第09話 君だけの道化師
自分を狙う組織は、アリ以上のパワーを秘め、チーター以上の健脚を宿し、シャコガイ以上の堅牢さを備え、マムシ以上の執念深さを有し、スズメバチ以上の猛毒を誇り、人間のようなタチの悪さを持っている。
相手は何においても規格外なのだから、どうなっても仕方のないことだった。
だから白心は、またここに戻ってきてしまった、などとは思わなかった。なるべくしてなったのだと思った。
白心が連れ戻されたのは広さはあるが質素で、窓がないことから地下と思われる一室だった。幽閉でこの好待遇は自分がこの世に二つとない実験動物であるが故だろう。
その室内には文豪顔負けの量の本(種類は純文学や漫画、ライトノベルからエッセイ集と多種多様)が所狭しと積み重ねられていて、しかもどれも付箋がついていたりアンダーラインが引かれていたりと尋常ではない読み込み具合が窺えた。今も白心はベッドに腰掛けそのうちの一冊である『人間性を上げる! 古今東西名言集』なるものを読んでいる。
ただ、その顔には人間性どころか感情の振幅すらなく、ただただ一定間隔でページをめくっていくその姿はひたすら同じ工程を繰り返す工場のロボットアームのような不気味さと無常さがあった。
——やっぱり、脱走なんて意味のない、ことだったのかしら。
捕まってからもう数日経つ。
——来るわけないがない、よね。
本を置いて代わりに枕元に置いてある一枚の名刺を手に取った。
白心はそれに書かれている名前の少年を思い出す。
始めに彼の笑顔が浮かんだが、すぐにそれを打ち消した。少年は日常を過ごし、白心はここで独り果てる。二度と会うことのない人を思い出しても虚しいだけだ。
代わりに自分の今後を考える。どうやって脱走するかではなく、どんな死に方をするのかをだ。
自分の能力をコピーした人造人間のオリジナルとして存在し続けるか、試験管に閉じ込めて能力を吐き出し続ける装置と成り果てるか、それともいくら調べても解明できない自分を、他の手に渡らせないためにDNAレベルで抹消するか。
どちらにしろロクな死に方ではないだろう。そう結論付けると恐怖心よりも倦怠感が湧き、ころんとベッドに横になる。
今さら恐怖を感じることなどない。幾度ともなく味わったものだから慣れてしまっているし、それ以前にそれを感じる心などとうの昔に消されているのだから。
もう、どうでもよかった。
ただ。
一つだけ心残りがあるとすれば、自分を救ってくれた少年————その笑顔についてだ。
出会った当初の彼の笑顔は、世界への絶望を隠す道化師の仮面と同じだった。
しかしできることなら、なんの気後れも後ろ暗さもない彼の本当の笑顔を見てみたかった。
きっとそれは獲物を追い回す下卑た笑みでも実験動物を前にした腹黒い笑みでもない、花のようにきれいで無邪気な笑顔だろうから。
だが悲しいかな、白心の抱いた願いはこの地下で永遠に閉じ込められるということに、彼女は気づいていた。
ハア……、と疲れ気味にため息をつき、アニメでも見ようとテレビをつけると、ちょうどニュースが始まったところだった。
『————ええではまず、トップニュースをお知らせします』
そう言ってキャスターの後ろのモニターに飾り気のない建物が表示され、
『高天原の研究所連続襲撃事件について続報が入りました。また新たな被害地が出たようです』
次に「KEEP OUT」のテープが張り巡らされた入り口とその付近の警察官が映し出された。
『今回襲われた研究所もネクストに関するもののようで、三日前の夜の襲撃を皮切りに今日までの被害地十二件すべてがネクスト研究所であることから、一連のものではないかと言われております。実行犯は一人のようですがいまだ捕まっておらず、周囲に注意を呼びかけています。さあ犯人はなぜこのようなことをしているのでしょうか、意見を聞いてみましょう。コメンテーターとして来ていただきました、高天原第一総合病院院長にしてネクスト研究部の統括主任の————です』
