樹の護り、魚の護り、日の護り、獣の護り①
王の使者が来ると言っても、東の門の衛兵たちは持ち場を離れるわけにもいかず、荒野を眺める仕事に甘んじていた。
「もうすぐ雨期だなあ」
雨期は嫌な季節だ。胸甲装備の俺たちは蒸れてたまらん。そんなとりとめのないことを愚痴りながら時間が過ぎるのを待つ。
「おい、そんなことより、何か港のほうが騒がしくないか?」
誰かが言い、そろって耳を澄ませた。
「……銃声?」
風に交じり空から響く、乾いた音。そして人の悲鳴のようなものもかすかに聞こえる。
「おい、港に連絡を繋げられるか?」
「ちょ、ちょっと待ってください。それよりあれを……」
魔術師が指さす先には、赤い衣をまとい、木の杖を突くひとりの老人。
彼に付き従っていた二匹のハイエナは、後ろの丘で主を見送っている。
「フ・クェーン卿!」
門衛の長が迎えに出ると、彼は言った。
「すまぬが通してくれんか。急ぎ港に向かわねばならない」
「港に?」
「すでに戦いは始まっている」
港では、その光景に、誰もが息をのんでいた。
けたたましく打ち鳴らされた警鐘すらも鳴り止み、離れた防波堤で軍艦と鮫どもが戦う音だけが空高く響く。
港の人々がマー族の少年の悲劇を覚悟する中、その男はどこからともなく現れて、少年を小脇に抱えて海の上に立ち、何匹もの怪物鮫と対峙していた。
防波堤と岸に仕切られる海面を舞台とし、その真ん中で、彼と少年を取り囲み、鮫たちの背びれが旋回している。
その背のはるか向こうには「島船」。カミロには、その男、ショール・クランが、「島船」の遣いであるかのように見えた。
そのショールの周囲では、日の光に照らされて何色もの花の粉が舞い、蜂が荒野の砂塵のように乱れ飛んでいる。
「『東から来た人』……」
「静かに」
彼は低くたしなめた。
その彼の足元の海に、蜂が次々に飛び込んでゆく。その蜂には羽音がない。そして海に飛び込んでも音はなく、波紋も出ない。やはり、ただの蜂でないようだ。
「何をしているの……?」
イェハチは小さな声で尋ねた。
「鮫という魚は、非常に鼻がいい。それに、人間には感知できないものを感じ取る。それを惑わせる」
「そんなことできるの?」
「薬を調合するのと同じように、花を組み合わせれば、様々な効力を発揮する。それを蜂に運んでもらう」
見ていると、彼らの周りを旋回する背びれの軌道が狂い始めた。うねりを描き始め、やがて酔っているかのように、ばらばらの方向に流れ始めた。中には混乱して取り乱し、海面に顔を突き出しながら泳ぎ回る鮫もいた。
「……これで逃げられればよかったが、やはり駄目なようだな」
「え?」
ショールのつぶやきにイェハチが顔を上げるのと同時に、海面に横顔を出した鮫がいた。
その目の上に、赤くただれた傷跡がある。イェハチの父の仇、イェハチが刺した鮫だ。
そのぎょろりと動く目が、粘り気のある殺意を込めてショールたちを睨めつけた。
「あいつの眼は人間と同じだ。水の上の視覚に長ける。そして他の鮫を操る」
ショールがつぶやく。
混乱していた鮫たちが、突如、背びれを翻してショールたちに向かってきた。
「来た!」
「奴らを槍で刺すなよ。こっちの動きが止まる」
桶の水のように凪いでいたショールの足元で、海が渦を巻き始めた。
「え……」
イェハチが呆気にとられる中で、ショールを中心に、渦は激流となった。
「これ、あんたの魔法か!?」
「さあ、偶然かも知れんよ」
感情なく答える間にも、鮫どもはその流れに動きを乱されるが、わずかな戸惑いの後にその背びれは左右に激しく動いて海をかき分け、ショールらに向けて迫る。
先頭を切り襲い掛かってきた鮫に、赤い粉をまとう蜂たちが飛びかかる。
