27
自分の部屋の明かりもつけずにただ、ベッドに腰を下ろしていた健の耳に、ノックの音が聞こえた。
ドアが開く。
「ケン、食事が……」
呼びにきたのは実だ。
真っ暗な部屋に僅かに首をかしげ、中を凝視する。
リビングにもキッチンにもいなかったから、てっきり部屋に戻ったと思ってここにきたのだ。
カーテンで、外からの明かりも入らない部屋の闇に目が慣れたころ、ベッドに塊が見えた。
手探りでライトをつける。
その僅かな間に、健は顔を覆ってうずくまった。
「具合が悪いのか?」
一応は小康状態とはいえ、日々の健康管理を見逃していないはずだが……。
健は腕の隙間から、目の前に膝をついた実を見たものの、そのまま顔を逸らした。
「大丈夫だよ」
しかし、声に力がない。
見せてはいけない弱さを抑えようとしていた感情が、実を見ただけでまた、溢れそうだ。
もう少しだけでいい……一人にしてほしかった。
彼を、治せない病気にしてしまった実にこそ見られたくなかった。
そう思えばそれだけ苦しくなる。
健は、初めて自分から実を抱き締めた。
「ケ、ケン?」
咄嗟のことに、実は嫌がることも忘れた。
「……どうしたんだよ?」
いつもなら、健の感情を読み取ることは不可能だ。
しかし、
「なんとなく、ね」
と抑えた囁き声が聞こえたと同時に、一気に彼の、溜まっていた感情が流れこんできた。
ひたすらにメンバーを想う暖かく、優しく柔らかい感情の中の、大きく拭いようのない悲しさ、寂しさ、孤独……。
それを我慢しようとする、実では到底受けとれきれないほどの努力の兆しで、思わず引き剥がそうとした手を、実は辛うじて止めた。
全部、自分の責任だ……。
ここまで健を追い詰めていたのか。
ほんの僅かでもバランスを崩すと、健は一気に壊れる……。
それほど、流れ込んだ感情は強く、儚かった。
自分のほうが流されそうだ。
健の感情に支配されそうだ。
実は、常に自分の感情すら他人のものだと考え、信じていなかった。
だから、周囲がどれほど混乱しようが、その時の状況を他人に任せていたのだ。
健が今までフォローしていたことに、実は気づこうとしていなかったし、たとえわかっていても、それが健の強さだと割りきって、決して自分が変わろうとはしなかった。
その結果がこれだ。
なぜ、急にこうなったかなど知る必要はない。
罪悪感で自分を見失いそうになる意識を、実は必死に食い止めた。
これ以上、彼に甘えてはダメだ。
健は、メンバーにとって自分よりはるかに必要な存在なのだから。
息を止め、彼の思いを受け入れると、実は深く吐き出した。
「……今まですまなかったな。きつかっただろう?」
「言わないで……くれ……」
「わざとだよ。オレの役目はおまえのフォローだろうが」
健の腕に力が籠る。
これ以上、なにも言ってほしくなかった。
弱味を見せれば、そうやって実は無理をする。
だから、いつも冷静でいなければならないのに……。
精神面で一番弱い実をこそ、守らなければならないというのに。
しかし、
「オレには言う資格はないんだが……」
実の言葉は止まらなかった。
「さすがにショックだったな」
弱く健が反応した。
「そこまで我慢していたんだな。それではおまえが惨めじゃないか。オレのことよりも、もっと自分のことを考えろよ」
「……はじめさんにも……言われたよ。けれど……わからないんだ。……我慢していたとは……思っていなかったから。……我慢……していたのかな?」
聞き返されて、実は目を閉じた。
健の感情の、どこを探しても我慢という抑えたものが感じられない。
ただ、今漂うのは、困惑した思いだ。
“……そういうことか”
メンバーの誰もが、一度ならず思ったはずだ。
なぜ、健はメンバーを頼ってくれないのか、と。
確かに、普段はまったく頼りない。
だからこそ実は、健の世話を全員でするように指示していた。
なのに、他愛のないことをなにも知らず、情けないはずの彼は、決して精神面では他人に頼ることがなかった。
その、真の理由が……。
“頼らないんじゃ……なかったんだな、ケン。知らなければ頼りようがない”
そして、我慢をしていたことすら自覚していなかったのだ。
誰かに苦悩を吐き出すことも、頼ることだという意味も理解できていない。
あるいは、そうさせてしまった責任の一端は実自身にあるのかもしれない。
彼は、静かに健を自分から離した。
俯いて、されるままになったその両肩を支える。
