海の悪魔③
「誰か、誰か……」
イェハチの母の悲痛な声を待つまでもなく、荒くれ漁師たちはすでに駆けていた。港にいた衛兵やマーの戦士たちもだ。イェハチの母のそばには、彼女の家族たちの他に、カミロの一家や、足の悪い親爺をはじめとした、戦えない者たちが寄り添っていた。
ボレア親子たちは強く拳を握ってイェハチの戦いを見守り、学者先生も、この先に訪れるであろう悲劇に嘆きの声を漏らしながら、髭を握って見ていることしかできなかった。
軍船の上も慌ただしく動いていた。水兵が、イェハチを載せたまま遠ざかるその鮫に銃口を向けたが、提督らしき人物に止められていた。
そんな中、ガラスを引っ搔くような、不快な音が響いた。
「これは……」
「奴らの呪いの歌だ!」
イェハチがしがみつくその鮫、その周りに集まってきた鮫たちから、その音が響いた。
遠くで聞くカミロ達ですら、体から力が抜けていくのを感じた。
「おお、神々よ、精霊たちよ!」
「ああ、山脈の王よ……」
親爺と、イェハチの母が、祈る。その場にいた多くの者も、心の中で大いなる者の慈悲を求めた。
その不快な歌は、イェハチの体から力と気力を奪おうとした。
背中に痺れのような感覚が襲い、それが指先まで行きわたる。そして、不快感でなく、全身を羽で撫でつけられるような心地よさが走り、筋肉が弛緩し、思考が遠くなる。
(父さま……)
それでも彼は、抜けかけた手の力を再び奮い起こそうとした。しかし、
(槍を離せ。槍を離せ)
槍を離せ。そうすれば、この苦しみから解放される。心に、何かがささやく。死が訪れると分かっていても、その声の誘惑に逆らえなくなる。
だがその時、
(いや、槍を離すな)
父の声が聞こえた気がした。その声は、曇天を切り裂く天の光のように、イェハチの心に差し込んだ。
そして、イェハチの槍に、何かが絡みついた。植物の、ツタのようなものだ。
「……?」
そして、その絡みつく何かを辿って目を向けると、波と水しぶきの向こうから、飛んでくる者が。
(「東から来た人」……?)
フードの下、闇色の目の奥に、炭火のように静かで強靭な光を見た気がした。
そしてイェハチの視界は目まぐるしく変わった。
陽光に照る水しぶきの中、必死で槍をつかみながら、何が起きたのかわからなかった。小脇に抱えられているのは分かった。何度か空中で回転したような気がして、そしてすぐに落ち着いた。
顔に雫が垂れている。揺らぐ視界が定まり、鮮明な意識が戻る。最初に目に入ったのは、自分を抱える彼の足だった。その足は、確かに海の上に立っていた。
サンダルを履いたその足の、むき出しの足首に掘られた入れ墨が、鮮やかな青と赤に照り輝くように見える。そして、蛇のような細長い何かがその模様の中でうごめいている……、いや、泳いでいるように感じた。
そして気づいたことに、その足が立つ水面を中心に、波が立っていない。彼の立つところを中心にした一間ほどの円は、桶の水のように静かで、波も避けていくのだ。
顔を上げて次に目に入ったのは、自分たちの周りを異常に長いムチのように、あるいは尾のように旋回する、今しがたイェハチの槍に絡んだ、ツタに似た何かだった。
その先端は、自分を抱える彼の反対側の手に握られ、見る間に縮んでいく。そしてそれは、彼が常に持つ杖へと形を戻した。
イェハチはそこでようやく彼の顔を見上げた。
「『東から来た人』……」
外套のフードは外れていた。その男、ショール・クランは、いつもの静かな顔で、正面を真っすぐに見つめている。
その視線の先には、思わぬ展開に声もない港の人々が。
「飛ぶぞ」
短く言うや、ショールは、杖を港にかざした。
矢が飛ぶように杖が伸びた。はるか先のクレーンまで緩い放物線を描きながら伸び、そして蛇のように絡みついた。
同時に、ショールとイェハチの体、そしてイェハチの槍にも、その「杖」は絡みついた。ひとたび絡みつくと、それは鉄のように固く、彼らの体を固定する。
「飛ぶって……」
「杖は一気に向こうへと縮む。飛ぶ鳥のように早いから、舌を噛まないように気を付けてくれ」
だが、ショールが言い終わるより早く、その進路の海面から鮫が飛び出した。イェハチに刺された鮫だ。
逃しはしないと、ふたりを丸呑みにできるほどの大きな口を開け、牙を見せつけ、怒り狂った勢いで迫ってきた。
「……」
ショールの「杖」は、クレーンから離れた。そして主に鮫が襲い来る中、リールに巻かれる糸のように、宙にしなりながら速やかに縮む。
その一方でイェハチは、ショールの足元から強い力の気配を感じた。彼の足首の入れ墨は、その鮮やかさを増している。
そして、その足元の海面が、まるで風船のように膨らんだ。
それで生じた波に乗って、ショールは跳んだ。跳んで、襲い来る鮫をかわした。
(水を、操った……?)
そして再び海水に着水した時には、彼の「杖」は、再び杖に戻っていた。
イェハチは、鮫からのさらなる攻撃を予感して心で身構えたが、ひと呼吸、ふた呼吸の後も来ない。
海面が落ち着くと、ふたりの後方に巨大な背びれが現れた。ふたりの姿を覆い隠せるほど大きい。
それが一枚、また一枚と現れる。
鮫が集まってきていた。六枚の背びれが、警戒し様子をうかがうかのように、あるいは取り囲んで逃げ道を塞ぐかのように、ショールらの周りをゆっくりと旋回している。
イェハチが刺した、ひときわ大きなあの鮫の気配も感じる。
逃すつもりは、ないようだ。
「…………」
イェハチは、ショールの身から、力の高まりのようなものを感じた。
不思議な気配だった。猛火のように敵を威圧するものではなく、自分を霧のように包み込み、隠し、守護しようとする。そんな気配だ。
(霧……)
ふと思い出す。霧を纏う不思議な城、「島船」。
背後にあるそれに意識を向けたイェハチの視界に、色とりどりの粉のようなものがたゆたった。
気づいてショールに目をやると、外套の下に着こむ彼の衣が、黄色や赤、緑など、その柄が波駆けるように変化していく。さらに目を凝らすと、砂粒のような花が、次々に咲いては散り、また咲いている。舞っているのは、花びらか、花の粉か。
そしてその粉の中を、羽音も立てずに無数の蜂が飛ぶ。ショールの腰帯の琥珀から、巣をつつかれたかのように、次々に蜂が飛び立っていた。
彼の外套も、風にそよぐように揺れてわずかに浮き上がり、そして毛羽立ち、フェルトのようだった見た目が、短毛の毛皮のようになる。
ショールの杖も動いた。主の右腕に、まるで腕輪のように巻き付く。
そしてショールは、自由になった右手で外套のフードを手に取ると、濡れた頭にそれを深くかぶせた。




