第08話 その拳は何を掴む
まったくをもって腹立たしい。
白心の煮え切らない態度でも戦いに巻き込まれたことでも、ましてや殺される状況に置かれていることでもない。
ただただはっきりと助けを求められないほど弱い自分、そしてこんな状況に追い込んだあの白い少女に感謝している自分に対して苛立ちが募り爆発した。
首や脇腹からドクドクと血が迸るのも構わずに、戦兵衛に向けて感情を吐き出す。
「過去の俺を殺してくれてアリガトウゴザイマスッ! 今からあいつを笑わせに行くのでそこをおどきやがれくださいませッッッ!!!!!!」
今思えば、無表情のまま思ったことをぶつけてくれる白心のことがずっと気になっていたのかもしれない。でなければここまで怒りに顔を歪めるはずがない。
素直な照光が動く理由は、本当はそれだけで充分だったのだ。
単純と思われるかもしれない。短絡的と言われるかもしれない。「だから無運枠なのだ」とバカにされるかもしれない。
知ったことか。
「行くぞオ"ラ"ァァアアアアアア!!」
目の前の男を殴り飛ばす。そしてあの少女を見つけ出す。
そして————あの少女に笑顔を教えるのだ!
「ふん。やかましいだけの無能が。うぬの足掻きなど儂の障害たり得ぬことを教えてやろう」
そう言って懐から大量の銃器を剥き出した時には、すでに照光の行動は始まっていた。
天龍の脚を一瞬だけ限界以上に駆動、音速で踏み込み、そしてコンクリートを踏み砕く音とともに上半身を反らしつつひねって左拳をフルパワーで脇腹に向けて抉り入れる。
レバーブローだ。
空気を押しつぶす音とともに拳が突き刺さり、戦兵衛の身体がくの字に曲がる。
「ごっ、が……うごぷッ」
引き金を引くよりも早いそれを叩き込まれた戦兵衛は、ガクガクと足を揺らしながら口に胃の内容物を溜める仕草をする。
もちろん、この程度で終わらせるほど照光の怒りは浅くない。
次に照光は左半身を引きながら右手で戦兵衛の首を掴み上げ、
「オンドゥルガッサイヤッ!!」
野球のトルネード投法のように振り返りながら豪快に壁に投げ飛ばした。
「ぬあああああああああああああああああああああああああ!?」
戦兵衛がいくつも壁を破って転がり込んだのはショッピングモール。当然夏休み期間中である今だと多くの学生がそこで買い物を楽しんでいたのだが、突然の闖入者に誰もが悲鳴を上げる。
永遠に転がり続けるのではないかと思えるスピードで転がる戦兵衛は刀を地面に突き立ててムリヤリその勢いを止め、激痛と驚愕に歪んだ顔を迫り来る照光に向ける。
「ぐ、ぬう、なんと鋭き肝臓打ちぞ。もしや『拳闘』の隠れジーニアスか!?」
「くっっっっっだらねぇ! どいつもこいつも才能さいのうサイノウ! 十何年もやってりゃんなモンいくらでもできらい! つうかできないならできないでどうぞご勝手にだダァホ!」
右腕を弓のように引き絞りつつ猛牛の如く突っ込む照光。彼の目は真っ赤な怒りに染まっていた。
もしくは、今までにない活気に満ちていた、とも言えるか。
戦兵衛が肩の縫い口から金属質のものを展開し、前面をすっぽりと覆った。おそらく携行型シールドを改造した何かだろう。
それへの対抗策はすでに頭の中にあった。
まっすぐな彼が考えるのは、それしかなかった。
「オンドゥルガッサイヤッ!!」
構わず殴る。
ゴバンッ! と着弾点から猛烈な衝撃波が広がる。それは衆人を払いショーウィンドウを割るほどのものだった。
戦兵衛が耐えきれずに下がるのを、照光の荒々しいまでの怒りが追いかける。
殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、ブン殴る————
愚かなまでに真っ直ぐで間抜けなまでにひねりのない連打だった。
ビギリ、という音が響く。
「莫迦な! この王鋼製シールドにヒビを入れるじゃと!?」
