも、ここに……生きているのだな……。
「ありがとな……幹兵衛」
「うん」
父ちゃんが任務から帰還したのは、合同弔儀を終えて十日過ぎた頃だった……。
咳病 : 風邪
亥ノ刻:午後10〜12時頃
未ノ刻:午後2〜4時頃
もがさ:天然痘
赤もがさ:麻疹