67
どこか釈然としないものの、一度も訪れたことのない自分の部屋を、はじめは知らないだろうと判断し、ドアの前で志乃は律儀に待っていた。
結構時間がかかったが足音が耳に入り、ドアを開けてそこに寄りかかる。
はじめは、すぐに志乃の姿を見つけた。
ずっと、後ろで縛っていた長い髪は、いまだ雫がたれるほど濡れて、下ろされていた。
志乃がへぇ、と奇妙な声を上げる。
バスルームで髪を洗ってやったときにはさほど気にしなかったが、こうしてみるとかなり長く伸びている。
あれでは確かに自分ですら短い。
だが、髪質の柔らかさは明らかに違う。
触っていて感じたとおり、遠目から見てもはじめの髪は硬そうだ。
それにしても……と近づいた彼の背後の廊下を、志乃は眉を潜めて追った。
水滴がだらだらと続いていたのだ。
「あんたさぁ……濡らしたら拭いてこいよ」
よく見ると、どういう水のかぶり方をしたのか、着物の襟元もかなり濡れている。
部屋に入れる前に、志乃は部屋からバスタオルを持ってきて、思い切りはじめの頭をかき回した。
そのまま、髪をくるむように巻き付けると、ようやく中に入れたのである。
志乃の部屋は、実のところとさほど変わらなかった。
ただ、ベッドがかなり大きく、実の部屋にあった薬棚の代わりに部屋を圧迫していた。
ソファに対峙するように座り足を組む。
横柄な態度は、先ほどの実の仕打ちに対するささやかな抵抗か。
当然、はじめが気にするわけがない。
「で、話ってなんなの」
「わからんのかね。君のほうがあの人たちといる時間が長いのに」
「わからねぇよ。あんたといることのほうが遙かに短いんだから」
はじめは、呆れたように頭に手を当てて、うるさそうにタオルを見上げた。
「うっとうしいな」
「もう少し巻いててくれよ」
「自分も健たちより長く伸ばしているため、多少の雫が残ることのほうが多い。
そのため、さほど神経質になっているわけではないが、はじめの場合は限度を超えている。
「実さんにしても護さんにしても、二人で話す必要があるのではないかね? そのための時間稼ぎが半分の理由だ」
「話って?」
「さあ。そこまでは知らんよ。だが、君や私が邪魔なときもあるだろう。特に、さっきまでは実さんは宮本さんと話し込んでいたようだからな。君のように細かく説明しなきゃならない輩がいたら、護さんも話しづらいはずだ。新参者の君を抜きにした話があってもおかしくはない」
「あっ、あったまくる言い方だなぁ」
「なに、実さんほどじゃない。それに、これは私の勝手な想像だ。後の半分がどちらかというと重要な理由だ」
そういうと、はじめは頭のタオルを気にしながら身を乗り出した。
真面目に聞こえる口調とその姿のアンバランスで、志乃は自分でやらせたことながら思わず笑ってしまう。
「その重要な理由ってなんだ?」
「だから、何度繰り返せばわかるんだ? 約束を果たすという理由だよ」
「それと俺に何の関係があるんだよ」
「私とてこんな面倒なことになるとは思わなかったよ。だが、君たちの関係は護さん一人を考えてすむことじゃない。そうは思わないかね? 君が健さんの代わりに大将を引き受けたのなら、君からもあの人たちの内情を聞かなければ関連性が曖昧だ。大方のことは健さんから聞いている。だから隠し事なしに答えてほしい」
そう言われると、突っぱねる理由がなくなってしまう。
志乃は仕方ない、と片手を出して促した。
「君は親友の仇討ちをするために近づいたらしいな。なのに連中と仲良くやっているというのはどういうことなんだ?」
「そんなの……関係ないだろう?」
「関係がないか? 君自身が言ったな。復讐を忘れなければ健さんは連中と一緒にいられた……つまり、君次第で連中は健さんと離れることになる……」
「そりゃそうだけど。でも、マモルが違うって言ったじゃないか」