「あいつは教えてくれた。大事なのは努力することじゃなくて、できることを見つけることだって」
殴る殴る蹴る蹴る殴る蹴る蹴る殴る殴る殴る殴る蹴る殴る殴る蹴る蹴るブン殴る————
フェイントもコンビネーションも織り混ぜない馬鹿正直な乱打だった。
さらに深いヒビが刻まれる。
「あり得ぬ! あり得ぬぞ! こんなこと、あってはならぬのじゃ!」
「俺は見つけた。俺のできることを。十六年。本当に長かったぜクソッタレ」
殴殴頭突き殴蹴頭突き殴殴蹴頭突き殴蹴頭突き蹴殴頭突き頭突き蹴蹴蹴殴蹴頭突き————
頭も歯も血も本能も野生も感情も精神も魂も剥き出しの猛打だった。
その中で照光は思い描く。
自分の進むべき道、その先を。
白心の笑顔を。
力を溜めるために体が反らされる。
放たれたのは、
「笑え」
黒龍の頭突き。
「笑いやがれええええええええええええええ!!」
「あり得ぬううううううううううううううう!!」
渾身の頭突きは超硬度の盾を砕き、戦兵衛の姿を露わにした。
が。
「ふん、阿呆が」
そこで待っていたのは、戦兵衛によって構えられた水圧カッターだった。
石材の切断に使う工具を軍事転用したそれは、寸分違わず照光の眉間に向けられている。
思えばシールドは肩から出ていたから戦兵衛の両手はフリーだ。武器を持って待ち構えている方が自然だし、おそらく先ほどの恐慌の声も照光の突撃を誘う演技だったのだろう。
間違えようのない死の予感。
「う、お」
それに襲われて思わず変な声を出す。一瞬と経たないうちに頭蓋を貫かれると思うと、自分の何もかもが止まりそうだった。
せっかく、新しい夢を見つけたというのに。
「————ォォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
だからこそ止まらなかった。
止まるわけにはいかなかった。
恐怖を押し潰してさらに踏み込み、戦兵衛の鳩が豆鉄砲を食らったような顔が目の前に来るまで詰め寄る。止まると予測されていたからか射線がわずかに逸れ、側頭部をかすり右耳が吹き飛ぶだけにとどまり、
そして、
頭を振り下ろす。
莫迦な、という驚きの声を聞いた。どちらの口から発せられたのかは分からないが、そんなことはどうでも良かった。
ゴシャッ!! という汚い音がモール内に響き渡る。
二人はそれぞれ額を手で押さえ、ヨロヨロとおぼつかない様子で足踏みした。
だが、膝を突いたのは一人だけ。
もう一人は確固たる力で踏みとどまっていた。
「ぬぐあああ……あ、頭がぁぁ……」
「人のことを実験動物だと? 化け物だと? 人形だと!? 自分の定規でモノ言ってんじゃねえよクソッタレが。お前みたいな奴がいるからあいつはあんな目をするんだ。自分は人間じゃない、生きてはいけない、死ぬべきなんだ、ってな」
照光は怒っていた。
自分の不甲斐なさに向けるような語り口で、とても激しく。
だがなぁ、と彼の言葉は続く。
「あいつは人間だ。誰がなんと言おうと人間なんだ。そして人間には笑う権利と義務と能力がある。そして笑えば人生はいくらでも輝くんだ!」
道化師の笑顔でしか取り繕えなかった男が初めて本当に笑った瞬間だった。そしてそれはまるで自分こそ人生の成功者だと雄弁に語っているかのようだった。
それをこの状況で浮かべた照光は、あるいは異常なのかもしれない。だが本当にそう思っていたのだから仕方のない話だった。
「笑えないなら努めるべきだ。それでも無理なら誰かに笑わせてもらうべきだ。人間は幸せになるべきなのだから!」
人ならざる拳を、握る。
見つけた夢を逃さないように、強く、強く、
強く。
「俺は決めたぜ。お前をブッ潰してあいつをブッ笑わせるってな」
「ふん、間抜けもここまで来ると畏敬の念すら浮かぶ。うぬは何も理解しておらなんだな」
鼻で笑う戦兵衛の瞑目は哀れみに満ちていた。
もう、これに怯える日々はなくなるだろう。