そこまで聞いたところで白心は意識をテレビから寸断し、一人茫然自失とする。
まさか。そんな馬鹿な。ありえない。
きっと何かの間違いだ。たぶんその襲撃犯は過激派か何かで、ネクストの存在に反対するどこかの組織の人間なのだ。
『こんにちは。そうですね、私の周りの方々は過激派か何かではないかと推測していますが、私はそうではないと思います』
『ほう、ではなんだと思われますか?』
でも、白心の脳裏にはあの悲しい笑顔を見せる少年の姿が浮かぶ。
『私はですね、その襲撃犯が誰かを————』
希望を抱いた分だけ絶望するのだ。だからどうしてもある仮定を考えたくなかった。
だけどもしかしたら、と考えてしまう。そう、彼が白心のために————
『————助けに来たのではないか、と思っています』
胸がチクチクする。戸惑い、とは違うし、哀しみ、はもっと違う。この胸にあるものの正体がまったく分からなかった。
白心は毛布にくるまり煩悶とする。
——期待してはダメ。するだけ無駄なのよ。
——……?
その時、白心の耳が地上からの音を拾った。
発砲音と爆発音を中心とした戦闘音だ。
地下何十階にも至るここにまで轟くそれは聞いたことがないほど激烈なもので、まるで襲撃者の強い感情がそのまま表に出ているかのようだった。
——まさか、本当に彼が……?
ブツンという放送機器がつながる音が短く響く。
『緊急警報発令! 侵入者が現れた! 迅速に排除するため警備隊は銃火器を装備して出動せよ! 生死は問わない! 仕留めた者には特別ボーナスをうわこっち来んなお前!?』
『あいつは! 空井はどこだぁ!!』
『ひい! ち、地下だ! 部屋までは知らゴブルァ!?』
『それだけ分かれば充分すぎるくらいだ! 待ってろ空井ィィィィィィィィ!!』
その声を聞いてまた少年の顔が頭に浮かぶが、かぶりを振って掻き消そうとする。彼がこんなところに、ましてや助けにくるがはずがないのだ。
これは幻覚。毛布に身をくるんでそう結論づけた。だが、その直後に地団駄のような連続の地震がここまで響き、それまで幻覚と処理するのは少々苦しかった。
「がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
もはや獣————いや、白心にとっては聖獣のものとすら感じられる気高い咆吼が地震とともに近づいてくる。
「オンドゥルガッサイヤッ!!」
踏み抜くような地響きとともに彼の声がより一層近づいた。
何人かの重なった足音がこの部屋の前を通り過ぎ、軍隊仕込みの指示(少女にはなんて言っているか分からない)が飛び交う。
「いたぞ! あそこだ!」
「撃ち方始め!」
「いや待て撃つな! あいつ薬品ワゴンを盾にしたぞ!?」
「フラッシュバンだ! フラッシュバンを投げろ!」
「させるかクソッタレがアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
「「「ぎいやあああああああああああああああああああああ!?」」」
ドガグシャバキドッゴォオン!!!! と。まるで自動車が人を撥ね飛ばしながら壁に突っ込んだような、とにかく破壊的な音がすぐ側で起こった。
少女はどうしても一連の出来事を幻覚として早々に片付けたかった。あとでそうだと知って絶望するのだけは避けたかったのだ。
だから何度も自分に言い聞かせた。
ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない————
自分なんかを助けに来るなんて、ありえない。
「空井!」
ありえないはずなのに……。
「なんで……」
ドアを蹴破って現れたのは、優しい目をしたあの少年だった。
