レット32 出航
聖女の恩恵を受けている三大陸の気候は概ね穏やかで、それは風海を漂って移動しているにも関わらず一年を通して変わらない。
だが、風海に出るとそれは一変する。
大陸から離れるほどに気温がぐんぐん下がり、油断していると唇が凍ってくっついてしまうことだってある。
レットは防寒具に身を包み、風防眼鏡をして襟巻きを眼鏡のすぐ下までしっかりと引き上げ、甲板に立っていた。
トーリオの持つ商船はどれも帆船で、その航海は風波や風流に大きく左右される。
航海には風読みに長けた者が必要で、その点、レットたちが今回乗り込んだ船、イート・イーティ・イーツェリア号の航海士は優秀だと乗組員たちのお墨付きだ。
「海が見られるだけじゃなくて、まさか船で海に出られるなんて思ってもみなかったわ」
分厚い外套の下に髪の毛を入れ、頭にはふかふかの大きな帽子を被って耳までしっかりと覆い、顔はレットと同じく風防眼鏡に襟巻きという姿のイルナが、襟巻きの下で呟くくぐもった声が聞こえた。
手袋をはめた両手で、ティルシャを抱えている。ティルシャはその毛皮のおかげか、船の上でも平気そうだった。
「感動するだろ?」
今日は雲が濃くて青々と広がる風海の景色を楽しむことはできない。
けれど船に乗れば、大陸を離れてどこまでも行くことができる。
「それにしても、雷がやんでくれて助かったね」
ふたりの様子を心配して見に来たトーリオが安堵したように言い、空を見上げた。
もちろん、突然の天候の変化にも応じられるように船には工夫がしてあるし、レットたちが身につけている手袋や靴も、できるだけ電気を通さないような材料で作られている。
けれどそれらは万一の時に対する備えであって、雷が発生している時に海に出るような馬鹿はいないだろう。
「また発生し出す前にこの雲を抜けたいけど……厳しそうだな」
船には大陸の地下深いところから切り出した大陸石が積み込んである。聖女によって創られた三大陸が風海に浮かぶのは、大陸石の浮力のおかげだといわれている。
現に、大陸石を積まない船を海に浮かべようとすると船の重さによって沈んでしまうのだが、大陸石を積み込んだ船は沈まない。
ただし、いくら大陸石を積んでいても、船が壊れてしまえば、どうすることもできない。
例えばホークの乗った船が沈んだあの事故。原因は、
船と船との衝突だったと聞いた。
事故以外でも、強い風波などのせいで船が転覆した場合など、自然がこちらの想定した以上の力をもって襲い掛かってくれば、風海の上にある人間などひとたまりもないのだ。
それでも人は海へと漕ぎ出す。
海は恐ろしい。
けれど、その向こうに待っているもの――それを想像すると、レットの胸はどうしようもなく躍るのだった。
「今はニイエル大陸がエウラルト大陸へ接近している時期だ。この天候でも、明後日の朝にはニイエルに着けるだろうから、まあ心配はないよ」
航海に慣れたトーリオにしてみれば、この程度の天候は日常茶飯事なのだろう。
「そういえば、父さんはなんでニイエル公国へ行こうとしてるんだよ?」
「商用もあるがね。まあ、世界が大きく変わろうっていう時には、色々と根回しが必要だったりするんだよ。僕がやろうとしていることが、ホーク……フェイレのためになればいいと思っていることは間違いない」
「フェイレのため……」
話をした時の様子からして、両親はホークがフェイルとして生きていることをずっと前から知っていたようだ。
何故教えてくれなかったのかと文句を言いたい気もしたけれど、今回偶々レットがフェイレのことを知ったから教えてくれたのであって、レットがフェイルに会わなければ、きっと両親は話してくれなかったんだろうと思う。
つまり、レットがそのことを知らない方がいいと、判断されたのだ。
ことは国の大事に関わることだから、知らせない方がいいと。
複雑な心境だけれど、事前に知らせてもらえていたからといって自分に何かできたかといえば答えは否だ。
なんせ、自分のことで精一杯なのだから。
それは今回のことを見ても、明らかだ。
わかってしまうから、強く非難することもできない。
それでも、フェイレがしようとしていることを知った今、レットも自分にできることはないかと考えずにはいられないのだった。




