イルナ8 過去の記憶
突風が吹き込み、風が寝具や服を舞い上げる。体が浮く。
「きゃあっ!!」
「イルナ!」
レットの腕の中から浮き上がりそうになったが、レットがイルナを抱く手に力を込め、すんでのところで引き止める。
船が引き裂かれる。
船室の床にも亀裂が入ってゆく。船体が起き上がり、寝台は風に飛ばされ、どこかへと姿を消した。
「俺につかまって!」
レットが叫ぶ。
言われなくても、イルナは力の限りレットにしがみついていた。
けれど寒さのあまり、指先に力が入らない。レットは壁に張ってあったロープを片手で掴み飛ばされるのを防いでいるけれど、体は強風に煽られる。
「大丈夫かっ!?」
トーリオの声が、すぐ近くで聞こえた。見ると、小型の救命艇がすぐ近くを飛んでいる。
「他の人たちは!?」
「みんな無事だ。だがこの船はもう沈む。こっちに乗り移れるか?」
レットはうなずくと、ちょっとずつロープの位置をずらしながら、救命艇へと近づいてゆく。
そのあいだにも船は壊れ続け、もはや船底がかろうじて繋がっているだけの状態だ。
大きな白い岩が、船内から転がり出るのが見えた。あれが大陸石なのだろう。転がり出た岩はそのままふわふわと風海を漂い、船から遠く離れて行く。
残された船体が、一気に下降し始める。
「急げ!」
トーリオの声に、レットは覚悟を決めたようだった。ロープを握る手を緩めるのと同時に、イルナたちの体が風に吹き上げられ、一気に上昇する。
体が空を舞う。
イルナは目を閉じた。けれどティルシャの目を通じて、周囲の景色が飛び込んでくる。
雲の切れ間に見える青い空。ふわふわと浮く大陸石。イルナをしっかりと抱きしめる腕と、救命艇から身を乗り出すトーリオの姿。
そのまま風に飛ばされてしまいそうだった体が、がくんと引っ張られた。
トーリオが、レットの腕をしっかりと掴んでいた。
レットが自分より先にイルナを小型艇へと乗せる。それから自分も小型艇へと乗り込んできた。
助かった。
そう思った瞬間、体に入っていた力が緩んだのかもしれない。ふわりと体が浮いたような気がした。けれどそれは錯覚だった。
視界に、自分の顔が映る。
違う、これはティルシャの見ている光景だ。
イルナは咄嗟に両腕に力を込めた。ぎゅっと腕の中にいるはずのティルシャを抱きしめる。そのつもりだったのに、腕の中は空っぽだった。
「ティルシャ!」
叫んだつもりだったけれど、声が出なかった。代わりに唇が裂け、血の味が滲む。
自分の姿が遠ざかる。レットとトーリオの姿も。
駄目!!
イルナはティルシャがいると思われる方に両手を伸ばした。距離感がつかめない。
必死に腕を伸ばす自分の姿が見える。
指先が、すぐそこに見える。あと少し。
イルナは身を乗り出した。
その瞬間――。
突風に煽られ、イルナの体が攫われる。
風に押し上げられたその瞬間にティルシャを捕まえることには成功した。
けれどイルナの体は救命艇から飛び出していた。巻き上げられた体が、風に見放されゆっくりと落下を始める。
落下するイルナの体が、救命艇に乗っているレットとすれ違う。その下は風海。
沈む――。
レットと目が合う。ゆっくりと、ゆっくりとレットの姿が遠ざかる。
レット、助けて、レット―――――!!
胸の内で悲鳴を上げる。その声は届かない。
助けて――。
風海に沈みながら、助けを求めて片手を伸ばす。
その時、ふわりと、視界に飛びこんでくるものがあった。
沈む自分を追ってくる人影、近づいてくる新緑色の瞳。
それは、どこかで見たことのある光景だった。
そう、遥か昔。まだほんの小さな子どもだった頃。
イルナに向かって伸ばされる救いの手。それは自分とたいして変わらない大きさの、子どもの手で……それでもイルナは必死にその手にしがみついた。
記憶の中の小さな手が、今自分に伸ばされている大きな手と重なる。
力強い腕が、痛いくらいにイルナの体を抱き寄せる。
「レット――」
きっとイルナの声は届かない。それでも、レットはしっかりとうなずいた。レットの腕の中は、とても暖かかった。
ふたりの体は、風海の底へと沈み続ける。風海の底は、水海の天なのか、それとも水海そのものなのか。
どこまで落ちてゆくのかわからない。それでも、レットに抱かれたまま落ちてゆくのならそれもいいかもしれない。
しかし、ふいにふたりの体は落下をやめた。それどころか、ゆっくりと浮上を始めている。
混乱するイルナに、レットが小さく笑いかける。
「思い出したよ、イルナ」
ニール村でおぼれた時のことを覚えていないと言っていたレット。それは自分も同じだった。
確かに、イルナたちを助けてくれたのはホークだったかもしれない。
けれどその前に川に飛び込んでイルナを助けてくれようとしたのは、レットだった。けれど岸にたどり着く前にレットも一緒に溺れてしまったんだろう。
それを、ホークが助けてくれたのだ。
「今度はちゃんと助けられた」
耳元で囁かれる声。
「もう大丈夫だよ」
優しい声がイルナを包み込む。
その声が何故かだんだん遠ざかってゆくような気がする、と思ったのを最後に、イルナの記憶はぱたりと途絶えた。