「ケン、思いきり叫ぶとか泣くとか、そういう感情は押さえ込んでいられるものじゃないんだ。あとに響くぞ。……確かに……」
肩を支えたまま、実はため息混じりに下を向いた。
面と向かっては、さすがに言えない。
「オレではフォローできないことだが、それでもいきなり抱き締められるより、泣き叫ばれたほうが楽だよ。オレが他人に触れられるのが嫌いなことを知っているはずだろう?」
励ましや慰めを決して口にしない実らしい言葉に、健は顔を覆って呟いた。
「おまえに……そんなことを言われるとは……」
「だから先に資格はないと言ったじゃないか。らしくないことは承知のうえだ。どうせ理由をいうつもりはないんだろう? けれど、バカみたいな叫びくらいは聞いてやるぞ」
健は、力なく首を振った。
「ごめん。……ただ……できればもう少し……」
そう言って、彼は答えも待たずにまた、実を抱き締めた。
仕方なく受け止める。
不器用で頑固な健だから、内に秘めたものを吐き出す術すら知らずにいるのも当然か。
いつも穏やかで、怒鳴ることもほとんどない。
たとえ声を荒げたところで、メンバーを思いやった言葉しか出てこない彼には、こういうことですら、実に伺いを立ててしまう。
そうやって、思いを押し込めて溜めていく。
流れてくる感情を、実はじっと、自分の中に染み込ませた。
健を追い詰めた責任を、今度は自分を見失うことなく受けとることで償うために。
“おまえを一人にするものか。……誰がなんと言おうと……おまえが望まなくても、オレはおまえについていくからな”
一人では逝かせない。
言葉にしない思いを、実は、健の髪に指を滑らせることで伝えた。
しばらくして、またノックが聞こえ、顔を覗かせたのは志乃だった。
中の光景に思わず声があがる。
「なに……やってんの……」
実がメンバーに抱きつく姿を何度か見ているものの、志乃はやはり驚いた。
その声に、健が慌てて離れる。
気まずいまま志乃に背を向けて、
「ご、ごめん」
と一言。
一体、誰に謝ったのか。
「どうしたんだ? ケン」
今の言いようだと、どうやら実からのモーションではなかったようだが。
健はごまかす言葉を探したが、結局何も言えずに首を振った。
「落ち込んでいたんだよ、こいつは」
代わりに実が答える。
「何で?」
「おまえがはじめにやられていたからさ。リーダー代理のくせに情けなかったんだそうだ」
「そ、そりゃないよ~」
志乃にしてみれば、本末転倒の言われようだ。
強くなるために、はじめに稽古をつけてもらっていたつもりなのだ。
もちろん、実にその真意が伝わっていないはずがなく、バカにしたように鼻を鳴らした。
「冗談も通じないのか? 別件だよ」
それから健に向き直る。
「ケン、悪いが食事ができているんだ。落ち込むならあとにしてくれ。オレはマモルの様子を見てくるから」
これが、実らしい優しさなのだ。
自分のことを信じていないからこそ、慰めの言葉は決して口にしない。
「不器用なおまえに、すぐに切り替えろとは言わないが、せめて顔でも洗っておけよ」
最大限に突き放した言葉が、今の健にはかえってありがたかった。
ドアが閉まる寸前に、
「代わりに付き添おうか?」
という志乃の声が聞こえた。
健は、静かになった部屋でしばらくは動けなかった。
気づいてしまった脆さを振り払おうとしても、浮かぶのは彼らの、細かい言葉や動きだ。
いつまでも彼らの側にいたい。
共にありたい。
立花の言葉で、考えないようにしていた本音が、日毎に弱さになって心の中に広がっていく。
“これが……恐怖、なのかもしれないな……”
いつか、志乃から聞かれたことがある。
死ぬことが怖くないのか、と。
死というもの自体を怖いと思ったことはなかった。
ただ、そのときも言ったのだが、怖いのはメンバーと別れることだ。
それが、確実に決まっているということだ。
そのため結局、護を他人に託さなければならないことが自分の限界であり、脆さなのだと実感してしまった。
だから心が晴れないし、今になって急に弱くなっている。
メンバーの前では平然としていなければならない気力が、ノーセレクトとまったく関係のない立花やはじめの前で、いとも簡単に切れてしまうのが証拠だろう。
最期まで情けないままで終わるんだろうな……。
健はようやく立ち上がると部屋を出た。
もちろん、気持ちの切り替えなどできない。
ならば、徹底的に落ち込んで慣れていくしかない。
志乃がそうやって立ち直ったように。
実に見られてしまった今、取り繕っても仕方がないのだ。




