疾走
この信号を渡ったら歩こう、と決めていた。だから渡り終わったら歩こうと。
巧は、走っていた。そして走るのをやめて歩いた。だんだんとそれを繰り返していくうちに体は疲れてゆき、もう走れないぐらいだった。
足が痛いし、肺が痛い。
誰かの声が聞こえる。自分が呼ばれているわけじゃないだろうと思う。そもそも、なんて言っているかわからない。
たくさんの車のライトや様々な明かりが目に入る。自分には関わりのない人が発する光だ。こうやってどれだけのすれ違いを今までしてきたのだろう。そう考える。
叫び声が聞こえる。誰かを探しているみたいだ。
果たして、自分を探している人なんているのだろうか。逃げてきたのだ。何もかもを諦めた。
報われない努力はある。障害のある自分が一番知っているはずだ。
そうやって考えているうちに同じ声がもう一度、鼓膜を叩いた。
「たくみさんっ!」
そのとたん、巧は振り返る。
さっき渡った信号は赤に変わり車が横切るようになった。その切れ間から、声の主を探した。必死で、息を切らして。
長い信号の先に学校の制服を着た女子がいる。あの人と髪型が違う。いやでも声は似てた。あの人と。
駄目だ、待たないと決めたのに探し始めてる、期待してる。
すると、十数メートルの遠くで、彼女が体を震わせながらゆっくりと顔を上げた。
その表情と、目と涙が見えたとたん殴られたように激しく心が動転し出した。
「なんで、きたの」
届くはずのないつぶやきが漏れる。
ゆらりと少女の体が揺れる。
「ねこざねさんっ!」
それを見て巧は駆け出した。重いバッグを地面に落とした。
衝動的に体が動く。軽い。ゆっくりと確実に時間は流れる。
目指す彼女は思ってるよりも、強くてここまでやってきた。思ってるよりもか弱くて地面に崩れ落ちて行く。
さっきの何倍ものスピードで信号を渡りきった。
「ねこざねさん」アスファルトに四つん這いになる彼女の背中に声をかける。
すると彼女は黙ってゆっくりと立ち上がった。巧は動き出した猫実さんに触れないように後ずさる。彼女は黙ったままでパンパンと脚のホコリを払う。髪を整える。
そしてやっと目が合った。真っ赤な大きな目で、こちらを突き通すようなまっすぐな視線を送っている。いつものポニーテールは解かれて波打つ髪の毛が肩まで垂れている。
荒い呼吸がこちらまで聞こえてきそうだ。
やつれていて痛々しい。俺のせいだ。
「ごめんなさい」
猫実さんは何も言わない。
「猫実さん。僕を殴って下さい。」
「嫌です。」
鋭く、拒否される。
「だったら私を殴って下さい。」
と衝撃的な一言。
「はっ、はあ!?出来ませんよそんなことはっ!」
「どうしてですか」
「女子を殴ることなんかできない」
「女子じゃないです。猫実未来です。私は。」
「こんなにやつれている人を殴ることなんてできない。それに、」
ここで息が続かなくなる。走ったばっかりで疲れている。猫実さんも肩で息をしているのがわかる。
「悪いのは僕です」
しっかり目を見て、言った。
「だったら私も同じ気持ちです!あなただってやつれている!」
随分久しぶりに聞いた、絞り出すような声が懐かしくてたまらなくなった。耳の悪い自分に聞こえるように大きな声を出しているのもちゃんとわかる。
申し訳なくて、どうすればいいのかわからなくなった。
「ごめんさない。」
言ったとたん、猫実さんにぐっと腕を引っ張られる。信号を渡る人の邪魔になってたようだ。急いて端に寄った。
また、何も言えなくなってしまう。
「どうして、来てくれたんですか。逃げたのは僕なのに」
「よくわかりません。よくわかりませんけど、信じてました。」
淡々とと彼女はいう。
「本当に、上手く言えないです。何かできると思ってたんでしょうね」
悔しそうに肘を掴んで唇を噛む。もどかしそうに、険しい顔になる。いつもと違って大人っぽい。髪を下ろしているからだろうか。
「ありがとう。来てくれて。それだけで、嬉しいよ」
そうだ。「ごめんなさい」より先に言うべきことだった。
「本当にありがとう。なんか、猫実さんに会うだけで、元気でた。」
「えっ」
「本当になんであんなんで逃げたのかなあ!」ちょっと恥ずかしくなって俯いてしまう。会うだけで元気でた、なんて言うかな普通。
「でも、本当に元気でたよありがとう」
呆然としている猫実さんにに笑いかける。でも猫実さんは何も言わない。
また2人の間に沈黙が降りる。周りの雑音が急に聞こえるようになった。人の足音や、様々な声。
そうだ、言わなきゃ。もっといろんなことを。ここまで来てくれた彼女に。