そんな気がした。
「アレを真に理解した時、うぬはアレを見捨てようぞ」
「関係ないね」
ニシシ、とすべてを笑い飛ばし、戦兵衛の顔に鉄拳を叩きつけようとした。
だがその直前、戦兵衛の顔にはまたアレがあった。
口角を上げただけの不気味な笑みだ。
「桶狭間一刀流壱の型、【霧斬剃】」
それを認識するや否や、前へと突っ込ませた右腕がいつの間にか後ろに弾かれていた。弾かれる直前に幾重もの摩擦音と金属音が聞こえた以外には何が起こったのかさっぱり分からず、照光はただ驚愕に目を見開いた。
「ふむ、六回か。まあ良かろう」
ポツリとつぶやく戦兵衛に腕だけの力を使った左ジャブを放つ。
それだけでも人一人を叩き伏せるには充分な破壊力があるというのに、それも同様に摩擦音と金属音とともに後ろへと弾かれた。
「!?!?!?」
「四回。うむ、終いとしよう」
戦兵衛は両手に引っ張られる形で後ろによろめく照光から離れないようにすり足で間合いを保ちつつ、腰を落として何かを体に隠すようにして構えた。
あれは————
「居合か!」
「名答」
チキッ、と鞘の尻が揺れた瞬間、
「桶狭間一刀流弐の型、【砕鎧】」
戦兵衛に後光が差した。
反射的に膝を上げてスネで腹部を守ると、先ほどとは違う鈍い金属音がモール内に響く。
天龍の脚が折れた音でも、ましてや斬れた音でもない。現に距離を取るために後ろに跳ねる脚があることからそれは窺えた。
「ぬう、さすがに限界であろうな」
戦兵衛が空き缶でも捨てるように放り投げたのは折れた日本刀。そして奇術師みたいに袖から取り出したのは、鞘に納まった真新しい日本刀だった。
複数の金属音と摩擦音。突然の発光。そして折れた日本刀。
「まさか」
「気づいたようじゃな。いかにも、儂の『桶狭間流』は人にも刀にも大きな負担がかかる。『武器術』を修得したのもそのためじゃ」
つまり。
照光の魔龍の腕を弾けたのは一度に複数の斬撃を重ねて押し返したから。先ほどの発光は異常な抜刀速度による刀身と鞘の摩擦が原因。重なった複数の音は刀を抜く、斬る、納めるの一連の行動を一瞬で複数回繰り返したから。
そして、『武器術』を修得したのは————刀が折れても補充が利くようにするため?
「化け物めぇ……!!」
自分の能力を引き上げ弱点を補うためにやすやすと新たな力を修得する。
これが才能。
これが天才。
今まで自分がオマケの力に逃げ、そしてこれから戦うのが自分の持たないものを持つ者だと思うと、怒りに加え嫉妬の感情も爆発しそうだった。
「ふん、褒め言葉を送るには人間力が低すぎるのでは?」
またどっしりと腰を落とした居合の構えを取る。
「防いだ右脚、動かなくなったろう」
「ッ…………」
「逆刃刀というものがある。とある漫画の空想の武器であるそれは峰と刃が反対となっておってな、儂が享楽として作ってみたのじゃが、いやはやまさか役に立つ日が来ると思わなんだ」
魔龍の腕や天龍の脚は有機義体と違って駆動神経だけがつながっている。それが動かなくなるということは神経が断絶したか機能しなくなるまでに振動しているかのどちらかだ。おそらく戦兵衛はその逆刃刀とやらで強力な打撃を放ち、義足の神経を揺らして一時的に故障状態にしたのだろう。
チキッ、とわずかに刀身を鞘から出し、戦兵衛はその絶大な殺意を解き放つ。
「桶狭間武道守戦兵衛、またの名を『鬼の心眼』。儂に拳を向けるうぬに応え、その魂に終止符を打たせてもらう。……いざ尋常に————生殺」
口上を終えた戦兵衛が姿勢を変えないゴキブリのような高速すり足で近づき、照光は慌てて空中へと逃れる。
ここはモールの中央広場にして吹き抜け。路地裏のように狭い空間ではないから三角飛びのように空中への移動手段はない。
——おそらく奴は戦闘に特化したジーニアスだ。
——俺が空中にいる間に奴を倒す算段を取らないと!
