1話 帰還
日は既に傾き、街道を赤く染め上げている。
徐々に暗くなる天頂が織り成すグラデーションを見上げる青年がいる。
辺りには青年が乗る騎馬の蹄の音だけが響いていた。
フードを目深に被った青年の顔は、傍から見ることは敵わない。纏うローブは乾いた風の巻き上げる砂塵で薄汚れていた。
視線を前に戻した青年の瞳に、明るい灯が映る。王都に辿りついたのだ。
その灯はまだ小さな点の集合にしか見えないが、長時間馬上で過ごしてきた青年はホッとしたように息をついた。
「ようやく見えてきたね、レン」
肩に留まる鳥に話しかける声は、優しい響きを帯びている。
騎馬の歩みを緩めることなく、黒い鳥の頭をそっと撫でる。
「久しぶりの王都だ」
カチリ、と腰にさされた剣が音を立てた。ローブの布を押し上げるその剣は、青年の長身に釣り合って長い。
灯が近付いてくると同時に見えなくなる。高い城壁に遮られ、外の者を拒絶する。
冷たい隔たり。王都へ帰るたびに青年はこの冷たさに身を震わせている。
肩の鳥が、気遣うように頬を摺り寄せてきた。
その際に、青年のフードからは白髪がチラリと覗く。
「大丈夫だよ、今日はもう遅い。……爺さんのうちでゆっくり休もう」
城壁をくぐれば、そこはもう彼らを迎えてくれる場所に他ならないのだから。
一頭と一羽と、そして一人。
彼らは共に、王都・セラフィムに入城を果たした。
それはまだ、この地に精霊と人が共存していた時代。
魔術師が支配する国があった。
魔法国家・アナト帝国。
建国から480年、魔術師以外が皇帝になったことはない。
城からは徐々に魔力のない者が消え、有能な魔術師だけが権力を持つようになった。
精霊と契約ができるような魔術師だけが。
“魔術師は精霊に魔力を与える。
代わりに精霊は魔術師を主人とし力を尽くす”
単純な契約だが、これがなかなか難しい。
契約をしていない精霊は実体化することができないからだ。
つまり、通常は人に目視されることがない。
視認できるか否かは相性による。
それはきっと、天が引き合わせようと選んだということ。
ただ一人の主人、運命の引き合わせ。
「いっ、ちょっと待……っ、そんな、乱暴にしたら痛……!」
郊外に位置する一軒の家。
頑丈なレンガ造りのそこから、悲鳴のような声が響き渡る。
すっかり日が暮れているが、この辺りには他に民家もない。近所迷惑にならないということが救いだった。
「もっと、優しく……っ」
「じゃかあしい! 男がこんくらいでビービー喚くでないわ!」
ウォルトの懇願を、怒声がさえぎる。
今ウォルトは上半身を剥き出しにし、深く傷の刻まれた右腕の治療をしてもらっていた。
他所を向いて、白い前髪を掴んで痛みに耐える。
「大体にして、適当な処置しかしとらんから今泣きを見るんじゃろうが」
この傷は遠征先の戦で負ったものだった。
今から一週間ほど前のことである。
ぞんざいに包帯を巻きつけただけで十分と思っていたのだが、時間が経つにつれどうにも痛みが増し、動きが鈍くなってきた。
確認してみれば案の定、化膿していたのである。
仕上げ、とばかりにガイは消毒液を染み込ませた脱脂綿を傷に押し付けた。
「いっ、だあああ!」
「お前がそんな声をあげるから、見てみろ。黒翼が怯えとるじゃろうが」
真新しい包帯を手に取ったガイが指し示す方を、空色の瞳が追う。
そこで見たのは、黒い瞳を涙で一杯にしてこちらの様子を窺っているレンの姿だった。
今は人の姿を取っているその精霊、柱の影でぶるぶる震えている。
「ごめん、レン。もう大丈夫だから、こっちおいで?」
引き攣った微笑を浮かべながら、レンを手招きで呼ぶ。右手は包帯を巻いている最中なので左手である。
呼ばれた当の精霊はというと、おっかなびっくり、といった様子ではあるが床を擦るようにして足を運び、主人の隣に座り込んだ。
座ると腰の下まである黒髪が床の上に波打った。
「ウォルト、もう大丈夫……?」
心配そうに見上げてくる瞳は、幼い子どものそれによく似ている。
大人の外見に子どもの瞳、違和感はあるがウォルトももう慣れている。
幼き日に契約してから、既に10年もの歳月が経過しているのだから。
「うん、平気だ、……っだあ!」
未だ治療の最中であった腕を包帯で力いっぱい締め付けられると、再び悲鳴があがる。
レンが面白いくらいに勢いよく背すじを伸ばしたことで、思いの外大きな声を出してしまったことに気付いた。
「……」
気まずい。
平気だと言った先から悲鳴をあげてどうするのか。
零れないのが不思議なほどに瞳に涙を溜めた精霊を宥めるべく、怪我をしていない側の手でそっと頭を撫でてやる。
「大丈夫だって。これくらい大した怪我じゃないから」
「その割にはでっかい泣き声をあげとったがな」
老人が茶々を入れる。
「そーそー。ほら、俺はなんでも大袈裟っていうかー……って悪かったな!」
最後の怒鳴り声は、でっかい泣き声にかかるのか、大袈裟にかかるのか。レンには判別がつかなかったが、恐らく両方なのだろう。
クスクスと声をあげて笑い出したレンを見て、ウォルトはホッと息をついた。
きっと、年下の兄弟をあやす時というのはこんな感じなのだろう。
「さて、そろそろ夕飯にするとしようかの」
常に気難しげに眉間にしわを寄せているガイの表情が、いくらか微笑ましそうに柔らかくなっている。
救急箱を持ってよっこらしょ、と立ち上がった。
「早く飯に食って早く寝ろ。明日は報告に行くんじゃろ」
救急箱を元の位置にしまうと、ガイは腰に両手を当てて伸びをした。
夕飯時になって突然帰ってきた2人の夕食も、既にダイニングには用意されている。
「はーい」
「いや、俺は久々だし研究室の方……」
素直な返事をしたのはレン。
ウォルトはというと、ささやかながら抵抗の言葉を口にしかけ、
「「いいから寝ろ」」
という2人からの命令に沈黙せざるを得なくなったのだった。
世界の説明が難しいですね…。