レット49 出航
出航の日も、天候は良好だった。
タルーナの港に、ゆるやかな風波が押し寄せている。
その遥か彼方には、どこまでも広がる風海が続いているのだ。
甲板に立ち、レットはこれからの航海に思いを馳せる。
まずは旧トリヴァース帝国領のその後の状態を確認してから、ニイエル公国、更にはトリヴァース帝国へ向かう予定だった。
「本当に、世界を旅することができるなんて夢みたい」
隣に立つイルナの声も弾んでいる。
見ることはできないけれど、感じることはできる。様々なものに触れることはできる。
色を落とし、元に戻ったイルナの黒髪が、風波に吹かれてさらさらと揺れる。
「自分の船を持てるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだけどね」
今回乗り込んだのは、ごくごく小型の船だった。乗組員の数は、最小人数。
レットはトーリオも同行すると思っていたのだけれど、「まずはひとりでどの程度の仕事ができるのか見せてもらおうか」というトーリオの言葉によってあっさり却下された。
そして甲板にはティルシャがどしりと座り込んでいる。
もう自由なのだからどこにいようが構わないはずなのだけれど、どうやらイルナと一緒にいたいらしい。
この一ヶ月近くはイルナに頼まれて旧トリヴァース帝国領上空を飛んで結構な量の虹粉を撒いてきてくれたようだけれど、イルナが旅に出るとわかると、こうして船に乗り込んできてしまった。
おかげでただでさえ狭い甲板が更に狭くなるのだけれど、ティルシャも一緒だと心強いのは間違いない。
レットはラフル山へと視線を転じた。
レットとイルナがニール村に立ち寄った時、村はまだ混乱の真っ只中だった。
突然、様々なことが変わるとあっては、無理もないだろう。
けれど男衆をまとめる立場でもあるギュアンが先頭に立ち、ニール村の解放に向けて指揮をとっていた。
ギュアンとの再会はお互いに気まずいもので、挨拶を交わしたあとはしばらく沈黙が続いたけれど、やがてどちらともなく苦笑を漏らし、そこで空気が和らいだ。
レットは、男ふたりが向き合って立ち尽くしている様を客観的に想像して、いったいなにをやってるんだか、と自分に呆れてしまった末の苦笑だったけれど、ギュアンの苦笑にはいったいどんな意味があったのかはわからない。
ギュアンには「イルナになにかあったらぶっ殺す」と餞別の言葉をもらった。
レットは「イルナのことは俺に任せてくれればいいから、あんたは自分の心配をした方がいいよ」と応援の言葉を贈っておいた。
最悪な出会い方をしただけあって、良好な関係を築くのはなかなか難しそうだ。
真視の乙女たちは、銀水を欠かすことはできないけれど、もう真視を強制されるようなことはなくなった。
そして大きくなったティルシャは大人気だった。
既に白豆栗鼠たちは成長抑制剤を断っていて、乙女と契約をしていない白豆栗鼠の中には成長を始めたものも多くいるようだった。
それらが七彩獣になって、旧トリヴァース帝国領を緑でいっぱいにしてくれる日もそう遠くないに違いない。
そしてその風景をイルナにも見てもらいたいと、レットは思う。
あきらめるのは、世界中の端から端まで、全てをめぐりつくしたあとでいい。
この国の未来も。旅先で待っている様々な光景も。
全部全部、イルナと一緒に見たい。
「さあ、行こうか」
これはそのための一歩だ。