そんなことを考える余裕があったのは、まだ天才というものを過小評価していたからかもしれない。
戦兵衛は自身をカタパルトにでもしたかのように大量の刀剣を全方位に弾き、モールの壁や柱に刺さったそれを足場として空へと駆け上がった。
地上二十メートルにいる照光の目の前に来るのに、五秒も要さなかった。
「ふぬぉう!?」
「桶狭間一刀流伍の型、【兜無視】」
掲げてから斬り下ろす奇妙な居合抜きを照光はなんとかガードするが、足場のない空中ではなす術もなく地上へと叩き落とされる。身を翻す暇もなく後頭部から落ちたが、殴られ屋で鍛えられたタフネスをもってすぐに起き上がり、降り注ぐ銃弾の雨を飛び込むようにして避ける。
——クソッタレ! 今度は左腕が動かねえ!
休む間もなく数回爆発するような音が轟く。見上げるとバズーカ砲の反動を利用して空中で方向転換した戦兵衛が目の前まで迫っていた。
再び振り下ろされる剣を掲げた右腕で防ぐ。
だが、天才としてこの国にいる人間がそれだけで終わらせるはずがなかった。
「桶狭間一刀流陸の型、【曲月】」
グニャリ、と刃先が溶けたキャンディーのように垂れ曲がり、右腕を迂回するようにして照光の肩に突き刺さる。
「が、ああああああああああああああああ!?」
「ぬう、無念。脳天を貫けなかったか。まだまだ修行が足らぬな」
どういった原理でそんな奇術めいたことができたのか分からず混乱しながらも、右腕で刀を振り払いその手で殴りかかるが、戦兵衛は左半身を引きながら身体をわずかに反らすことで難なくかわす。
そして、
「桶狭間一刀流漆の型、【破鎚】」
いつの間にか左手に持っている鞘を全身これ筋肉といった巨体をバネのように使って照光の喉に突き立てられる。
喉仏が砕けた直後の記憶、そして無機義体によってかなりの重量がある照光の身体がゴムボールのように吹き飛んだ。
「が……う……」
虚ろな声を漏らしながら吹き飛ぶ照光の意識は、背後にあった柱に後頭部をぶつけることで無理やり覚醒する。口からは唾液の如く無尽蔵に血が溢れ、脇腹の銃創は黒い学生服を赤黒に染め上げていた。もはや生きているのも不思議な状態だ。
だが、この程度で殺人鬼の手が緩む道理はない。
正面から矢のように突っ込む戦兵衛を認め、錆びた鉄のようにボロボロな身体を柱に寄りかかりながらゆっくり立たせる。とにかく首や腹部を守ろうと脛や前腕を盾にした時、
「桶狭間一刀流玖の型、【震混暴】」
戦兵衛の右手が消え————違う、腕の振りが速すぎて見えなかった。
しかも左に構えているはずなのに斬撃が上下左右から襲いかかってきて、まるで太刀筋が三節棍、いや、鞭の如くしなっているかのようだった。
「ぬあ、おがえ!?」
「ふむ、これだとまだ足りぬようだな。ではもう少し数を増やすか」
耳障りな金属音と居合の摩擦音の数だけ峰で殴られているようで、照光の精神と無機義体の駆動神経を削られていくのがはっきりと分かった。
ついにその手足が持ち上げられなくなった瞬間、
「まじゅ————」
「桶狭間一刀流参の型、【業雪花】」
照光は真剣による斜め一文字の袈裟斬りを胴体に寸分違わず一往復される。
一度斬った場所をもう一度斬る。それは傷を奥深くまで刻む必殺の連撃だった。
「————————」
激痛のあまり断末魔すら上げられなかった。意識が一瞬で塵芥と化し再び吹き飛ぼうとする。わずかに残る意識が後ろから崩れるような音を聞いた。どうやら戦兵衛が照光とまとめて柱も切り刻んだようだ。
——クソッタレ。圧死か失血死、どっちが先だか。
——ホンットにつまんねえ人生だったなあ。
——いいことなんかこれっぽっちもなかったよ。