「君の意見を聞きたいのだよ。なぜ復讐することを忘れたのか」
志乃は、組んでいた足をほどいて、両腕を背もたれの向こうに投げだし、はじめの視線から逃げるように天井を見上げた。
「……いろいろ……重なったから仕方ないじゃないか。俺は本業がスナイパーだ。いつも……」
「それは、なんだ?」
「え? ……ああ。……えっと、簡単に言えば殺し屋さん。組織からの依頼があれば誰でも殺す仕事だよ。圭吾も……名前は聞いたの?」
「聞いた」
「あっそ。圭吾も同じ殺し屋だった。ケンたちとは逆の立場にいたんだよ。あいつらは警察の手伝いが多いからな。で、殺し屋ってのはいつも一人で仕事するんだ。それと比べてケンたちはいつも一緒だ。それが羨ましかった」
その頃を思い出す。
組織で新参の頃の志乃は、圭吾の助力がなかったら到底なじめなかっただろう、と。
生きがいを見つけたと張り切っていたと同時に孤独になっていった。
最初の頃は常に圭吾とペアを組んでいたが、慣れるにしたがって別々の仕事が入るようになって、年に何度かしか会えなくなっていった。
「俺は子供の頃に両親を亡くしてさ。スペインじゃ結構形見が狭かったわけよ。それだけに圭吾は大事な相棒だった。だから殺されたって知ったとき、どうしても復讐してやるって意気込んでた。でも、いざ奴らと一緒に暮らしてみたら……全然思ったのと違うの」
思い出し笑いに口元を緩めながら続ける。
「ケンはあの通り、情けないくせに部外者の俺のことすら大事にしてくれる。居心地がいいんだ。少しずつ復讐って言葉を思い出すのが難しくなっていったよ。多分、それってミノルを好きになったことも原因かもしれない。そうなるともう……復讐なんて無理だよ。その上……」
彼は天井に向かって深い息をつくと、思い切り上体を起こした。
だが、はじめのほうを見ようとせず、目をテーブルに移した。
「……はじめ、あんた圭吾の名前を誰から聞いた?」
「実さんだ。だが、きっかけは夕子さんからだったよ」
「彼女、泣いてなかった?」
「いや。普通に話していた。実さんに言わせれば、忘れかけているんじゃないかと」
クスッと小さな声が聞こえ、志乃は両手で顔を抑えた。
「よかった。そのほうがいいよ。恋人を自分の手で殺したなんて……忘れた方がいいんだ」
「なんだって? 実さんは……そんなことを一言も言わなかったぞ」
「だろうな。あいつは人のせいにしないよ。いくら直接撃ったのがユウコでも、仕事に携わったミノルが関係ないなんて言わない。俺もその話を聞いたときショックだったし」
志乃の声は沈んでいた。
やはり自分も完全に吹っ切れていないことを自覚する。
「……俺には親友の恋人に復讐なんてできなかったよ。これが三つ目の理由さ。そのうちケンが病気だってことを知った。それが最大の理由かもな。あいつから……頼まれたんだ。メンバーが、あいつの死を正面から受け止めて生きていけるようにしてくれって。自信はないけど……。……あんたと同じさ。意地でも果たさないとな」
「……」
返事のない沈黙を、しばらくは放っておいた志乃だが、やがて顔を上げて、見下すようにはじめに向いた。
「それで? 他になにが聞きたいの?」
見ると、はじめはいつの間にか頬杖をついて別の考えにふけっているようだった。
志乃の呼びかけに、はっと顔があがる。
「あ、ああ……」
「聞いてた?」
「聞いていたよ」
言いながら、はじめの目は前の志乃を通り越していた。
細切れの彼らの話が繋がっていく。
彼らにはそれぞれの思いがあり、それが一つの方向を指しているようだ。
全てが一カ所に向いている。
目的の場所がある。
そこに行き着くためなら、きっと利用できるものは相手の意思の有無いかんに関わらず巻き込む。
いや、相手の意思どころではない。
彼ら自身ですらそれに気づいていない。
あるいは……気づく必要はないのか。
