7-34「現れる“本体”」
空気が、歪んだ。
音が消える。
風も、足音も、呼吸さえも遠ざかるような、奇妙な静寂。
その中心に——“裂け目”が生まれた。
黒でもない、光でもない。
ただ、そこにあるべきでない“穴”。
「……来るぞ」
フランソワの声が低く落ちる。
誰も動かない。
動けない、が正しかった。
本能が理解している。
さっきまでの相手とは、根本から違うと。
裂け目が、ゆっくりと広がる。
そして——
“それ”は現れた。
形は、人に似ていた。
だが、輪郭が曖昧だ。
視界に入っているはずなのに、焦点が合わない。
存在しているのに、認識が追いつかない。
「……なんだよ、あれ」
エイドが思わず呟く。
軽口ではない。
本気で理解できていない声だった。
クレージュも、言葉を失っていた。
圧が違う。
魔力の量じゃない。
“在り方”そのものが異質だった。
「……あれが、“本体”」
リシェルの声は、かすかに震えていた。
それでも視線は逸らさない。
逃げない。
王女としてではなく、一人の人間として、そこに立っている。
“それ”が、一歩前に出る。
たったそれだけで、地面が軋んだ。
空間が悲鳴を上げる。
ティロが、息を呑む。
「……あいつ、立ってるだけで世界削ってるぞ……」
冗談じゃない。
現実の話だった。
存在しているだけで、この場が耐えきれていない。
マリアが、静かに杖を構える。
だが——その手が、わずかに震えていた。
「……勝てる、の?」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、零れた本音。
その問いに答えたのは、意外にもアルジェリアだった。
「勝てるかじゃない」
短く、はっきりと。
「ここで止める。それだけだ」
その声には、迷いがなかった。
覚悟だけがあった。
クレージュが、ゆっくりと息を吐く。
怖くないわけがない。
むしろ、今までで一番怖い。
それでも——
「……ああ、そうだな」
剣を握り直す。
「ここで終わらせる」
フレイが横に並ぶ。
「やっとラスボスっぽくなってきたじゃん」
軽い調子。
でも、その目は笑っていない。
エイドが肩を回す。
「さっきのは前座かよ……勘弁してくれ」
ティロが、小さく息を吸う。
そして、前に出た。
ほんの一歩。
それだけなのに、確かな変化だった。
「……今度は、逃げない」
誰に聞かせるでもない言葉。
でも、それは確かに“仲間の声”だった。
マリアが、その横に並ぶ。
「一人じゃないでしょ」
短く、優しく。
ティロは一瞬だけ驚いた顔をして——小さく頷いた。
フランソワが前へ出る。
リシェルの前に立つように。
「殿下、下がってください」
「いいえ」
即答だった。
「ここで見ます」
その瞳は、もう揺れていない。
フランソワは一瞬だけ目を細めて——そして、何も言わなかった。
守るべきものが、ただの存在じゃないと理解しているからだ。
“それ”が、顔のようなものをこちらに向ける。
感情はない。
意思すら感じない。
ただ——“観測”している。
次の瞬間。
世界が、落ちた。
重力が反転したような感覚。
視界が揺れ、足場が消えかける。
「っ——!」
クレージュが歯を食いしばる。
攻撃ですらない。
ただの“干渉”。
それだけで、この威力。
「ふざけんなよ……!」
エイドが叫ぶ。
その瞬間、フレイが魔法陣を展開する。
「クレージュ!合わせて!」
「ああ!」
二人の魔力が重なる。
光と炎が交差する。
真正面から、“それ”に叩きつけた。
爆ぜる。
空間ごと焼き払うような一撃。
だが——
「……効いて、ない?」
煙が晴れる。
そこに、“それ”はそのまま立っていた。
傷一つない。
微動だにしていない。
ただ、こちらを見ている。
理解する。
これは——
「……攻撃の“意味”が通ってない」
マリアが、静かに言った。
その言葉が、重く落ちる。
威力じゃない。
速さでもない。
そもそも、“届いていない”。
ティロが、震える声で呟く。
「じゃあ……どうやって……」
答えは、誰も持っていなかった。
その時。
クレージュの中で、何かが引っかかった。
違和感。
さっきから、ずっと感じていたもの。
“席”。
“器”。
“意味が通っていない”。
全部が、一本の線で繋がる。
「……なあ」
小さく呟く。
誰にともなく。
「これ、“倒す”相手じゃないんじゃないか?」
全員の視線が集まる。
クレージュは、“それ”を見据えたまま続ける。
「これ……“現れてるだけ”だ」
その言葉に、空気が変わる。
理解が、追いつき始める。
「本体は……まだ別にある」
“それ”が、わずかに動いた。
初めての変化。
まるで、その言葉に反応したかのように。
クレージュの鼓動が、強く鳴る。
確信に近い感覚。
「これ、壊しても意味ない」
「じゃあ、どうする」
フランソワが問う。
短く、鋭く。
クレージュは一瞬だけ目を閉じて——開いた。
「——繋がってる“先”を断つ」
その瞬間。
“それ”の周囲に、無数の線が浮かび上がった。
今まで見えていなかった“何か”。
空間の奥へと伸びる、見えない経路。
マリアが息を呑む。
「……見えてるの?」
「ああ」
クレージュは頷く。
「たぶん……俺にしか見えてない」
フレイが、にやっと笑った。
「出たね、主人公能力」
「うるせえ」
でも、その軽口で少しだけ空気が緩む。
戦える。
まだ、終わってない。
ティロが一歩前に出る。
「その“線”、切ればいいんだな?」
「ああ。でも——」
簡単じゃない。
そう言いかけて、クレージュはやめた。
もう、言う必要がない。
全員わかっている。
これは——本当の戦いだ。
“それ”が、ゆっくりと手を上げる。
今度は明確な“意思”のある動き。
空間が軋む。
崩壊が、始まる。
「行くぞ!」
クレージュが叫ぶ。
全員が、同時に動いた。
世界の奥へ繋がる“線”を断つために。
そして——
本当の意味での決戦が、始まった。
お読みいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに。