——結局のところ、俺なんかじゃ夢は叶えられないってことか。
ズルズルと崩れ落ちる照光は戦兵衛が新しく取り替えた刀を振りかぶるところを目撃する。あれは鎌を構えた死神なのだと認識すると笑顔すら浮かべ、満足そうに目を閉じた。
なんの才能にも恵まれない少年の最期に走馬灯はなかった。当然だ。家族を思い出そうにも両親の顔すら知らず、見下され孤独に生き続けた人生など思い返したくもなかった。
『大切なのは努力することじゃなくて、自分は何ができるかを、見つけることよ』
ただ一つを除いて。
「キャアアアアアアア!!」
ちょうどその時、少女の叫び声を聞いた。
方向と音量からして少女はすぐ斜め後ろ。つまり柱の崩壊に巻き込まれようとしていたのだ。
——俺の……できること……。
照光はなぜかためらわなかった。
カッ! と目を見開き、死に体を鞭打ち振り向きながらブーストを全開にする。その噴射炎で戦兵衛を牽制しながら少女に向かって飛び込んだ。
——間に……合えッ!
照光の願いが届いたのか、少女を抱き止めた勢いのまま崩壊の範囲から間一髪脱出することができた。
「がああ!」
しかしやはり噴射炎程度では奴は止められなかった。照光は戦兵衛の追撃によって背中に大きく袈裟斬りを受ける。
「ぬう、まさか生きているとは思わず油断したが、儂から意識を外しあまつさえ背中を晒すとは。やはりただの阿呆であったか?」
照光は息絶え絶えになりながらも少女を押してここから離れさせようとする。
「……うむ、分からん。やはり分からんぞい」
走り去る少女を見届けようやく体を返すと、怪訝そうに眉毛を八の字に曲げた戦兵衛に野太刀を突きつけられる。
「あの時もそうじゃ。自分だけ逃げればいいものを、儂まで救おうとした。器を持つわけでもないうぬが何故己を第一としない?」
あの時とはクラスター爆弾を打ち上げて道連れにしようとした時のことだろう。
「この世で最終的に信じられるのは己だけぞ。だというのに、自分一人すら抱えきれぬような屑になぜ他に目を向ける余裕がある?」
照光はうっすらと笑った。
あの時はただ無我夢中だっただけだ。照光には敵とはいえ死にゆく人間を見たくないなどという聖人君子な言葉を吐くつもりも装うつもりも器量もない。むしろなぜあの時自分だけ逃げなかったのかと後悔するほどのロクデナシだ。
でも、今は違う。今ならあの行動をとって良かったと心から思っている。
手足の感覚が戻っていることを確認すると、よっこらせと照光は血の流れる体を立ち上がらせる。
刃をその体に食い込ませながら。
「な……」
ズプププ、グチッ、プチプチ、グチャグチャグチャ、ズププププププププッ。
有機の人体に無機の鋼が奥へ奥へと食い込むその音は身の毛がよだつどころではなく、遠巻きに見る野次馬すら内耳を取り出したくなるような生理的嫌悪感があり、数えきれないほど人を斬ってきた戦兵衛でさえ顔を引きつらせるものだった。
だがただ一人、そのデスノイズを噛み締めるように楽しむ外道化師がいた。
「おがえはかっきかあいおいおきいがちきがけたいがんがんえぐあァ? あぐぎんぎあらあぐぎんぎあぎくうあっかおくいがぎきっきゃいあひょうあ
(お前はさっきからいろいろ聞いたり聞かせたりしてなんなんですかァ? 殺人鬼なら殺人鬼らしくさっさと首掻き切っちゃいましょうや)」
言葉を吐く度に砕けた喉骨が喉を引っ掻き回し鮮血がスプリンクラーのように散る。吐き出される言葉ももはや人間の言語ではなく獣の鳴き声に近かった。
それにも関わらず照光は眈々と戦兵衛に向けて言葉を綴り続ける。やっていることは普通なだけにそれは狂気以外の何物でもなかった。