むしろ気がついたら足が止まってしまうかもしれない。
志乃はノーセレクト……だ。
健たちと同じだから利用できなくなった……だから……代わりを……。
はじめの瞳が、改めて志乃を映した。
「しかし……そうだとすると……。志乃さん、その健さんの頼みだが、君はそれを鵜呑みにして引き受けたわけだ」
「他にどうしろって言うのさ。圭吾の仇を討てってか?」
「いや、そうは言わないが……ただ……」
はじめは呟くと、重そうに立ち上がり、その場で思い切り背伸びをした。
「本当に……面倒なことを引き受けたものだ」
「そんなに言うならやめればいいじゃないか。どうせマモルは承知しないよ。あいつも頑固だからな」
軽い屈伸をするはじめを眺める。
自然とタオルが落ちて髪がほどけた。
「おっと……」
バスタオルを拾い上げ、もう一方の手で髪をすくって見据えたが、先ほどよりは水分が少なくなったと、タオルをソファに置いた。
そしておもむろに腰に手を当てて、志乃のほうに屈んだ。
「君なら引き受けたことをやめられるか?」
「あんたと俺じゃ立場が違うよ」
「ああ、そうだ。立場が違う。だからこそ手を引けなくなったんだ」
言った途端、はじめの形相が変わり、いきなりタオルを乗せていたソファを蹴り倒した。
驚いて思わず腰を上げた志乃の目の前で、倒れたソファに拳を振り下ろす。
「は、はじ……」
「とんでもないことをしてくれたよ! 君たちは! これも運命というつもりか!」
志乃が思わず後ずさる。
その気配に、はじめはもう一度ソファを叩き、その場に座り込んだ。
「くそっ……」
髪を掴むように顔を覆うと大きく息を吐く。
気を落ち着かせるためなのか、彼は深呼吸を繰り返した。
「志乃さん」
やがて、立ちすくんだままの志乃に呼びかけた彼の声は、落ち着いていた。
「な……」
「君と私では立場が違う。私はもう引き下がれない。だが君は別だ。健さんとの約束を反故にすることを勧めるよ」
勢いにのまれていた志乃は、はじめの言った意味がわからずしばらくは呆然と立ちすくんでいたが、やがて、
「できるわけ……ないじゃないか」
と言った。
そして次には、きつくはじめを睨みつけた。
「できるわけないだろう!」
それは、一時でもはじめの気迫に怯えてしまった自分を認めたくなかった志乃の叫びだった。
はじめは億劫そうに立ち上がるとソファを元に戻し、
「そうか……」
と呟きながらふと、窓の外に目を移した。
目線を下げると、見覚えのある木々の並びがある。
足を向けると、庭が視線に入ってきた。
志乃の部屋は前庭に続いていたのだ。
先ほどと同じ位置に、実と護が座っている。
やはり二人きりにしてよかったようだ。
深刻そうに話し合っている。
踵を返し、殴りつけたソファに身を沈めてはじめは目を閉じた。
彼の様子を目で追っていた志乃も、ゆっくりと座り直す。
沈黙があり、しばらくすると志乃のほうが口を開いた。
「あんたは……俺が約束を反故にしたほうがいいって思うのか?」
はじめの目が開いた。
一度は志乃を見て、クスッと口元を緩ませて頭をソファの背もたれに乗せる。
「私が君ならばそうする。だが、君は君だ。さっきの言葉は、私のささやかな忠告だよ。聞くのも流すのも君の自由だ」
また沈黙。
そして、やはり口を開いたのは志乃のほうだった。
「あんた、さっきの……」
「気にするな。私なりの愚痴だ。今更後悔してもはじまらない。運命ならば受け入れるしかない。……とはいえ……本当にとんでもないことをしてくれたものだ」
運命……たった二文字の中に取り込まれる身になってみろ、そう毒づきたくもなる。
「俺たちが何をしたってんだよ?」
頭を上げて志乃を一瞥した瞳は、まるで哀れみだ。
はじめはそのまま前屈みになって、足に頬杖をつくと窓のほうに顔を向けて含み笑いを漏らした。
「君がそれでは……確かに健さんは諦めるしかなかったんだろうな」