その少年の顔は疲労でかひどく痩せこけ右耳が欠けている。頚部に巻かれた包帯には血が滲み、そして学生服の切れ目から見える手脚は内出血のせいでか真っ黒だ。
でも、そんなボロボロの身体をしておきながら、目だけは生命力に満ち溢れていた。
両手に持っていた警備員を投げ捨て、少年がゆっくりと近づいてくる。釣られるように少女も立ち上がり、ヨロヨロと少年に近づく。
少女はこの胸を刺す感覚の正体を思い出した。
——ヨロコビ。……そう、喜びだわ。私、喜んでいるんだわ。
その溢れる感情に従い、少女は少年を迎え入れるように手を伸ばした。
少女の目の前に来た少年はニシシ、と屈託のない笑みを浮かべ、
「歯ぁ食いしばれ!」
ゴンッ!! と重い音がした。少年のヘッドバッティングが少女の額を捉えた音だ。
「!? !!?? !!!???」
脳を揺らすような痛みもそうだが、まさかこの状況でそれを実行するとは夢にも思わず、さらに頭突きした本人の方がダメージが大きそうなことに驚きを隠せなかった。
「んぐおおおお……」
「大丈夫?」
やられた側が心配するという構図に違和感を感じながら声を掛ける。
「……お」
「お?」
「俺は何でも屋『にじ屋』所長、虹野照光。依頼についての詳しいミーティングに参りました」
「依頼? 誰の?」
「お前のだよ」
ぽかんと開いた口がふさがらない。きっと他の誰かだろうと二人しかいない部屋を見渡すと、
「お前だお前! 俺は何でも屋でお前が客! 依頼は『自由にすること』で報酬は『笑顔を見せること』! キャンセルやクーリングオフはなしだかんな! 覚悟しろッ!」
話に追いつけない。分かることといえばタチの悪い金融屋に金を貸されるのとそう変わらない状況に置かれているということぐらいか。
「ほら、さっさと来い。今日から俺がお前だけの道化師だ。拒否権はねえぞ、ヒーヒー言うまで笑わかせてやるから覚悟しやがれってんだ」
……やはり言ってる意味が分からない。どうしてここで道化師云々の話が出てくるのだ?
「……笑顔のクーリングオフって、何?」
そして白心はというとそんな間の抜けたことを聞くのが精一杯だった。
「知らん! そもそもその言葉自体よく知らゴボファアァ!」
いきなり目の前で血の塊を吐き出されて白心の肩がビックリ箱のように飛び跳ねる。
「ぐおっだえ! あがおごがぐうえあがっが! いぐいょうげんげんぎゃべええぇお!
(クソッタレ! また喉が潰れやがった! チクショウ全然しゃべれねえよ!)」
照光はドボドボと血を吐き散らすのも厭わずに何やら悪態をつく。その怪我があまりにも痛々しいから白心はおもむろに手を伸ばして照光の首を包み込んだ。
「あおっ?」
「じっとして」
ポワン、と手のひらから発する光が照光の喉の形を徐々に元のものへと戻していく。男の子らしい喉仏が出てくるまでに五秒も要さなかった。
「バ、バカ野郎ッ、なんで能力を使うんだ!」
「身体の怪我も酷い。今すぐ治して、あげるから待ってて」
「ふざけんな。ここに閉じ込められる原因を使ってまで治そうとは思わんな」
「! なんでそれを」
知っているの? と続く言葉は首に添える手とともに払われ、さっさと踵を返された。白心はそれを慌てて追いかける。
「増援が来るからさっさと行くぞ。まったく、お前見つけるのにこんなに苦労するたぁ思わなかったぜ。報酬にはイロつけてもらうからな」
しかしそんな憎まれ口を叩く彼の声色は全然怒りの色などなく、むしろ明るいまでの喜びに満ちていた。
そしてなぜだろう、突然現れては振り回してくる彼と一緒にいるこの時間と空間が嫌いではなく、自身の胸がどこかほっこりと温かくなっていることを白心は自覚していた。
——これが、私が彼を、選んだ理由?
白心は少年の大きく感じる背中を追いかけながら、何かがすとんと胸に落ちる感覚を覚えた。