「おえおもあんが、いおぼこおくあくぎんきぎゃいえおおごろえあぐておわぐあっきゃっかか? おいふふぁああいおうい。えもだいおうぐ、いえおあおんああうおいがだでぐ。いあぐぐわわわげへあぐかああんひんいやかいがあへ
(それともなんだ、人を殺す殺人鬼じゃ道化師を殺せなくて怖くなっちゃったか? そいつは可哀想に。でも大丈夫、道化師はそんな奴の味方です。今すぐ笑わせてやるから安心しなさいやがれ)」
「き、気でも狂ったかッ」
「ん"ん"? あんえがくげいいっああっけ? えうぎあいぎがぎううぎゃええお。あがおえにいえろいあえういひょうがあうかおいきあえうおこあぎいきあがけあ
(んん? なんで助けに行ったかって? 別に大した理由じゃねえよ。ただ俺に道化師になれる器量があるかを見極める物差しにしただけさ)」
「ぐっ、この、こっちに来るでない!」
「があ、えっがおいであんおあげいもあああいっでいづいがあげあげおが
(まあ、結果としてなんのアテにもならないって気づいただけだけどな)」
会話も言語も噛み合わないことも気にせず照光は語り続ける。
「おがえああげいぐんをがいいぎいぎあいあっげきいがおあ
(お前はなぜ自分を第一にしないのかって聞いたよな)」
驚くほど平べったい声。それが先ほどまで激しい喜怒哀楽を見せた少年の口から出たとは到底考えられないものだった。
「あぐがぎうでうががあいかぎゅがいうが? かあいぎがくあくげごおがあいごおぎあがいうが? あああえうごあいがえがぎえうぐぴげどあいぐあ?
(恥ずかしくて歌わない歌手がいるか? 悲しみたくなくて殺さない殺し屋がいるか? 笑われるのがイヤで真面目ぶる道化師がいるか?)」
ついに身体が野太刀に貫かれ、鍔に詰まったところで照光はゆっくりと戦兵衛の顔を見上げる。
笑顔とはいいものだ。
嬉しい気持ちを伝えることができれば、つらい気持ちを隠すことも、話題を逸らしたり有耶無耶にもできる。
何より、
「だげあおあがあげうがえいぎうんおぎおうぎいぐうおがうぎお……ごうえんごいうおごがあいがあァ?
(誰かを笑わせるために自分を二の次にするのはむしろ……当然というモノじゃないかなァ?)」
ムカつく相手を一瞬で戦慄させることができてとても便利だ。
野太刀を放した戦兵衛によって照光は蹴り飛ばされる。しかし床を転がり終えた直後に手足を使わず貫かれた腹筋の力だけを使って起き上がった。
まるで道化師————そう、ゾンビのモノマネをする道化師のようにお道化ながら。
「があがあおっげあっがいいげあっがい! げいんおーぴげどおだいいぎえんごぐ、【死者蘇生】おごあいぎょうがおう! ごえいげえがおおうがえあごごいおごごいごい!
(さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 虹の道化師の第一演目、【死者蘇生】のご開帳だよう! これ見て笑顔を浮かべなよよいのよいよい!)」
笑顔どころか鳥肌が浮かんでいる通り、戦兵衛は戦慄していた。いや、戦兵衛だけではない。遠巻きに見ている買い物客も照光のまとう異常性を認識できた。
この状況で笑顔を浮かべたことではない。貫かれても平然としていることでもない。
血濡れのまま子供のように無邪気に爛々と輝く瞳をしていたこと。ただそれだけがこの場にいる人々の心臓を凍りつかせた。
戦兵衛は目の前のどこにでもいそうな少年が人の皮と学生服を被った異界の魔物に見えてならなかった。
ゾクリ、と戦兵衛の爪先から頭頂に向かって嫌な痺れが走り抜ける。
——恐怖? この儂が、恐怖を感じておるのか!?
