9話 奔走
己の命を狙ってきた暗殺者が知人であったことに、ウォルトはひどく落胆していた。それでも彼は冷静に、組み伏せた相手を解放する。
「このことを先生は……シャマイン先生は知っているんですか?」
「隊長がこんなことを許すわけないでしょう。隊長は今晩から自宅に帰っていますよ」
ザフィケルの返答に、目に見えてウォルトの緊張が和らいだ。それだけリオンはウォルトにとって特別な意味を持つ。
「剣士の部隊長に何の断りもなく隊を動かせる人間ってことか……」
剣を鞘に戻し、床に座り込む。真剣に考え込みながらも、まだザフィケルに対する警戒を完全に解いたわけではなかった。
「で、あなたは俺を殺して帰らなければ、立場を失うわけですが」
穏やかな双眸は油断なくザフィケルを見据え、探っている。
「ウォルト卿。貴方と私の実力差は知っているつもりです。奇襲に失敗した今、もう俺にはどうしようもありません。それに、隊長の愛弟子を殺すことには抵抗があります」
「ザフィケルさん」
一度、名を呼んだがウォルトはそこで目を伏せた。
聞きたいことは沢山あるが、どれも言葉をまとめることができないでいた。また、聞いたところでどうなるものでもない。
「貴方は確か、国境の町出身でしたよね?」
ようやく音になった問い、それはレンにもザフィケルにも予想外のものだった。
「え、はい。レイジットですけど……」
「大河から引いた水路の有名な町ですね」
考え込むように口元に指を当て、ウォルトはレンを振り返った。
「レン、転移魔法できるくらいの魔力残ってる?」
「へ? 一人くらいなら送れると思うけど」
突然の問いにレンは闇を溶かした瞳を丸くした。その返答にウォルトは頷くと再びザフィケルに向き直る。
「もし、貴方を俺に差し向けたのが国の幹部であればの話ですが。役目を果たせなかった貴方は始末されるでしょう」
「っ……!」
ザフィケルは俯き唇を噛んだ。
これで確定、ウォルトは内心で溜息をつくが表面上は何事もないように続ける。
「ここで俺が貴方を殺したということにしましょう。貴方が王都には戻らず、故郷に帰るつもりなら、ですが」
ウォルトの思惑を心得たレンは、部屋の隅に置かれた荷物から箱を取り出した。箱の中には白墨が五本入っている。
「選択肢は三つです。俺と殺し合いをするか、王都に戻り処刑されるか、故郷に帰るか」
レンの持つ箱から白墨を取り、指先で弄びながらウォルトは問う。
指と擦れて白墨から僅かに白い粉が落ちた。
「……邦に帰ります」
ようやく絞り出された声は、悔しげだった。提示された選択肢、命が惜しいのならばこれを選ぶしかない。
「分かりました。では」
一方のウォルトはホッとしたようだ。目元が柔らかくなっている。
板張りの床にしゃがみ込むと、成人男子が胡坐をかけるだけの範囲に円を描く。手馴れた所作で書き込まれていく魔方陣に歪みは見られない。
「よっし。できた、と」
最後の線を繋げて、ウォルトは屈めていた腰を伸ばす。指を擦り合わせて白墨の粉を落とすのを見て、レンは魔方陣の横に立った。
「ザフィケルさん。レイジットまで、お送りします。魔法陣の中に入ってください」
ザフィケルは躊躇っていた。立ち上がる動作もゆっくりで、足取りも重い。
しかし、決心したように床に描かれた魔法陣の上に立つ。
「いいんですか…俺を見逃して…」
「いいも何も」
ザフィケルの問いに、意外そうに返事をする。
「上官に命じられたことに従うのは当然のこと。貴方は、俺を殺したくないと言いました。俺にはそれで十分です」
「……お人よし、ですね。本当に」
ウォルトは困ったように笑う。甘すぎるという自覚はあるが、そう簡単に変えることもできない。
「クールだからね、ウォルトは」
「?」
レンの呟きに、不思議そうにザフィケルは目を瞬いた。だが、すぐにレンが呪文の詠唱を始めてしまった為、問うことはできない。
