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大団円:世界は回る


朝の庭は、前より少しだけ広く見えた。


土地が広がったわけではない。

鉢が減ったのだ。

先週まで窓際に寄せていた若い苗のいくつかが、もう地面へ下ろされている。

根が張ると、物は静かになる。


私はしゃがんで、葉の先を指で確かめた。

昨夜の冷えは残っていない。

露が一粒、葉脈に沿って光っている。


薬草は、育つ時に音を立てない。

それがいい。


裏工房で眠っていた人たちは、もういない。

ダレスは自分の足で戸を出た。

レトは帰り際に、また魚の名前を忘れたら来ると言った。

サナもノアも、もうこの庭を知らない場所のままにして帰っていった。

蝋燭も消えた。

布札は籠へ巻いたまま積んであるが、昨日みたいに急いで減る気配はない。


静かだ。


静かで、ちゃんと朝だった。


私はそこで、ほんの少しだけ思った。


……私、まだ生きてる。


その言葉は胸の中でだけ鳴って、すぐに土の匂いへ沈んだ。


「また見てるのか」


後ろからカイルの声がした。


振り返ると、片手に木箱、もう片手に帳面を持っている。

髪は少し跳ねていた。

だが顔つきは前よりずっとましだった。

朝から怒っていない顔をしている。


「見るわよ」


私は立ち上がる。


「昨日枯れてないものは、今日も見たくなるでしょう」


カイルが鼻を鳴らした。


「縁起でもねぇ言い方すんな」


「事実よ」


木箱の中を覗く。

乾燥薬草、包み紙、瓶が三本。

どれも普通のものだ。

熱を少し下げるもの。

喉を少し楽にするもの。

眠るためではなく、眠りへ入る前を穏やかにするもの。

そういう普通のものばかりだった。


「今日の荷、午前に来るぞ」


カイルが言う。


「北の塩と、隣国の瓶。それから王都向けの分も」


「ええ」


私は頷いた。


王都向け。

もう、その言葉に前ほど重さはない。

大きいが、絶対ではない。

それで十分だった。


---


商会が開くと、人の声がちゃんと流れ始めた。


帳場の前に客が立つ。

包み紙が鳴る。

荷札を切る音がして、奥では瓶を棚へ戻す音が続く。


どれも急いでいない。

急いでいないのに、止まってもいない。


私は工房で薄い煎じ薬を濾していた。

香りが立つ。

派手ではない。

でも、こういう薬の匂いが部屋に残る日は、だいたい商売がまともだ。


「白札、二本追加しとくぞ」


帳場の方からカイルが言う。


「黄は?」


「まだ三本余ってる」


「赤は」


「使ってねぇ」


その返事に、私は少しだけ肩の力を抜いた。


札は今も置いてある。

なくしたわけではない。

なくせるほど、世の中はまだましじゃない。

でも、使っていないと聞ける朝は悪くない。


表で、若い使いが少し高い声を出した。


「こっち、どこへ積めば――」


「日陰」


カイルが即座に言う。


「直射だと飛ぶ」


返事のあと、木箱を持ち上げ直す音。

迷いが短い。

ちゃんと伝わっている。


私は濾紙を外しながら、その音を聞いていた。


しばらくして、工房の戸口にもたれていたカイルが言う。


「忙しいな」


「ええ」


「平和ってやつか」


その言い方が少し可笑しくて、私は鍋の火を見たまま少しだけ笑った。


「忙しい方の平和ね」


「静かなだけより、そっちの方が商売は助かる」


「そうね」


それで会話は終わった。


終わる時に、何も引っかからない。

そういうやり取りが、前よりずっと増えた。


---


昼過ぎ、王国から定期報告が届いた。


今はもう、最後の手紙みたいな封ではない。

実務の封だ。

王家の紋はあるが、飾りはない。

蝋も薄い。

文面のためではなく、ただ届けるための封。


私は応接机でそれを開いた。


赤なし運用、第三週。

北側配給線、遅延縮小。

南棟の布札運用、定着。

代替薬の試験配布、継続。

