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リビングに、実までが戻っていた。
「あ……」
「はじめ、もういいんだろう?」
先に口を出してきたのは志乃だ。
腰に差してある刀が目に入ったらしく、感嘆の声をあげる。
「へえ、やっぱり似合うなぁ」
「どうしたの? それ」
絵里が、リビングに立て掛けてある刀を振り返りながら尋ねた。
彼の持ち物なら、そこに大小揃えてあるのだ。
「健さんから貰ったんだが……。志乃さん、すまないがしばらく付き合えない」
「えっ? なんで?」
「これを……」
と、彼は刀に手をかけた。
「研ぎに出さなければならなくてね。宿場まで行ってくるよ」
「だってそれ、新品なんだろ?」
見た目、かなりの光沢があるから言ったのだが、志乃に対し、実は事情を知っているのか彼に振り向いた。
「あれは観賞用だ。あのままでは雑草すら切れない。どうせ一日くらいはかかるんだろう? 早いうちに行ってこいよ」
「それがなぁ……。健さんが一緒に行くと言っているんだ」
驚いてはじめに向き直った実が、小さく舌打ちをした。
「あのバカ……何を考えているんだ」
はじめは頭を掻いて同意した。
「普通は人前に出ようとはしないだろう。実さん、君から説得できないか?」
頭の回転が早い実なら、なにか言い訳を考えてくれると思ったのだが、彼のほうは途端に、ふてくされたようにそっぽを向いた。
「同行して、おまえが奇異な目で見られることを承知で行くと行っているんだろう? 止められるものか。あいつも頑固だからな」
そうなのだ。
はじめが戸惑っているのもそれがあるからなのである。
健は別段気にしないのだろう。
なにしろ、天下の往来を、何日もはじめ一人に会うために見下ろしていたのだから。
その上、何人かの人間に声すらかけていたという。
贋物とはいえ、金まで持ってきていたということは、用があって町に出ることがあった場合でも、一向に構わずあの格好を晒すつもりだったに違いない。
時勢的に、あまり歓迎できる姿ではないのだが……。
「それなら座って待っていればいい」
と、実は投げやりに席を勧めた。
志乃が隣に移動する。
「ちょっとそれを見せてくれるかい?」
「刀か? まあ……」
いいか、と志乃に差し出す。
なんとも心もとない持ち方で柄と鞘を引っ張る。
最初に引っ掛かりがあり、そのあとは驚くほどすんなり抜けたものだから、最初の余力で刀身を振り回すような形になってしまった。
「あっ、ぶないだろうが」
斬れないことがわかっていても、当たれば打撲ぐらいできる。
目の前を掠めた実は、つい怒鳴っていた。
「ご、ごめん。でも引っ掛かるぞ、これ」
「当たり前だよ、志乃さん。すんなり抜けてしまっては危険だからな。貸しなさい」
鞘と本身を別々に受け取って、はじめは一度それを収めた。
改めて志乃に見せるように差し出して、鍔の部分を親指で押し上げる。
「この部分が引っ掛かるようになっている。ここさえ抜いてしまえば……」
はじめは、刀を腰に引き寄せて刀身を抜いた。
音もしなかった。
「居合いではこの抜きの速さが肝心だ」
「イアイ? って……なに?」
「知らないのか?」
「だってそんな……」
視界の隅に強い視線を感じて、志乃は思わず口をつぐんだ。
実が睨み付けている。
余計なことは言うなという合図だ。
まさか、彼らの時代ではすでに歴史としてしか武士が知られていないとはいえないだろう。
あと何年かすれば、廃刀令が出される。
武士がいなくなるのだ。
そんなことを、剣術で生きているはじめに言えるわけがない。
急に黙った志乃の代わりに、実が言った。
「こいつは外国で育っているんだ。刀はおろか、サムライ姿さえ見たことはないのさ」
「……確か、スペインだったか?」
「そ、そう」
慌てて返事をしたような感がある。
はじめは、今になって疑問に思った。
「君たちは……武士ではないのだな?」
「違う。オレたちの身分はもっと違うものだ。だから刀は使わない。刀を持つことができるのはこの時代と変わらず、特定の人間だけだ」
言った方と聞いた方の言葉の意味は違ったが、実は間違ったことは言っていなかった。
特定の人間、つまり、許可がないものが刀を持つことはない。
それをはじめがどう受け取ろうが、嘘は言っていないのだから彼が信じるのは自然なことだった。
短い沈黙のあと、志乃が改めて言った。
「なあ、そのイアイってなんだよ?」
「……ああ……」
それを聞かれていたのだ。
はじめは席を立つと、
「ちょっと来なさい。見せてあげる」
護が初めて対峙したときに披露したものだが、志乃は木の影から見ていたため、よく理解できなかったのかもしれない。
もう一度、近くで見せた方が早い。
リビングから庭に出て刀を腰に差す。
「これが……居合いだ」
志乃を目の前に、はじめは軽く前屈みになるように構えた。
少しの静止があり、だが、志乃が気づいたときには首を斬り落とすかというほど近くに刀身が当てられていた。
「う……そ……」
言葉は、腰が抜けてへたりこんだあとに聞こえた。
はじめが刀を収めて自分の右手を見下ろす。
「やはり馴染まないか。……すまないな、志乃さん。少し鈍かった」
「に……ぶ、い? ……に……?」
今ごろになって体が震えはじめ、志乃は彼がなにを言っているのか理解できずに繰り返した。
リビングの窓口で見ていた絵里と実が出てきた。
彼女が志乃に手を貸し、実は面白い光景だったと笑う。
「あれで鈍かったのか?」
「まあ、そうだな」
少しずつ落ち着いてきたのか、ぼんやりと見上げながら志乃は独り言のように呟いた。
「見えたときには……首んとこだった……見えたのに……」
それなのに動けなかったのだ。
やはりこれも気合いだったのか?
「俺……やっぱり気迫負けしてたの?」
と尋ねたのは、はじめにではなく実に対してだった。
彼は志乃の目の前に膝をついた。
「気迫じゃない。タイミングの問題だ。そうだろう? はじめ」
「タイミング?」
「物事の時期や瞬間のことさ」
「ああ……まあ、そういうことだ」
はじめもまた刀を腰から抜いてその場に座り込んだ。
あとは上半身だけで説明してくれたのだが、それによると居合いの威力というのはスピードが肝心らしい。
初めから刀を構え、相手を攻撃するとなると、どうしても振りかぶるとか突くとか、動作の用意が必要になってくる。
確かに、夕べの護とのトレーニングのときには、多少オーバーアクションではないかというほど動きは大きかった。
もっとも、あれは護の気を読みきれなかったはじめが、相手の油断を誘うためにわざとやっていたらしいが。
しかし居合いの場合、刀を抜く動作が即、攻撃という結果に繋がる。
いつ抜かれるかのタイミングは相手には測りにくいのだ。
だから、人間離れした速さではなかったものの志乃には対応できなかった。
見えていたのに動けなかった。
昨日の気迫とは違う意味で、だ。
最初は驚きながら聞いていた志乃の目の色が、次第に変わっていった。
「かっこいいなぁ……イアイって」
「これも身に付けてみるか?」
修行をするとなると何年もかかるかもしれないが、護にでも教えれば、志乃が習得するのは不可能ではないはずだ。
しかし、志乃はあっさり首を振った。
「俺は銃が専門だから、いらない。見るだけで満足だよ。なあ、もう一回見せてくれよ」
まるで子供のような好奇心だ。
だが、あるいはこれは、代理とはいえ大将としての素質の一部か。
はじめは快く頷いた。




