海の悪魔②
「何か騒がしいな」
衛兵たちの様子がおかしいことに、マウロたちも気づいた。
その横で、イェハチの弟の一人が、軍艦の方を指さし、叫んだ。
「鮫がいるよ!」
聞こえた全ての人間の顔色が変わった。
「望遠鏡を!」
マウロは従者から望遠鏡を受け取り、つとめて抑えた声で、
「どこにいるんだい?」
「おっきな船の下! 何匹もいるよ!」
イェハチの兄弟たちが騒ぎ出した。悲鳴のような声を出す子もいた。
マウロは軍船の下を確認した。船が出す波でよく見えない。が、船が防波堤を半ばほど通り過ぎたところで、船によるものでない波立ちと、黒い背びれとが目に入った。
「いかん!」
それは、巨大な鮫だった。十人乗りの漁船ほどの大きさがあろうか。奴はトビウオのように海上に飛び上がり、水を纏って船の横腹に激突した。
「ああ!」
港で人々の悲鳴があがった。巨大な黒鉄の軍船が左右に揺れた。一匹どころか、何匹もの巨大な鮫が、船の左舷へと立て続けに突撃してきたのだ。
ただぶつかっただけでは、いくら巨大でも、鮫がこれほどの軍艦を揺るがすことはあり得ない。奴らは突撃の際、水をまとっていた。おそらくただの水ではない。破壊を目的とした、何らかの魔法的作用があるものだろう。
巨船は揺らいだ末、防波堤の先端に右舷が激突し、そこにあった小さな灯台を崩した。船体は港の出入り口を半ば以上にふさいだ格好になり、随行していた船は港に入れない。それをしてやったりと、鮫どもは防波堤の中から軍艦に攻撃を加えはじめた。
「推進機構も舵もやられたな……」
マウロが苦い顔で言った。
鮫の姿は見えないが、轟音とともに船が揺らぎ、水柱が立つ。鮫どもは、今度は海面から出ずに、水の中から船底に攻撃を加えているようだ。
衝撃のたびに、船体に青い波紋が走る。遅ればせながら、防御の結界が施されたようだ。
しかし遅かったか。傾きかけた船の下から、木片などが浮き上がり始めた。
港の警鐘が鳴り響く。
アマーリロの衛兵たちはあわただしく動いている。総督たちが大声で指示を飛ばしているのが見えた。
船上からも、銃や魔法での反撃が始まったようだ。しかし、濁る海の中、姿の見えない鮫たちに有効なのかは、遠目には確認できない。
「船に武器はねえのか!」
親爺が叫ぶと、マウロは望遠鏡を覗いたまま、
「あの船の装備は、艦同士の砲撃戦を目的にしたものがほとんどだろう。海中への備えは、護衛の二隻の役割だったはずだ」
しかしその二隻は、防波堤の外にある。
そんな時、
「イェハチ兄さん!」
イェハチの弟が悲鳴のような声を上げた。
マウロたちがその視線を追うと、防波堤を駆ける小さな影が見えた。彼はまっすぐ、船の方に向かっている。
「イェハチ、何をする気だい!」
イェハチの母が叫び、駆けだそうとするのを、カミロの父や、近くの漁師たちが止めた。
「離して!」
「ダメだ奥さん!」
その喧騒の中、カミロの目は、不思議とショールの姿を探した。
「クランさん……?」
そして気づく。彼の姿がどこにもないことを。
「待てイェハチ!」
カミロ達のところにまで、エドゥの叫びが届いた。彼も気づいたのだろう。
そして人々は見た。イェハチは槍から黒曜石の火を放ち、それを石の防波堤に突き立てた。地面で炎が爆ぜるととともに、小さな体が宙を舞い、海に飛び込む。
そして皆が息を吞むのも待たず、イェハチの体はひときわ巨大な鮫とともに、海面に躍り上がった。
「ああっ!」
イェハチの槍は、その鮫の背中に突き刺さり、彼はその槍を頼りに、荒れ狂う鮫の背中にへばりついていた。
「ああ……」
「ねえさん!」
「しっかりして!」
イェハチの母は、その光景に腰を抜かし、亡き夫の他の妻たちに支えられた。
イェハチは父が死んだあの日、その最後の戦いをすべて見届けていた。
イェハチは見ていた。どの鮫が父を殺したのかを。ひときわ大きな鮫だった。奴は父の槍を受けたはずだ。その左目の上に。
今、彼が槍を突き立て、逃すまいとしているこの鮫こそ、父の仇だった。
奴の左目の上には、醜くゆがんだ三日月型の、赤くただれた傷跡が、確かに残っていた。
鮫は苦しみもがくように身をよじらせ、海面付近を泳ぎ回っている。そして、海の中に潜った。
イェハチは海中で息を止め、そして、自身の槍にはめ込まれた黒曜石に念じ、力を込めた。火の山から生まれた黒曜石の力は、海中にいてそれとわかるほどの激しい熱を出し、鮫の背中から水煙が吹き上がる。鮫は悲鳴を上げるかのように、海面に躍り上がった。
そして鮫は、イェハチを海面に叩きつけようと、空中で身をよじり、背中から着水した。
(離すもんか!)
背骨が折れるのではないかと思うほどの衝撃を受けたが、イェハチはそれでも槍持つ手を離さない。
鮫は再び海面付近に浮上して、イェハチの体は水上に出た。
そしてイェハチは気づく。何匹かの鮫たちが軍船への攻撃をやめ、自分に迫ってきていることを。
イェハチは覚悟した。例えここで死んでも、この鮫だけは道連れにしようと。