レット46 聖女と七彩獣
「あれはっ……」
ラフル山脈を越え、前方に広がる黒々とした大地を見た時、レットは言葉を失った。
そこには本当になにもなかった。
どこまでも続く黒の大地。
その手前、ラフル山脈に程近い場所に、灰色の大きな塊がふたつばかりあるのが見えた。
その塊は徐々に伸び、接近しつつある。
あの灰色は、鎧の色に違いなかった。
鎧をつけた兵士たちの集団が、灰色の塊に見えているのだ。
「フェイレ!」
レットが悲鳴を上げる。両軍が今まさに激突しようとしている。
「ティルシャ、もっと近づいてくれ」
風に負けないように声を張り上げるフェイレの声が微かに聞こえた。
耳のよいティルシャにも当然届いているのだろう。
イルナが頼むわ、というようにティルシャの背をとんとんと軽く叩くと、ぐん、とティルシャが急下降を始めた。
「両軍共止まれ! 止まるんだ!」
フェイレが叫ぶが、その声は地上には届かないだろう。
けれど幾人かが急接近する獣の存在に気づいたようだ。
最初の数人につられたように、次々と兵士たちが空を仰ぎ見る。軍の動きが鈍る。
先頭を進んでいた騎馬も、いつしか駆けるのをやめていた。
ティルシャの尾翼から虹粉が地上へと撒き散らされ、人々の上に降り注ぐ。
ティルシャが両軍の間に着地する頃には、その場にいる誰もがすっかり動きを止め、ただ空から飛来した虹色の獣に目を奪われていた。
七彩獣、七彩獣だ、という声が、四方から聞こえてくる。
フェイレがティルシャの背から飛び降り、ゆっくりと歩き出した。
レットもティルシャの背から降りたけれど、その場に待機することにする。
イルナは降ろさなかった。
なにかあった時、イルナすぐにでも逃がせるように。
フェイレはデザナ平原のほぼ中央までゆくと、その場で足を止めた。
「我が名はフェイレ・オル・エウラルト。ガルト王の退位により、エウラルト王国第十八代国王に即位した。両軍とも速やかに退却せよ。私は戦争を是としない。トリヴァース帝国には和平協議を申し入れる」
フェイレの声が、平原に響き渡った。
ざわざわとどよめきが広がる。
皆、突然現れた国王を名乗る者と、それにつき従う七彩獣の存在に戸惑っているのだろう。
やがてトリヴァース帝国軍の兵士たちの中から、騎馬に乗ったひとりの男がゆっくりとフェイレの前へと進み出てきた。
「私はトリヴァース帝国軍の総大将を務めるゲーケィスと申します。陛下のお言葉、しかと拝聴いたしました。しかし我々もここまで来た以上、なにもせずに引き下がるわけには参りませぬ」
「だが、どうしても戦争がしたいわけではないだろう?」
「それはもちろんです。我々はただ母国を守るため、そして信仰のため、兵を進めて来たのです」
「そうだろうな。では、約束しよう。私は貴国への進攻を考えていない。そして貴公の言う聖女信仰に関しても、ひとつ伝えておきたいことがある。私は七彩獣と真視の乙女、そして聖女の地を解放する」
「やはり、聖女の地は消滅していなかったのですね」
ゲーケィスがラフル山を見上げる。
「ああ。現在もあの山に確かに存在している。そして七彩獣も、だ」
続いてゲーケィスはティルシャへと視線を向けた。
「これが七彩獣……。はっ、これはっ……」
ゲーケィスの声が微かに震えている。
続いて、なにかに気づいたかのように、ゲーケィスはその場に跪いた。
ティルシャの傍に立っていたレットは驚いて思わず半歩退く。
背中に柔らかいティルシャの体がふわりとぶつかった。
「聖女レイフェーリア……」
ゲーケィスの瞳は、真っ直ぐイルナに注がれていた。
イルナはザックで染めたままの栗色の髪をしているのに、それでもゲーケィスにはイルナがレイフェーリアに見えたようだった。
七彩獣の背に乗る、赤紫の瞳を持つ乙女。
ゲーケィスの動きを引き金に、トリヴァース帝国軍の兵士たちが一斉に膝をついた。
その様子に、エウラルト兵が目を瞠っている。
「レット、手を」
イルナの声に、レットははっと我に返った。
慌ててイルナの手を取ると、イルナがそっとティルシャの背から滑り降りるようにして、地面に立った。
「わたしはただの真視の乙女で、しかも聖女の能力は既に失いました。ですが今後の三大陸の平和を願う気持ちは、みなさまと変わりません。どうか戦争などやめてはいただけませんか」
深く頭を下げるイルナに、トリヴァース兵たちは感激し涙を流す者もいる。
その様子に、レットは圧倒された。
信仰とは、ここまですごいものなのか、と。