実力差を考慮すれば抵抗すら許さない一方的ないたぶりになると思っていた。無理もない。上司はターゲットが無運枠であることを資料に書いていたのだ。今まであらゆるジーニアスやネクストを殺めてきた戦兵衛に油断するなと言う方が酷な話だ。
で、箱を開けてみればこれだ。
背後から奇襲をして避けられたり逃がしかけたり、あまつさえ油断が原因でこの男の逆鱗に触れて慄く目に遭うときた。
天才のプライドがこれを看過するには、少しばかり刺激が強すぎた。
「ぬう……ぉぉおおおおおおおおおおお!!」
任務の完遂などどうでもいい。すべては己のプライドのため。戦兵衛は己を鼓舞する叫びとともに一直線に突っ込んでいく。
「ニギャギャギャギャギャギャギャギャッ!!」
対する照光は愉快なデコレーションが刺さった体で、待っていたと言わんばかりに高笑いを上げた。
隕石の衝突を思わせる地響き。それが照光による渾身の踏み込みであると認めながらも戦兵衛は臆することなく突進し、間もなく二人の射程圏がお互いのそれに食い込んだ。
鉄腕と鋼脚、日本刀の火花散る応酬が繰り広げられたのは、それと同時のことだった。
「「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」」
魔獣の轟咆と殺人鬼の絶叫、そして耳を裂く金属音がハーモニーを奏でる。
音速の剣撃を受け止める技術のない照光は開き直って終始攻勢に徹し、対する戦兵衛は懐に入らせないようにその一切をいなし続ける。それを常人の目に止まらぬ速さで繰り広げる二人を一言で表すなら、架空世界の登場人物というのが妥当だろう。お互いが一歩も引かずに殴り、蹴り、いなし続けるなど、高天原の住人でも現実のものと認められるわけがない。
もっとも、その現実を一番認められなかったのは、照光と向かい合っている戦兵衛だった。
目の前にある魔獣の姿に、戦兵衛の刀を振るう手が硬直しそうになる。
——こいつ……こいつ!
——いったいなんだというのじゃ! とても正気の沙汰とは思えぬ!
圧倒的なリーチ差を意にも介さず突っ込むことやこの応酬の中で戦兵衛から一瞬たりとも目を逸らさなかったことなど今さら恐るるに足らず。しかし戦兵衛はその闘志をはるかに上回る狂気に襲われていた。
「ニギャラギェギャヴェイギョベォアギャギャヒャビャギヒャギャゲェジャビャヒャジャ!」
——吐瀉しながら笑って、尚も攻め続ける人間などあってなるものかッ!
戦兵衛の敏感な鼻が吐瀉物の中からホットドッグや焼きそば、焼き鳥の臭いを捉える。それが目の前の少年が買い食いをする普通の学生であることを証明したことが、さらに戦兵衛を戦慄させた。
それとは別に戦兵衛の鋭敏な耳は、骨が軋み筋肉が千切れ内臓がシェイクされる音を捉えていた。おそらく無機義体の四肢の負荷に照光の身体がついて行けず、拳や足を振るう度にその肉体が悲鳴を上げているのだろう。
————だというのに、照光は手脚を振るい続ける。
太陽の煌びやかさと道化師の狂気を、吐瀉物まみれの笑顔に秘めながら。
「えがお! ごえごおぐががぎいおごああい!
(笑顔! これほど素晴らしいものはない!)」
いよいよその狂気に当てられた時、照光の鉄拳が刀を砕いた。
すぐさま新しい刀に換装しようとするも一瞬早く照光からサマーソルトキックを繰り出され、それをすんでのところで首を反らして避ける。すると下から戦兵衛が掻き切り損じた照光の首級が現れ、冷たい笑みとともに今度こそそれを————
「ぬぐぁあ!?」
————斬り落とすことができなかった。
それよりも早く照光の背中から飛び出た野太刀が、戦兵衛の顔を下から上に裂いたからだ。
光を映さぬ右の眼を斬られ鋭い痛みが走る。しかしそれを噛み締める間も無く照光が戦兵衛の胸ぐらをがっしりと掴み、その巨体をまるで赤ん坊のおもちゃのように振り回した。
「ぬおおおぉぉおぉおぉぉおおぉぉおおお!?」
「ごうあえぎーごうあんごあ。だごぎいだごう!? あがいがいだごう!?