その鮫が海面に顔を出すと、鼻先、目、エラに至るまで、隙間なく蜂に覆われている。その鮫はたまらず取り乱し頭を振るが、その横っ面に、渦から飛び出た槍のごとき水流が一撃をかました。目を回した鮫は、しぶきを上げて渦に飲まれ遠ざかる。
さらに別の鮫が牙をむく。ショールの足元で渦が崩れ、入り乱れる無数の水流となった。その流れのひとつに乗って鮫の大あごをかわしたショールは、鮫の横顔めがけ右手をかざす。
彼の右腕に巻き付いていた「杖」は、針のように鋭く細く伸びて、その鮫の右目を突き刺した。
さらに「杖」の反対側が、背後から迫る鮫に向けて伸びて海面にもぐりこんだ。次の瞬間には、「杖」に顎を巻かれ、無理やり口を閉ざされた鮫が、釣り上げられたかのように海面に引き上げられた。
そして、「杖」は、その細さからは信じられないような力をもって、その鮫を別の鮫に叩きつけた。
「右!」
イェハチが叫んだ。三匹か。鮫が同時に迫ってくる。
ショールの足元で荒れ狂う海面が、今度は陥没した。そしてその周囲の海がせり上がり、鮫たちはその立体的な流れに翻弄される。ショールは身をかがめながら鮫たちの下をすり抜ける。
「海神デイニスよ! なんなんだあの男は! 荒野の風の精霊か、はたまた貴方のまします珊瑚の城の遣いか!」
港で、足の悪い魚屋の親爺が叫んだ。
ショールはまるで、急流に流れる木の葉のように、次々に鮫をかわした。彼を中心に、三十メートルほどの周囲は、まるで嵐のように海面がすさび、波が高く入り乱れ、その中を飛ぶ蜂の群れは、虹を描くがごとく色とりどりの粉の帯を作る。
「アルマ、彼の使っている魔法が分かるか」
マウロは、後ろに控えていた侍女に、低く鋭く問いかけた。
「いいえ……。似たようなものこそあれ、私が知る体系の魔法ではありません」
普段は氷のように冷たい印象のその侍女も、海で繰り広げられる光景に、食い入るように見入っていた。
ショールは水流を巻き起こし、粉をまとう蜂をけしかけ、あるいは右腕に巻き付いた「杖」を自在に操って鮫どもに対抗している。
「杖」は襲い来る鮫に巻き付いてその巨大なあごを無理やり閉ざし、あるいは針のように刺した。
さらには、長くしなやかに、鞭のように振り回すと、軍艦から流れてきたものや、海中に沈む諸々の破片を巻き取って、鮫の鼻先や目に叩きつける。
フードの下の表情は見づらいが、戦うというよりも、何かを処理するかのように淡々として見えた。
マウロの侍女は、青い雫型の耳飾りに触れながら、睨むようにその姿を遠く凝視し、つぶやいた。
「エーテルが……魔力の流れが感知できない。一体どうやって操っているのか、全く理解できない」
マウロの、もう一人の侍女も言う。
「呪文や仕掛けを操るしぐさも見せず、まるで体の一部のように、あそこまで自在に、それも複数の魔法の品を操るなんて……。あれだけの蜂の群れを意のままに操るだけでも、現代の魔法の常識外ですよ……。脳が焼き切れてしまいます。まるで中世代以前に生きた魔法使いのような……」
そのつぶやきを横で聞いていたカミロも、初めて出会った日に、ショールが彼らに見せた、魔法の証明書のことを思い出す。
(自在に伸び縮みする杖……。水の上を歩ける入れ墨……。蜂の出る琥珀に、花の咲く衣……)
確かに嘘ではない。
しかし杖は伸び縮みだけでなく硬軟自在で生き物のように動き、入れ墨は水の上を歩くどころかその水を操り、琥珀が出す蜂は意のままに動かせる大群となり、衣が咲かせる花もただの花ではなく、おそらく毒も作れる。
彼の持つ魔法の道具は、まだあと3つあったはずだ。魔よけの小刀、色と大きさを変える外套、魔力を変換する鏡。
「だが、いかんな……」
マウロのつぶやきが、カミロの耳に入った。
「軍艦の方に追い詰められている」
カミロははっとして見た。
軍艦には、いまだに何匹もの鮫が襲い掛かっている。