「あ、あんたに何がわかるってんだ……」
「わかるさ。でなければさっさと逃げ出している。否応なく巻き込まれた自分の人の良さに呆れかえる。この上さらに留まろうというのだからな。だが私はな、志乃さん」
外に顔を向けたまま、彼は志乃を一瞥した。
「君の二の舞になるわけにはいかないことを理解しているつもりだよ」
「なっ、なにかやっちまったのか? 俺があいつらになにか」
テーブルに両手をついて身を乗り出した志乃の慌てように、はじめが逆に身を引く。
背もたれの向こうに腕を投げ出して、だが平然と彼は、
「教えてやらん」
とそっぽを向いた。
しかしすぐに続ける。
「私は健さんからも、実さんからも話を聞いた。二人の口調から察するに、私が知っていることを君も教えられたはずだ。そして君自身の話も聞いた。君と私、条件は同じだ。……いや、違うな。所詮、私は仮初めの客だ。むしろ君のほうが自分を理解していなければならないんじゃないか? 私に聞くなど、愚の骨頂だ」
はじめは、この言葉の中にヒントも答えも含めた。
それに気づいたかどうか……。
目の隅に、途方に暮れた志乃の、しょぼくれた姿が映る。
〝わからない……か。紛れもなく志乃さんは健さんたちと同種だな〟
思うと同時に、呟きが漏れる。
「難しいことを……頼んでくれたよ、健さん」
目の前に聞こえないほど小さく愚痴をこぼしたはじめは、気分を変えるように自分の両膝を叩いて立ち上がった。
「志乃さん、外に出るぞ」
本当に、このまま逃げ出せればどんなに楽か。
だが、目の前に自分の未来を見せつけられてはもう遅い。
獅子が猫の生き様を真似るというのはやはり不自然なのだから。
庭の二人を目にした途端、志乃は駆け寄って座り込んだ。
「教えてくれ。俺、あんたたちになにかとんでもないことをしたのか?」
「? なんのことだ?」
一瞬目を丸くした実が家のほうを見ると、両袖に手を入れた形で腕を組んだはじめが呆れた表情で近づいてくる。
「はじめ、一体なんの……」
「護さん、志乃さんを返すよ。好きにしなさい」
護は当然のごとく志乃を一瞥すると顔を背け、木によりかかった。
まるで彼の存在に興味を持っていない、そんな雰囲気だ。
一度決心したことは曲げない。
口にしたことを繰り返さない。
だから護は強い……。健が言っていたことがわかる気がする。
はじめは何も言わずに踵を返した。
家に入っていくあとから、詰め寄ろうとした志乃を睨みつけて実が続く。
誰も答えを口にしてくれない不安から肩を落とした志乃が、仕方なくその場にうつ伏せになった。
「シノに何を言ったんだ?」
リビングのソファに座ったはじめに、実が尋ねた。
「……無様だな」
志乃に目もくれない。
ポツリと言った一言は、だが確実に彼に向いている。
「話を聞けば私ですら理解するというのに。もっとも……それは君とて同様か」
「……なにが言いたい?」
声を潜める。
まるではじめの心を覗こうとでも言うように。
「なに、大したことじゃない。近すぎるとかえって見えなくなるということさ。だから志乃さんは醜態をさらし、健さんは望みを諦めた。君も、盲目だ。……護さんには感服する。もっともそれは、君がいたからこそだろうがな」
「……」
睨む実の、僅かに茶色がかった瞳をまともに受け止め、はじめはクスッと笑った。
「感情がわかっても考えることは伝わらない、だったな。無駄なことはするな。そう怒らずとも護さんは何もかもを理解している。君たちのことも自分のこともすべて、把握しているよ。私は健さんと交わした約束を守るだけのこと。護さんに私の生き様……見せてやろうじゃないか。その時になれば、君は私に感謝するだろうよ」
二階で志乃と話してなにかを悟った……。
実が推理できたのはその一つだけだった。
結局、ここでも実は興味を放棄した。