「水辺に出ますから、気をつけてくださいね」
一歩、ウォルトは魔方陣から離れる。近くにいては現在詠唱中の魔法が無効になる可能性がある。
「全ては母なる海に通ずる道…」
澄んだ声が紡ぐ詠唱、歌うように流れる声の余韻。
「流水の道」
声が途切れると、ザフィケルの姿がぶれ始めた。不鮮明な画像のように、粗い粒子に分けられる。
「言い忘れていました……」
ノイズ交じりの声。殆んどその姿は消えかけているときに、口の空洞だけがひどく目立つ。
「俺に、命令を下し、人の名は……」
「っもう一度、言ってください!」
ノイズだけでなく、声も既に途切れ途切れにしか聞こえない。聞き取ることができずに、ウォルトは勢い込んで叫ぶ。
「誰ですか、それは……!」
「……皇、側近の……ト・ハーデ……」
完全に、ザフィケルの姿が消えた。彼が立っていた魔法陣ごと、水路の町レイジットへと送られたのだ。
部分しか聞き取れなかったが、十分だ。力なく、ウォルトは床に座り込む。
「そっか。完全に、国家レベルだなあ……」
「ウォルト……っつ」
気遣わしげに主人の名を呼ぶ精霊は、急に痛みに表情を歪ませ耳を押さえた。
一瞬のちくりと針が刺さるような痛み、すぐに治まり手を離す。
「ピアスが……」
昨晩渡された魔術具が崩れだした。乾いた血が崩れ落ちるように、砂となり床に落ちる。
膝立ちで横に立つレンの耳元を見て、ウォルトはああ、と頷いた。
「使用制限過ぎちゃったんだね。壊れる時に使用者に影響があることを考慮に入れてなかったな、ごめん」
謝りながら精霊の耳に触れ、そのまま頭を撫でる。
「一日で魔法使わせすぎちゃったね。暫く休んでていいよ」
「でも……いや、うん。そうだね、ちょっと眠い……」
盗賊との戦闘、追手の一掃、そして転移魔法。ピアスの効力がなければとっくに実体を保てなくなるところだ。
徐々にレンの体から部屋の闇が透けて見え始めた。
「おやすみ。これからのことは、また後で話すよ」
「うん……」
そうして完全に精霊の姿が闇に同化すると、ウォルトは壁に背を預けた。
深い溜息、前髪を掴んで俯く。
「まいったなぁ。なんでいきなり」
吐き出される呟きはのんびりと夜気を揺らす。
ザフィケルの発言が真実であるとしてだが。
側近であるハーデスが動いたということは十中八九皇帝からの命令と見ていい。昨日、いや日付は変わったから一昨日か。任務の依頼を受けたばかりだと言うのに、一転して今度はお尋ね者扱いとは。
「俺以外に使えそうな人でも出てきたのか?」
再び、溜息が零れる。
何が起きているのか、ウォルトは理解できないでいた。いつになく暗く沈んだ面持ち、今にも泣き出しそうな瞳で、小さく嗚咽を洩らす。
嗚咽は今にも慟哭となって溢れ出しそうな響きを帯びていたが、残った理性がそれを押し留める。
どれほど俯き、唇を噛み締めていただろう。ゆらり、と立ち上がったウォルトの穏やかな表情は既に常のものと変わらない。
先ほどレンが言った「クール」という言葉はこうして感情を切り替えられる冷静さにある。そのことを思い出し、ウォルトの精神的余裕が増した。
「いい精霊をもったなあ、ホントに」
口元に笑みを乗せて、ローブを羽織る。
「お礼のためにも長生きしないとね」
先ほど使用した白墨を箱に戻し、荷物を担ぎ上げる。剣を腰に差し、窓辺から外の様子を窺ったが、人影も見当たらなかった。
窓枠に手を掛け、屋外へと身を躍らせる。二階の高さをものともせずに地に下りて、そのまま馬に跨り出立する。乗ってきた馬ではなく、他の客が乗ってきたものであったが。
ザフィケルのように故郷へ向かうわけにはいかない。
遠くへ行かなければ。
追手の手にかからないように、遠くへ。
闇の中ですら尚白い髪を風に揺らして青年は、より深い夜の方へと走っていった。
ここで、一章が終わりです。