束の間の刹那
世の中そんなものである。
ヒールのかかとがポッキリ折れて、ひとりシンデレラを上演していても、誰か素敵な男性が助けてくれるというシナリオはとうの昔に使い古され、観客は誰一人としていないのだ。
世の中そんなものである。
私は束の間言葉を失って、ひび割れたアスファルトの上にコロンと転がったヒールを見つめた。
雑踏の中に密かに紛れ込んだ些細な不運が、一気に自分に押し寄せてくる感覚。
休日を目前に控えた仕事終わりの街はいつもより心無しか華やかに浮き立っていて、そのネオンに煌めく看板に取り囲まれて呆然としている自分が酷く惨めに思えた。
私は慌ててしゃがんで手を伸ばす。
途端に転びそうになる。
ヒールが、無いから。ヒールがないだけで重心のバランスが取れなくなって、横にも縦にもころんと転がりそうになる。普段靴のヒール部分なんて欠片も気にしていないのに、無くなればなくなったで、そのありがたみを随分思い知らせてくれる。
あまりしゃがみこんでいては、誰かが後ろから躓いて私に激突する可能性もあるから、ヒールを拾いあげたら素早く注意深く立ち上がらなきゃいけない。
バランスは大切だ。
右足だけつま先立ちになって、力を入れていると、なんだか変な感じになる。
どっちに力を入れたらいいのか分からなくなって、歩きがぎこちなくなる。
とにかく歩道の端に避けて、片足だけつま先立ちで、拾ったヒールをマジマジと見つめた。
夜の街の明かりを背景に、黒いヒールがぼんやり浮かぶ。
私の指に摘まれた小さなヒールは、あちこち禿げて傷んでいる。
いつ買ったのかも忘れてしまったこのヒールには随分昔からお世話になっていたものだ。
そうか、寿命が来ていたんだね、と独りごちる。
なるべく丁寧に履いていたつもりではあったが、つもりはつもりでしかない。
雑に扱ってしまったこともあるし、形振り構わず仕事をしていたこともある。
そういった全部の過去がそこにぎゅう、と凝縮されているんだろうなと思うと、不意に泣きたくなるくらいには、過去には彩りがある。
お気に入りの靴がひとつダメになった、というのは、あまりにチープすぎる言い方で、靴にも失礼だ。
つまり、この靴は、なんの変哲もない靴であって、しかしながら私の歩いた何の変哲もない人生の証でもあるのだから。
付加価値、というやつだ。
靴という物が消耗されたのではなく、自分の過去という涙が昇華されたような気がしてならないのは、その付加価値にあるのだろう。
やけにセンチメンタルなことを考えてしまったのは、夜のせいだ。
これが身支度に忙しい朝にポッキリ折れてしまっても、ただただ苛立たしいだけだっただろう。
ふと零れた涙も夜のせいだ。
疲れてしまった仕事帰り。
片田舎の都会に住むものとしてのせめてもの矜恃として持つ車が待つ駐車場にはひとけがない。
隣の廃ビルの工場用だろうか、足場に光るオレンジの光が、唯一雨に濡れたアスファルトを照らしていた。
私は刹那、その清廉な光に目を背けた。
いつこの暗闇に光が点るのか、それが見えないうちに世界はすっぽり消えていた。