(そうらメリーゴーランドだ。楽しいだろう!? 笑いたいだろう!?)」
そして地上七階の天井に叩きつける勢いで真上に放り投げた。
「うぷ……ぬう、小癪な!」
「おげはごうかあごんおおおぴげごぎあぐ。わがっげおごげげわががげうぴげごいあうんが!
(俺は今日から本物の道化師になる。笑ってお道化て笑わせる道化師になるんだ!)」
照光は拳を握る。
「おごがげぎあげんぎゅうあぎうおうが。あぐあおがえをあああげえがう
(そのためには練習が必要だ。まずはお前を笑わせてやる)」
強く、強く、
「ぎーおーっげおあいおいおおえがおいうぐおんがいが。がっがあぴげごおぎーおーが。おげおうげあ、あここをあああげえあぎえふぇぎょうぎゅぐうんが!
(英雄ってのは人々を笑顔にする存在だ。だったら道化師も英雄だ。俺の夢は、あの娘を笑わせて初めて成就するんだ!)」
強く。
「もう許さぬ。ここにいる者どもを皆殺しにして儂の醜態をなきものにしてくれようぞ」
「ニギャギャギャギャギャ! おがえお、あぎうお! ぎんあぎんあぐっがああげげがう!!
(ニシャシャシャシャシャ! お前も、あいつも! みんなみんなブッ笑わせてやる!!)」
戦兵衛は着地した天井を蹴り、重力の力を借りてその巨体を隕石のように急降下させる。そして上下左右前後の全方向をカバーするように持ちうるすべての銃器を抜き取った。
野次馬の悲鳴が聞こえる。あとは引き金を引くだけだ。そうすればここにいるすべての人間が物言わぬ肉塊となって任務も終わり、自分の無様な姿を吹聴する輩がいなくなる。
そう思うといつもの冷たい笑顔が現れそうだった。
だが————地上にいるあの男の顔を見て戦兵衛は絶句した。
べろべろばー
泣き止まない、または笑ってくれない赤ん坊をあやす時に使われるあれを、圧倒的な絶望を振りまく戦兵衛に向けていたのだ。
まるで、ムキになる児童をあやす道化師のように、お道化ながら。
「————!!!」
こいつだけは生かしておけない。
すべての銃器の引き金にリンクするマスタートリガーに指をかけた、
次の瞬間。
腕の形をした何かが飛んできた。
「ぬう!?」
人を斬ることなど呼吸することと同義と捉えている戦兵衛は人体から離れた腕を見ても驚くことなどない。だが、それが空気を切り裂く重量感と共に迫ってきたら話は別だ。
盲目故に鋭敏となった他の感覚。それが迫り来るものに対して大音量の警鐘を鳴らしていた。
——なん、あれは、腕か!?
——だが、重量に質、いや、そもそも腕などこの場に————ッ!!
戦兵衛は思い出す。そして敵対者の根幹ばかり見て枝葉に目が行かなかった自分を呪った。
無機義体。
照光の手脚であるそれは有機と違って切り離しが可能で、あろうことか彼はその一つである片腕をこちらに投げてきたのだ。
払い落とすか避けるか。その判断で遅れを取ったわけではない。
義体とはいえ咄嗟に己の身体の一部を投げるというその異常極まりない思考回路。それが戦兵衛を叩きのめすために使われていると考え身体が強張ってしまい、行動が一瞬遅れてしまったのだ。
引き金の存在を忘れて腕を払い落とすが、その瞬間には既に照光の狂笑が目の前にあった。
打撃音が、響く。
弾丸のように飛び上がった照光の鉄拳が、戦兵衛の顔面を捉えた音だ。