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エピローグ:朝は続く


季節が一つ、前へ進んでいた。


庭の色が変わっていた。

春の浅い緑ではない。

何度も水を吸い、何度も陽を浴びた葉の色だ。

最初に地面へ下ろした苗は、支柱がなくても自分で立つようになっていた。


私は朝いちばんに庭へ出て、葉の裏を確かめた。

虫はいない。

土の湿りは十分だった。

昨夜の冷えが、まだ地面の下に残っている。

指先に伝わる温度で分かる。


水差しを傾ける。

乾いた表面だけが先に色を変えて、水がゆっくり沈んでいく。


商会の中から帳場の音がする。

包み紙。荷札。誰かが名前を呼ぶ声。


忙しい。

でも、乱れてはいない。


---


午前、工房の机に向かった。


記録紙が広げてある。


表面白化。

内部残存。

静穏剤で沈降傾向。

浄化光、治療ではなく殻化。


あの夜に書いた文字だ。

インクの乾きが古い。紙の端が少しだけ黄ばみ始めている。


その下に、新しい行が増えていた。


暫定処方 第六案。

沈降抑制、短時間のみ有効。

水分保持と会話刺激、併用前提。

核の浮上を維持したまま殻を薄くする方法の模索。

単独では不足。組み合わせで補う。


まだ完成ではない。

完成には遠い。


けれど、白紙ではなくなった。


あの頃、記録紙の一番下に空白が一つあった。

「処方」と書くべき場所に、何も載らなかった欄。

蝋燭を夜通し灯しながら、何度も目が行った空白だ。


今、そこに文字が並び始めている。


六回書いて、六回とも完成しなかった。

でも、六回分の失敗が紙の上に積まれている。


教授が残していった記録は、別の綴じ紐でまとめてある。

筆圧の均等な、読みやすい字だ。

返事も感想も、いまだに一枚も送っていない。


あの人は、たぶんそれで困らない。

必要なら、また紙だけ置いていく。

そういう人だった。


私は新しい瓶の栓を確かめて、棚へ戻した。

瓶の中身は、第六案の途中まで来た配合だ。

まだ仮の形だが、前よりは近い。


核に届く薬はまだない。

でも、核の輪郭は見えている。


---


昼前、王国から定期報告が届いた。


薄い蝋。飾りのない紙。

もう何の感情も混ざっていない封だ。


応接机で開く。


赤なし運用、第十二週。

北市場の倒れ込み件数、前月比で半減。

南棟の布札運用、継続。聖堂側の独自管理へ移行中。

西棟の代替処方、第二段階。


数字ばかりだ。

乾いた言葉ばかりだ。

その乾き方がちょうどいい。


最後の欄には、もう個人的な一文もない。

契約条件の確認と、納期の照会だけ。


あの手紙が入っている浅い箱は、もう開いていない。

開く必要がなかった。


南棟の補足欄に、小さく名前が一つ載っていた。


補助記録係 ルミナ


肩書はそれだけだった。

名前は消えていなかった。


私はその行を二度読んで、紙を閉じた。

契約書の箱へ入れる。


窓の外で、風が看板を鳴らした。


---


午後遅く、カイルが戻ってきた。


市場へ二往復した後の足音だ。

重くはない。でも、朝より少しだけ遅い。


片手に麻袋、もう片手に小さな木鉢を持っている。

木鉢の中に、まだ幼い苗が入っていた。

葉は小さい。だが色がいい。


「何それ」


私が訊くと、カイルは少しだけ得意そうな顔をした。


「北の市場のばあさんが寄越した」

「前の薬、効いたってよ」


私は鉢を受け取った。


軽い。

だが根の張り方は悪くない。

もう少し大きい鉢か、地面に下ろした方がいい。

西の柵の近くなら、午後の日もきつすぎない。


「植える場所、ある?」


カイルが言う。


「あるわ」


「じゃあ、明日な」


明日。


その言い方が自然に出るのが、今のいちばん良いところかもしれない。


私は鉢を窓辺へ置いた。

葉に夕方の光が当たって、薄緑が少しだけ金色に縁取られた。


「リオは元気?」


私が訊く。


「南棟の手前を仕切ってる。声が前より通るようになった」


「ベルノは」


「顔は相変わらず最悪」


私は少しだけ笑った。


「でも、布札はもう誰も珍しがってねぇ」


カイルがそう言って、自分でも少しだけ笑った。


前みたいに、何かの終わりにやっと出てくる笑い方じゃない。

話の途中で、普通に出てくる笑い方だ。


「処方、進んでんのか」


カイルが工房の方を顎で示す。


「少しだけ」


「少しってどれくらいだ」


「六回やって、六回とも失敗した程度」


カイルは一瞬だけ黙って、それから鼻を鳴らした。


「お前の“少し”はいつも重ぇんだよ」


「でも、白紙じゃなくなったわ」


その一言に、カイルは何も言わなかった。

言わなかったが、目が一瞬だけ工房の棚の方を見た。

瓶が並んでいるのが見えたのだろう。


「明日、土仕事だぞ」


「腰に来るのよね」


「お前も分かってんじゃねぇか」


「ええ」


私は窓辺の鉢の葉を指先で軽く触れた。

揺れる。まだ根が浅いから、少しの力で揺れる。


「嫌いじゃないわ」


カイルは鼻を鳴らした。

否定はしなかった。


---


夜。


灯りを落とす前に、もう一度だけ工房を見た。


棚に瓶が並んでいる。

記録紙が綴じてある。

教授の記録が別の紐でまとまっている。

新しい苗が窓辺にいる。


処方はまだ完成しない。

王国はまだ苦しい。

聖堂もまだ完全じゃない。

布札も、いつかは要らなくなる形に変えなければいけない。


それでも、今夜はちゃんと夜だった。


私は灯りを消した。


布団に入る。

少し残っていた冷たさが、自分の体温にすぐ変わる。


目を閉じた。


暗い。

でも、怖くない。


小さく、声に出した。


「おやすみなさい」



-完-

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