市場の倒れ込み件数、減少傾向。


数字ばかりだ。

乾いた報告だ。

でも、乾いている方がいい。


最後の欄だけ、少し字が変わっていた。

王太子の手で入った一文だと分かる。


『西棟にて、供給線の再編を継続中。契約条件の変更要望なし。』


要望なし。


その四文字に、今の距離がそのまま入っていた。


戻ってほしいも、会いたいも、助けてくれもない。

ただ、契約条件の変更要望なし。


私はその紙を畳んだ。

契約書の箱へ入れる。

最後の手紙が入った浅い箱ではない。

ちゃんと別だ。


窓の外では、風が看板を少しだけ鳴らしていた。

木の擦れる小さな音。

この町の昼の音だ。


王国は遠い。

遠いままで、回り始めている。


私はそれを見届けない。

見届けなくても回るようにした。


---


夕方、庭に水をやった。


昼の熱が少し下がって、土の匂いが戻る。

水差しを傾けると、乾いた表面だけが先に濃く色を変える。


カイルが遅れて出てきた。

今日は市場まで二往復したらしい。

袖口にうっすらと土がついている。


「王国、どうだった」


水差しを置いたまま、私は訊く。


「まだ死にそうな顔してる」


カイルが言う。


「でも死んでねぇ」

「布も回ってたし、聖堂の入り口も前より静かだった」


「リオは?」


「南棟の手前を仕切ってる」

「あいつ、声が前より通るようになった」


「ベルノは?」


「顔は相変わらず最悪だった」


それは想像がついた。

私は少しだけ笑った。


「教授は」


「先週、記録を置いて王都へ戻った」

「また来る、とは言ってなかった」


それが教授らしい。


カイルは庭の鉢を一つ覗き込み、それから空を見た。


「もう戻んねぇんだよな」


その問いには、迷う余地がなかった。


「戻らないわ」


私は答えた。


「必要がないもの」


カイルは頷いた。

それで終わる。

そういう確認の仕方が、この男らしい。


「じゃあ、次は裏を棚に戻すか」


「ええ」


裏工房は、いつまでも臨時のままではいけない。

必要な時に開ける。

必要でない時は、ちゃんと普通の物置に戻す。

そういう線引きも要る。


私は庭をもう一度見た。


露はもうない。

葉の色が夕方の方へ変わっている。

昼の強さが少しだけ抜けて、緑が深くなる時間だ。


「明日は、北の鉢も下ろすわ」


私が言うと、カイルは少しだけ嫌そうな顔をした。


「また土仕事かよ」


「嫌?」


「嫌いじゃねぇけど、腰に来る」


その答えが、前よりずっと柔らかかった。


---


夜、商会の火を一つずつ落とした。


帳場。

工房。

奥の棚。

最後に、裏の灯り。


裏工房には今、寝台も症例もない。

棚板を戻し、箱を積み直し、木枠を壁へ立てた。

それだけで、あそこはまた“物を置く場所”に見える。


見えるだけかもしれない。

でも、見た目は時々大事だ。


私は最後の戸を閉めた。

閉まる音は小さい。

この町の夜に混ざれば、すぐに消えるくらいの音だった。


奥の机には、明日使う帳簿が揃っている。

工房には、朝に濾す薬が一つだけ置いてある。

契約書の箱は閉じていて、浅い箱も閉じている。

庭の土は、夜の冷えを待っている。


どれも、奪われない位置にある。


私は寝台の脇で髪をほどいた。

窓の外では、遠くで荷車が一台だけ遅れて通っていく。

誰かがまだ働いている。

世界は、もう勝手に回っている。


私は灯りを小さくした。


王国はまだ苦しいだろう。

聖堂も、まだ完全じゃない。

布札だって、いつかは要らなくなる形へ変えなければいけない。

処方の欄も、まだ白いままだ。


でも、今日はここで終われる。

それが大事だった。


布団へ入る。

冷たさが少しだけ残っている。

その冷たさが、すぐに自分の体温へ変わる。


私は目を閉じた。


「おやすみなさい」


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